5-2 約束だよ、グッドフェロー
気付けば、僕は立ち尽くしていた。ずっとその場所で。どこへ行く事も、どこからやってくることもなく。呆然と、まさに今、夢から覚めたかのように。
そこは、小さな部屋だった。古いけれど、よく磨かれた窓。壁紙に描かれた控えめな蔦柄は、微かに色をくすませている。葡萄色の分厚い絨毯は雲のように柔らかい。
部屋の真ん中に、陽だまりが出来ていた。窓の格子を映して、十字に区切られた半円。中心に、少女がいる。
彼女だ。
あの日と同じ。六歳の少女。美しく伸びた金髪。夕陽を浴びて、白い肌が蜂蜜のような艶を放っていた。丸みを帯びた手指を胸元で組み、両眼を閉ざしたまま天井を仰いでいる。さながら死者のように。
(死んだフリだ)
声をかけても、絶対に反応しない。痺れを切らして近づいて来る者に対しては、容赦なく足に絡みつき、引き倒し、身体中をくすぐり尽くす。またの名をセミ爆弾。
僕は、とりあえず周囲を見回した。何か役に立ちそうなものがないか、一通り観察を終え――窓の傍に立てかけられていた、必殺の武器を手に取ると。
「――へ」
「へ?」
「へぶしっ」
予想を遥かに超えた、おっさんめいたくしゃみ。人形めいた造作が、一瞬にして台無しになる。
僕は、苦笑が浮かぶのを感じながら、彼女の顔を蹂躙し終えたはたきを下ろした。
「ズルいっ」
勢い込んで起き上がる彼女。
「ズルくないよ。人は道具を使う生き物だよ」
「屁理屈だ!」
「はいはい」
彼女がむくれると、ただでさえ滑らかな頬が、開きかけた蕾のような美しい線を描く。
「ホント嫌なやつだよね、グッドフェローは」
不満気な声。それもなんだか懐かしく感じて。僕は口走る。
「ゆきはヒドいことばっかり言う」
――そう。そうだ。ゆき。それが、彼女の名前。
お互いに睨み合い、しばらくを過ごし――それから、ゆきと僕は、大袈裟に笑いあった。お腹がよじれるぐらい、派手に転げまわるように。
目尻から零れた涙を拭いながら、僕はようやく呼吸を落ち着ける。
呟いた声が思ったよりも小さかったのは、まだ少し、心臓の鼓動が早かったせいかもしれない。
「……どうして、こんなことをしたの」
ゆきは小首を傾げる。多分それは、問いかけなのだろう。
「どうして僕を呼ばなかったの。彼女を、皆本さんを連れて行ったりしたの?」
声が震えないように、精一杯喉を開く。
ゆきは、それでもしばらく、僕の顔をじっと見つめていた。
「どうしてって、何が?」
鈴鳴りに似た、声が問う。
「――楽しくなかった?」
僕は、答えに窮した。理解が出来なかったから。
(楽しい?)
一体何が。この状況が? 皆本さんを追って、こんな奇妙な場所までやってきたことが? それが楽しかったかどうかと?
「――楽しい訳っ、ないだろ!!」
自分でも驚くほど、大きな声だった。ほとんど叫ぶように、僕は言い放っていた。
「ふざけるのもいい加減にしろ! 早く彼女を返せっ」
肌の裏側で燃え立つような、激しい感情の奔流。
殷々とした谺の後に、やがて静寂が訪れた。
ゆきの白い面が、見る見るうちに歪んでいく。
「……だって」
火薬が化学反応を起こしていく様を、スローモーションで見ているような心地だった。
「だって、ズルいんだもん! わたしずっとずっとグッドフェローのこと探してたのに!あの子、楽しそうにしてて、わたしヤダったんだもん! だから、だから、仕返しだよ! グッドフェロー、わたしのことより、あの子が好きで、だから、仕返しなんだもん!」
まったく馬鹿げていると思った。妖精というのは、どうしてこうも子供じみているのだろう。この十五年で、むしろ彼女は幼くなっているのではないかという気さえした。
さっきまで頭に昇っていた血が、急激な勢いで冷めていく。
改めて辺りを見渡すと、やはりそこは僕が知っている「おばあちゃんち」のようだった。古めかしい洋風の建物に見えて、暖炉の枠や部屋の欄間には鶴や松といった日本風の意匠が施されている。和洋折衷の内装は優美で、けれどどこか滑稽でもあった。
僕等がいる小さな応接室は子供達の遊び場だった場所で、心なしか調度にも傷が多い。跳べば三足で端から端まで横断できるこの部屋に、僕達二人の他、人の気配が無いことは明らかだった。
「……皆本さんは、どこにいるの?」
別に懐柔するつもりもなかったのだけれど、殊更に優しげな声を出してしまって、自分でうんざりする。
「…………」
ゆきは暫くの間、その青い眼で僕を睨みつけ――
「――そこ」
と、言葉少なに、部屋の隅のソファを示す。
どういう訳か、今更驚く気にもならなかった。むしろ、薄々感じていたことが、はっきりと確信に変わったことで、微かに安堵さえ憶えていた。
そこには、一人の少女がいた。やはり革張りのソファに横たわって。さっき目を向けた時、そこには人影どころかソファさえ無かったというのに。
(なんでもありだ)
ここは妖精達の国だ。どんな不可思議だって、きっとあり得る。
例えば、そう、目を閉じた少女が、皆本泉そっくりで――しかし、小学生ぐらいの年頃だったとしても、それもやはり事実として受け止めるしかないのだろう。
僕は自分の正気を疑った。疑ったところで、どうにかなるものでもなかったけれど。
「一緒に、遊んでもらおうと思って」
ゆきの声。
その口振りが、僕に一つの事実を推測させる。彼女にはそれができるのだと。人を子供に還してしまう――文字通りの意味で――不思議な力があるのだと。
一体全体、妖精とは何なのか。首も無いまま走り回り、言葉も無いまま意思を交わし、歳を取らないばかりか気安く若返ってみせる。
「でも、もういいよ。その子はいらない。あなたが来てくれたから――グッドフェロー」
決して歳を取ることのない、永遠の少女ともいうべき彼女は、あっさりと言ってのけた。
僕は振り向く。そして言う。
「……彼女を元に戻してくれ。そして、帰してあげてくれ」
「戻す? 何が?」
「とぼけないで」
僕は語気を荒げたつもりだったが、ゆきはやはり要領を得ない様子で、
「その子が自分でそうなったんだよ。自分は子供なんだ、って思ったから」
「……君と同じ。一人ぼっちで、寂しがり屋の?」
先程までの怒りが嘘のように、彼女が笑う。
「そうだよ。あなたと一緒」
――とうとう僕は狂ったのか。でなければ、やはりこれは夢なのか。
彼女の青い瞳が、まっすぐ僕を見つめている。同じ高さで、真正面から。
自分の手を見る。ああ、そういえば、十五年前は、こんな風に丸い指先だったのかもしれない。柔らかくて脆弱な、僕の右手。そして、長く垂れ落ちる癖毛――斜陽に照らされて、金色の滝のように、視界の端で揺れている。
「ねえ、約束だよ、グッドフェロー。もう一度遊ぼう。もう一度、交換しよう。今度は、あなたが妖精で、わたしが人間」
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