1-3:多分、それも、何かの間違い
気付けば僕は、正座していた。
右も左も分からないまま、青いビニールシートの上に。
「ほらほらほら、ゆきちゃん、飲む? 飲む飲む? わいわいする?」
「あ、ありがとう、その、うん、ええと」
今の僕が一つだけ断言できるとすれば、皆本泉という人は酔うと絡み癖がある、ということだけだ。
獣のじみた動きでにじり寄ってくる泉の手には、一升瓶が握られている。酒の名前などよくは分からないが、チラチラ見えるラベルには、甲類焼酎の文字が踊っている。
「あのね、これね、すっごいの、なんか水みたあいって感じでね」
「泉さん、あの、あんまりその、無理強いは」
「なあにぃ、志乃ちゃんも飲みたいの? ん? んん?」
まるで粘性流体のように、泉は縦横無尽に暴れ回る。僕に絡んだかと思えば、今度は窘めようとした後輩へと。
「ちょ、泉さん、わたしそんな、もういっぱいですって」
「ええっ、嘘ぉ、なんでよう! わたし志乃ちゃんと一緒がいい! 一緒! 一緒!!」
駄々のこね方は、まるで子供じみている。年の頃は僕とそんなに変わらないはずなのに。
志乃ちゃんと呼ばれた少女の方が、年下なのは明らかだった。泉と比べてもまだ幼く見える外見。真っ直ぐ伸びた黒髪としっかりした眉が、柔らかい顎の線と合わせて、ほとんど中学生みたいな印象を受ける。
「ごめんなさい泉さん、あの、ちょっとお水でも――」
目の座った泉に語りかける表情は、いっそ健気といっても良い。
「隙あり!」
それは一瞬のことだった。泉は素早く志乃ちゃんに跳びかかると。
「つーかーまーえーたーぞーにひひひ」
「や、ちょっと泉さ、そこ、くすぐった、あは、あはは、やめてひひひひ」
脇と言わず腰と言わず、全身をくまなく弄りはじめた。
志乃ちゃんは身を捩って逃げようとするけれど、泉の手はとんでもない素早さで彼女の身体を這い回る。
「どぅはははは、やはははは」
「だめだめ、やめ、こら、この、泉さんって、あははは、ははは」
その執拗な攻撃に、志乃ちゃんは反撃を試みるが、いかんせん旗色が悪い。グレーのニットの下にまで手を突っ込もうとする泉の傍若無人は、ほとんど犯罪的だった。
「もー、泉さん、怒りま、おこ、や、ダメですってそこは、そこ弱いんですぅ」
「えへ、えへへへぇ」
僕は少しだけ、出会って間もないというのに、志乃ちゃんに同情を覚えていた――それと同じぐらいの羨望も。
(いや)
自分を落ち着かせる為に、胸中で呟く。
くんずほぐれつのキャットファイトに見入っている場合ではない。もっと見るべきもの、聞くべきことがあるはずだ。まだ僕は何も知らないのだから。
(そもそも、これは一体何の集まりだ?)
先程僕をこき下ろした咲原才子が、少し離れた所で、また違う女性――ジャケットとタイトスカートという落ち着いた出で立ちの人――と、静かに缶チューハイを開けている。時々ちらりと僕を見ては、隣の女性に何やらボヤいていた。
一体何なんだ。
僕はそんなに嫌われるようなことをしただろうか? 喋り方だろうか。態度だろうか。もしくは外見とか。
しかし、見た目が気に食わないなどと言われても、生まれつきの顔であれば、今更変えようもない。甘すぎる目付きや、くしゃくしゃとした髪に、僕だって不満が無い訳じゃない。だからって、それはただ、それだけのことじゃないか。
何もそんなに、嫌がらなくたっていいのに。
なんだか妙に暗い気持ちになってきて、僕自身、少し酔ってきたのだと気付く。進められるままに開けた缶ビールを、ようやく一つ空けたばかりなのに。
頭を振って、火照る頬を冷やそうとする。
こんなことだから、友達もなかなか作れないのだ。みんなが楽しんでいるなら、僕だってそこに合わせていかなければ。
でなければ、僕はいつまでも異分子のままだ。
「暗いね、君」
気付くと、傍らに女性が立っていた。発泡酒を片手に、ゆっくりと腰を下ろす。
「悪いね。あいつら、空気読めなくて。馬鹿だから」
「いえ、そんな、全然。僕の方こそ、なんでいるのかって感じで」
僕は内心、ほっとした。まだしも、話が通じそうだと思ったのだ。
話す彼女は、どこか眠たげな眼だが、少なくとも酔っ払っているようには見えない。化粧の匂いがまったくしないことも、僕を落ち着かせた。黒髪も伸ばしっぱなしなのだろう、所々が寝癖のように散らかっている。
「咲原から聞いたけどさ、君、あれでしょ。うちの大学なんだって?」
「はい、教育学部です」
「サークルとか、入ってんの?」
僕は苦笑いで、それに応じた。
「いえ。タイミング、逃しちゃって」
「ふーん」
訊いておきながら、気の無い返事。僕は慌てて、言葉を探す。
「皆さん、サークルの集まりなんですか」
「君さあ、ウチ入らない?」
「……え?」
話が噛み合っているようで、全然噛み合っていない。
オリーヴ色のコートから煙草を取り出し、彼女は僕に差し出してみせた。
「いる?」
「いえ、僕、煙草は」
「あっそ」
一本をくわえ、ライターを弾く。
しばらくの後、彼女は緩やかに紫煙を吐き出した。
「ウチね。あのね、見ての通りなのよ。自由なの」
そう言って、赤く輝く煙草の先が、辺りを示す。
もつれ合う泉と志乃ちゃん。囁き合う才子と女性。そして彼女達を眺める、のんびりとした眼差し。
それは自由というか――まるでバラバラのように、僕には思えたけれど。
「だからさ、どうかなって。君、見込みありそうだし」
一口発泡酒を飲み、彼女はまた煙をくゆらせ始める。
なんと答えるべきか。
考えるまでもない――考える材料がないのだから、考えようもない。
僕も手近なチューハイに口をつけ、一つ息を吐いた。
「あの。聞かせてもらってもいいですか」
彼女は眉を上げて、こちらを見やる。
「お。何でも訊いて。言っとくけど、サークル内恋愛は個人の自由だから、心配しなくていいよ」
口の端で見せる、にやりとした笑い。
僕は思い切って、彼女を正面から見やった。
「――そもそも、ここは何のサークルなんですか?」
少しの間。
ぽかんとした顔で、見つめられる。その顔がしたいのは、僕の方だ。
「……悪い、それは、予想してなかったわ」
「はあ。すいません」
この人も確かにこのサークルの一員なのだ、と僕は納得する。一見落ち着いているようで、どこか栓が抜けている。
くわえていた煙草を携帯灰皿に押し込み、彼女は両手を広げた。漠然と辺りを包むようにしながら、
「児童文学研究会」
「え」
「という名前で、大学側には登録してるよ」
予想外の答えだった。
どこが児童で、どこが文学で、どの辺りが研究しているのだ?
考え込む僕を察して、彼女が頷く。何を察したのか知らないが。
「この後、付き合いなよ。ウチが何してんのか、教えてあげる。特別にね」
興味が湧かなかったといえば、嘘になる。
こんなに適当で、マイペースな人達が、一体どうして寄り集まり、サークルなど作っているのだろうか。大学のサークルなんて、どこもこんな調子なのだろうか? 真夜中に行う、児童文学に関わる活動とは、一体どんなものなのだろうか?
疑問は数限りなかった。
だが、僕はとりあえず、一つ目から片付けることにした。
「もう一つ。お名前、訊いてもいいですか」
「明日香。
切り返されて、唖然とする気もしない。名前も知らない男を、サークルに勧誘していたのか、なんて。
「浅野です。浅野由紀彦」
明日香先輩は軽く目を見開いて、僕の顔をようやく見た。
「なるほど、それでゆきちゃんか」
一人で何度か頷く。何に納得しているのか、問い詰めたい気持ちを、僕はぐっと堪えた。
青い缶を差し出される。思ったよりも、小さな手。
「よろしく、ゆきちゃん」
僕は何か、答えようとして――結局、自分の持っていた缶を、先輩のそれに打ち合わせた。
多分、それも、何かの間違いだったのではないかと、今になって思う。
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