5-3 笑顔のないものに幸福は訪れない

 子供の頃、こんなことがあった。

 ボクはいつものように、夜を彷徨っていた。それは誰かに命じられた訳ではなく、ただボクがそうしたいと思っていたからだった。例えば野原で踊ることを続けるものがいるように、例えば人やうさぎに悪戯を続けるものがいるように、ボクはいつも彷徨うことを続けていた。理由は特にない。強いて言うなら、その日は良い満月で、森がいつもよりかしましかったからだ。

 風が強く吹いてきたので、その行く先を追いかけて、翅の運び先を変える。

 風の先には花があった。広い花壇だ。多分、人間が育てたものだろう。彼らは同じ事を繰り返すのが得意だ。同じ花を同じ場所に植えて、同じように咲かせ続ける。

 珍しいのは、花壇の傍に人間がいることだった。満月の下で彼らと出会うことは、あまり無い。彼らは月が嫌いなのだろう。理由はボク達が太陽を嫌うのと同じ。見えるはずのものが見えなくなるから。

 座り込んでいたのは、女の子だった。人間にしては、随分と泥をまとっている。どちらかと言えば、猿に近い方の人間だ――最近は見なくなったと思っていたけれど、まだこの辺りにもいたのだ。

「やあ。いい夜だね」

 ボクは嬉しくなって声をかけた。珍しいものは好きだ。美しいものの次に好きだ。

「……だれ?」

 女の子は笑わなかった。笑顔のないものに幸福は訪れないと言っていたのは、確か人間のはずだったけれど。

「だれ、というのはどういう意味?」

「え?」

「人間はよくその言葉を口にするけれど、あまり挨拶としては良い音じゃないと思う。ボクだったら、もっと洒落た音を使うよ」

 言って、ボクは口をすぼませた。細く息を吐いて、音楽を奏でる。春の歌だ。

 女の子は唖然として、ボクを見ている。

 一曲を終えて、ボクは笑う。なかなかの出来だった。

 気分がいいので、一つ質問をしてみる。

「……君は泥が好きな人間なの? 珍しいね、そういうタイプは大分少なくなったと思っていたのに」

「違うよ」

 彼女が首を振る。おかしな人間だ。好きでもないのに泥を被るか。乾くと痒くなるので、あまり快適とは言いがたいというのに。

「では夜が好き?」

「……違う」

 その割に、こんなにも夜が美しい場所を知っている。

「君は不思議だね。好きでもないのにこんな所にいる」

「……あなた、何なの? その羽根は、何?」

 彼女から初めての質問だ。ボクは気合を入れて考える。

「この羽根は……ボクの一部だ。妖精女王クイーン・メイヴがくれた、黒蝶々の翅さ」

 パタパタと空打ちさせるが、彼女は目を丸くするばかりで、感心の一言も無い。これだから人間という奴は。

「……妖精さん、なの? 名前は?」

 ボクは頷いてから、少し首を傾げて、

「――名前? ああ、なんだったかな。昔付けてもらったんだ。本当だよ、人間が付けてくれたんだ。いい名前だったんだけど、うっかり忘れてしまって」

 なんてみっともない。ボクは慌てて、話題を変えることにした。

「君は? 当ててみせようか。泥まみれマディだろ」

「違う」

 彼女はまたしても否定する。

「わたしは、

?」

「違う。

 ボクは少し考えて、それから、笑った。

「いい名前だね。雪」

 彼女は怒ったように、繰り返した。

「違う。由紀だってば」

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