1-4:果てぬ夢こそ真夜中に

 そうして僕は、やっぱり真夜中の公園に立ち尽くしているのだった。

 頭には安全ヘルメット。手には金属製の虫取り網と、コルク栓の小瓶。そばには、モッズコートの女性――児童文学研究会副会長、槇田明日香。

 区立公園の外れにあるのは桜ばかりで、人の気配はどこにも無かった。終電もとうに終わって、花見客も三々五々、解散してしまったらしい。あんなにも鬱陶しかった酔っ払い達が、今は恋しかった。何故かといえば、春先の夜風は思ったよりも肌寒く、その中で、意味も分からないまま木々のざわめきに耳を澄まし続けるのは、それなりに苦行だったからだ。

 明日香先輩は言った。児童文学研究会の活動を、見せてやると。

(これの、一体どこが?)

 午前二時を過ぎた頃だろうか。他にいた四人のメンバーは、あれだけ酔っていたにも関わらず、示し合わせていたかのようにそれぞれ公園へと散らばっていった。明日香は大きなボストンバッグから一式を取り出し、僕に身に付けさせると、この遊具だらけの広場まで連れて来た。

(約束は、二つ)

 先輩の指示に必ず従うこと。

 そして、眼に映るもの全てが、真実だと思わないこと。

 ――言ってしまえば、正気の人間の沙汰ではないと――少なくとも素面の人間のやることではないと、僕は思った。自分の眼を信じないで、他に何が信じられるだろう。

 どちらにせよ、というなら、やはり自身の眼で見るしかないのだろう。

 僕は視線を上げる。

 高く育った桜の木々が、僕達を取り囲んでいた。月の明かりに透ける花びらは、ぼんやりと光っているようにも見えた。心なしか、望月を抱く夜空さえ、ほのかに輝きを帯びはじめる。

 奇妙な夜だった。それは、宴会の名残や春の湿度、真夜中の静けさとも違う何か。身体の奥が痺れるような、足元から浮き立つような気配。

 ふと、手首の時計に目を向ける。

(……止まってる?)

 液晶には、何の文字も表示されていなかった。ボタンを押しても、何の反応も無い。

 電池切れはあり得ないはずだった。ソーラー電池で半永久的に動くというのが、この腕時計を購入する決め手だったのに。手首を振ってみる。デジタル表示は沈黙したまま。

 思い出して、ジーンズのポケットに手を突っ込む。忍ばせてあった小さな銀時計は、変わらず時を刻み続けている。

 カチ、カチと。トゥールビヨンが奏でる、微かな調べ。

 そこに混じって、何かが聞こえた。

(――何だろう)

 なんとなく、音がした方に目を向けると。

 枝を弾き、花を散らし、何かが森を駆けてくるような――

 明日香先輩を見る。彼女はちょうど大きな口を開けて、欠伸をしているところだった。もう少しで喉の奥まで見えそうな程の勢い。

 僕は思わず呻いた。

「な、なんか、すごい音してますけど」

「うん、まずいね」

 彼女は頷いて、続ける。

「桜の枝って折ったら駄目なんだよ。そこから腐っちゃうから」

 訳知り顔で、こちらを見やった。

 ――僕は、何かを期待した自分を責めたい気持ちで、いっぱいになった。この人はこういう人なんだろう。当てにしてはいけない。

 とにかく、虫取り網の柄を握り直し、腰を落としてみる。他に出来ることといえば、深く息を吸うことぐらいか。これから何が起こるのか分からないが、この網やヘルメットが冗談でないとするなら、何か危険な生き物を捕まえなければならないのだろう。

「固くなるなよ、ゆきちゃん。果報は寝て待て、って言うだろ」

 先輩には取り合わず、僕は林の向こうの闇に目を凝らす。

 遠い叫び。罵声。大地を揺らす衝撃。映画のワンシーンのように、実際に視界が揺れた。

 息苦しさを覚えて、いつの間にか、自分が息を止めていたことに気付く――

 不意に、闇が降りた。

 街灯が消えたのだと、気付く。

 瞬間。

「――ひぃぃぃいいいいやああああぁぁぁぁぁぁっ!」

 悲鳴を振り撒きながら飛び出してきたのは、巨大な影だった。

 果たしてそれは何だったのか。

 月に照らし出された躍動は美しく。

 高らかに振り上げられた前肢と、優に人の胴回りはあろうかという後肢、隆々とした胴体、そしてたなびくたてがみは、馬そのものだというのに。

 それが馬ではなく、まして人間が御するものでもないことは、歴然としていた。

 首が無かった。その馬――によく似た何か――にも、その背に跨る漆黒の甲冑にも。

 首が無ければ喉も無く、いわんや口などあるはずもない。

 だとすれば、喚き散らしているのは。

「たたたたた助けてぇぇぇぇぇぇっ――明日香さあぁぁぁぁんっ!」

 空を切る尾にしがみつく、泉だった――暴れる首無し馬の背後で、強風に煽られる万国旗の如く空中を泳いでいる。

「おー、手ぇ離すなよ、泉。落ちて蹴られたら死ぬぞー」

 明日香先輩は至って呑気に言ってのけるが。

 僕は咄嗟に、横へ跳んだ。巨躯の突進が、身体の何処かを掠める。巻き起こる暴風が肌を圧した。肩から倒れこんで、すぐさま起き上がる。

 やはり何度瞬いても、目に映る景色は同じでしかない。

 首の無い甲冑姿の騎士が、首の無い馬に跨り、夜の公園を暴れ回っている。

「あっちゃー。ちょっと大きいなあ……もっと小物だと思ってたんだけど」

 確かに、それは想像を超えて――信じがたいものだった。例え自分の眼が、疑いようもなくその動きを捉えていたとしても。

 俄には、現実と思えない――

「――デュラハン、って聞いたことある?」

 明日香先輩の調子はあくまで変わらなかった。風に吹かれる柳のように、どれほど揺られても、その立ち方さえ同じまま。

「は?」

 どう答えればよかったのか。

 僕の答えに興味が無いらしく、彼女は走る騎馬を指差して、

「アイルランドの民話でな。死神みたいなもんだ」

 それは不穏というより、現実味の無い単語だった。死神?

「見たら死ぬ。奴が吐く血を浴びたら、もう絶対死ぬ、っていう」

 確かにもっともらしい。首を無くして動き回る生き物など、この世にいるはずもない。ならばあれは、あの世の生き物だ。あの世からこの世にやってくるものといえば、先祖の霊か死神と相場が決まっている。取り分け、死を振り撒くのが役目の死神であれば、鎌などと月並みな手段を使うまでもなく、人の魂が奪えてもおかしくはない。

 唯一の問題は、既に僕達全員がその姿を目撃しているということだ。

「ど、ど、どうするんですか」

 尋ねてみたが、残念ながら疑問を差し挟んでいる暇は無さそうだった。

 巨影が躍る度、少女が叫び、公園の遊具がひしゃげていく。滑り台が宙を舞い、ジャングルジムがねじれて落ちる。あの破壊力では、見てから死ぬまでもなく、跳ね飛ばされた時点で即死だろう。

 どんな方法にせよ、人に死をもたらすなら、それは正しく死神だった。

「奴を捕まえる」

「――えっ」

 訊き返す。

 ようやく地上へ戻ってきた滑り台が、轟音と共に地へ沈んだ。

「だから。捕まえるんだよ、あれを」

 繰り返される。

 今度は吹き飛んだブランコが、桜の木を薙ぎ倒しながら夜へと消えていった。

「えっ?」

「奴は、厳密に言えば死神じゃない。いや、じゃあ何が死神なんだと言われれば、実際あれほど死神っぽいものも無いだろうけど」

 語られる言葉は、妙に理屈っぽい響きを帯びていた。まるで何かの新理論のように、胡散臭いほどの確信に満ちた声。

「奴は“妖精・・”だ。月明かりの下に現れては、人間を騙し、惑わし、悪戯を仕掛ける。時に飴玉を盗み、時に森を荒らし、時には壁に落書きをして、たまに飛行機のエンジンを止めたりもする。そういう、妖精・・の一種なんだ」

 荒廃していく公園を見つめながら、明日香先輩は顔色一つ変えない。例え、歪んだ鉄柱が宙を凪ぎ、眼前を掠めても。

「悪戯にはお仕置きが必要だ。それは、妖精も子供も同じ。分かるだろ?」

 薄い唇が微かに持ち上がり。眼を細めたその表情は、微笑みによく似ている。

「悪戯って……」

 森を拓き、鉄柱をねじ曲げ、見るものに死をもたらす。

 ――これが、“悪戯”だと?

 先輩の右手が、静かに天を示した。それは何かの合図だったのかもしれない。

「やるぞ、お前ら」

 再び森がざわめいて。

 まるで飛ぶように、彼女が現れた――薄く光る桜吹雪を散らして、クロスバイクに跨り。

「やあああぁぁぁぁぁっ!」

 咲原才子は、雄叫びを上げながら疾走する。月に照らされて一筋の影となり、迷うこと無く“妖精”へと向かっていった。

 眼も無ければ耳も無い生き物が、それにどうして気付いたのかは、分からないけれど。

 馬の首が彼女を振り向く。傷だらけの甲冑を纏った御者が、腕を振り上げた。その手に握られているのは、蛇のようにうねる鞭。

 空気を切り裂く鋭い音がして。

 一筋の髪が、宙を舞った。

 ――薙ぎ払った一撃を潜り抜け、彼女は化け馬に肉薄する。

「えいっ」

 血が滴りそうな程鮮やかな断面を見せる首に、銀色に光るワイヤーが絡みつく。手繰っていけば、それは才子の手に握られ、そしてその肩にぐるぐると巻き付けられている。

 ワイヤーが軽く引かれ、馬の喉元が引き絞られる。

 悲鳴こそあがらなかったけれど。空気が震えたのだと、僕は思った。音ほどには小さくない、爆風のような大気の動き。声なき絶叫。

 のけぞった馬が、才子に向けて前肢を振り下ろす。彼女は素早かった。既に自転車は走り出して、蹄は残り香と地面を抉る。土塊だけが派手に舞い上がった。

「さあ、来い来い!」

 才子の叫びは、誰かを鼓舞するように。

 巨体が後を追った。暴風じみた速さで。首から先があったなら、荒い鼻息をこぼしているに違いない。それ程、馬の身体には力が満ちて、震えるようだった。

 流水のように迸る鞭は、しかし張り詰めたワイヤーに絡みつくだけで、彼女の背中には届かない。

 俄には信じがたいことだった。才子は自転車にまたがり、カウボーイよろしく暴れ馬を飼い慣らそうとしているのか。首の無い化け物を。

 立ちはだかる滑り台の残骸に、彼女は自転車ごと器用に飛び乗った。勢いのまま、細い手すりの上を走り抜ける。馬がその太い脚で鉄屑を踏み躙るのと、彼女が飛び降りるのは、ほぼ同じタイミングだった。

 自転車はすぐに進路を曲げ、遊具があったエリアの周縁に沿って走りだす。土煙をあげながら、首無しがそれを追った。勢いが余った分だけ、ワイヤーの輪が馬の喉元を締め付ける。声にならない絶叫が、またしても聞こえてくるようだった。

 デュラハンが速度を上げれば、才子は俊敏にハンドルを切る。才子が遊具に飛び乗ると、デュラハンがそれを蹴り散らしてしまう。一進一退の攻防。

 まるで鬼ごっこのような。

 才子と“妖精”。逃げる人と、追う死神。それは酷く殺伐としていて、けれど、もしかして、観るものが観れば好ましい遊びなのだろうかと、不意に考える。悪趣味な妄想。

 馬は自転車を捕らえられない。振るう鞭は空を裂き、駆ける脚は止まらないというのに。才子はその巧みなハンドリングで、怒り狂うデュラハンを翻弄する。

 ――一体、何の為に?

 またしても、考えるのが遅かったらしい。止まることを忘れた一人と一匹は、散々蛇行を繰り返した挙句――何故か、僕へ向けて突貫してくる

(嘘だろ――)

 悲鳴さえ、あげられない――あっという間に、才子の顔が目前へと迫ってくる――

「――今だ、志乃!」

 明日香先輩が、声を上げた。

 一つ、二つ。

 煌きを零しながら、二筋の光が瞬くと。

 突如、首無し馬が怯みを見せる。嘶くように、前肢を高く上げて。その行く手には、白い風切羽の矢が突き立っていた。

「泉!」

「はぁいっ」

 馬の尾にぶら下がっていたはずの泉は、いつの間にかその尻にしがみついていた。才子と同じワイヤーを、腰のベルトに提げたウィンチから繰りだし、首無し騎士に絡ませる。

「ひゃっ」

 鞭の代わりに頭部を狙ってくる手甲をかわしつつ、今度は泉が叫んだ。

「妙さん!」

 彼女が投げたウィンチ本体を中空で掴み取る、タイトスカートの女性。

 軽やかに着地すると、すかさずワイヤーを身体に巻き付けた。ヒール靴を履いているとは思えないほど俊敏な身のこなし。小さな顔と長い手足はモデル顔負けといった風情で――腰を深く落として銀糸の束を掴んだその姿は、ほとんど悪い冗談としか思えなかった。

 息を吸う音が、少しだけ。

「――ふんっ」

 吐き出されたのも一瞬だけ。

 しかし錆だらけの甲冑は、綺麗な放物線を描いて空を飛んだ。腰に巻き付けいた鉄線は、まるで命綱のようだったが、実際には容赦なく『彼』を地面へ叩きつける。鋼鉄の甲冑は、吹き飛ばされた遊具と同じく、腹に響く重い音と錆びた金属の騒がしさの両方を奏でた。

「動くな!」

 冷たく斬り付けるような恫喝。妖精には言葉が通じるのだろうか?

 ともあれ、デュラハンは転けつまろびつ、何とか起き上がる。まさか、馬に乗りすぎて足腰が弱っているのか。

 いや。妙さんの手が細かく動いている。その僅かな力が、ワイヤーを伝って『彼』の動きを妨害しているのかもしれない。

「諦めなさい――でなければ、叩き潰す」

 叩き潰す? あの甲冑を? 一体どうやって。

「ダメ!」

 声は、馬上から。

「乱暴したらダメだよ、たえさん!」

「アンタは黙ってなさい、皆本!」

 皆本泉が、意外なほど軽やかに、首無し馬から飛び降りる。もがき暴れるデュラハンへ向けて、

「大丈夫、ひどいことしないから! 大人しくして!」

 必死の叫び。

 甲冑は、起き上がることを諦めたのか、まずは絡まったワイヤーを解こうと、四肢を振り回している。

「まだよ、泉! 危ないから!」

「――ごめんね、落としたりして。でも、君にひどい事したいわけじゃないの」

 才子の警告をも無視して、泉は語りかける。

 その眼は、もがくデュラハンを捉えて揺らがなかった。あるいは、築き上げた砂の城を見つめる時と同じように――僕には見えないものが、見えているかのような。

「ただ……ただ、少しだけ、静かにしてほしいだけなの」

 その言葉は真っ直ぐに、『彼』へと向けられていた。

(――説得?)

 としか、思えなかった。

 公園を根こそぎ更地に変えられる化物を相手に、話し合いの余地があるのか。超自然の生命に、果たして僕達の言葉や理屈がどれだけ通じるだろう。

 デュラハンの表情を読み取ることは出来ない。ただ、ワイヤーが張り詰める音が、その抵抗が未だ止んでいないことを示している。それどころか、微かに金属繊維が弾けているように見える。尋常の膂力で出来ることではない。

 危険だ。

 明らかに、彼女は自分のことを考えていない。

「泉、退がれ!」

 明日香先輩にも、泉は従おうとしない。対峙したまま、『彼』の答えを待っている。

 僕は、先輩を振り返った。

「どうすればいいんですか」

「あ?」

「どうすれば、あいつを捕まえられるんですか」

 どうしてそんなことを口走ったのか、自分でもよく分からない。けれど、そうしなければならないと思った。

 彼女は僕を見て――目を細めた。

「やることは単純だ。さっき渡した小瓶に、奴を閉じ込める」

 ポケットから、ガラス瓶を取り出す。僕の手のひらに収まるほどの、小さな瓶。こんなものに、どうやって甲冑を入れ込むのか。

「これから、奴の“正体”を見せてやる。それを網で捕まえて、瓶に入れてやればいい」

 ……“正体”?

「鎧の中に、小人さんがたくさんいるとか」

 明日香先輩は首を振る。

「見えるものを信じるな。奴は見た目通りの生き物じゃない。その瓶に詰めるのは、奴の『核』――“エッセンス”と呼ばれる……まあ、魂みたいなもんだ」

 面倒臭くなったのか、なんとなく言い放って、彼女は視線をデュラハン達へ戻す。

 状況は変わっていない。鋼索を介して、妙さんと『妖精』の静かな攻防が続いている。泉は二人を睨んだまま立ち尽くし、走り回る首無し馬と才子の戦いもまだ終わらない。

 事態は硬直している。僕にそれが打開できるとは、正直なところ思えなかったけれど。

 踏み出した先輩の後に、僕は続いた。

「甲冑は、奴の本質じゃない。本当の姿は、もっと別のものだ」

 デュラハンは、鎧ではない――見えているものだけが、“妖精”ではない。彼女が言っているのは、そういうことだろうか。

「明日香、急いで!」

 妙さんが叫んだ。真夜中の綱引きは、やはり豪腕の騎士に分があるらしい。少しずつ引き寄せられているのが、足元の抉れた土で分かった。

「まかせとけ。スーパールーキーのお出ましだ」

 先輩の軽口に答えようにも、喉が乾ききっていて、声が出なかった。自ずと唾を飲み込む。手の中にある瓶を潰さないように、僕はそっと握りしめた。

 デュラハンは既に、四つん這いを脱しようとしていた。妙さんの巧みな綱捌きを、並外れた怪力で制しながら、ゆっくりと立ち上がり始めている。

 今しかない。『彼』が自由を取り戻せば、またしても大立ち回りを演じなければならない。次は、全員が無事という確証もない。

「……行くぞ、ゆきちゃん」

 一振りでデュラハンに網を被せられる距離に立って、僕は頷く。

「はい」

 次の瞬間、明日香先輩は信じられないほど機敏な動きで、デュラハンの足元を一蹴りした。またしても甲冑が沈む。

「泉、やれ!」

 そして号令。

「――ごめんね」

 語りかけるように、つぶやくと。

 泉は倒れたデュラハンの傍らに膝をつき、開いた両手を甲冑の胸に当てた。

「おいで妖精、今宵は宴、歌い踊って笑って泣いて、果てぬ夢こそ真夜中に」

 呟くそれは、何かの詩篇だったのだろうか。

 ただ、吐息の混じった彼女の声が心地良くて、僕は耳をそばだてる――

 瞬間、世界が消えた。

 目が眩む――まるで月を目前にしたかのような、光の奔流。

 泉が伸ばした指と指の間から、それは溢れ出していた。抑えきれない輝きが、少女の肌さえ透かして血管を浮かび上がらせる。電球を握りこんでも、こんなことにはならない。

「――――」

 光はふわりと、夜に浮かび上がる――

 きらきらと鱗粉をまき散らしながら、光の帯は踊った。まるで暴れる小人のように、あるいは彷徨う蝶のように、はたまた迸る血潮のように。目で追うには速過ぎる光源の残滓が折り重なって、絶え間なく変幻していく。

 いずれにしても、僕が未だかつて見たことがないほど、奇妙で不思議な、それでいて吸い込まれるような輝きだった。

 僕は、思い出す。そして、それを信じてもいいのかもしれないと思う。

(これが、“妖精”)

 荒ぶる鉄甲に潜んでいた、神秘的な何者か。花々が乱れ咲く月夜に姿を現す、妖しい光。

「――ゆきちゃん、ボサッとしない!」

 明日香先輩の怒鳴り声で、目を覚ます。

「はいっ」

 大きな声で答えつつ、僕は手にした虫取り網を振るった。

 幸運にもたった一振りで、光の行く先を捕らえる。蝶を捕らえたような、微かな手応え。

(やった)

 手首を返し、網を地面に押さえつけ。小瓶を取り出そうと、ポケットに手を入れる――

「危ないっ」

 誰かの声。

 ――重いものが断ち切れる音がして、ほんの刹那、僕は宙を飛んだ。

 それが実感となり、ひやりとしたものが肺の裏側に落ちる頃には、もう砂利に叩きつけられていた。弾けた痛みで、暗い夜が白く霞む。

 何が起きたのか、見えなくても分かった。デュラハンがついにワイヤーを引きちぎったのだ。勢い余った腕の一撃が、僕を打ち据えたのだろう。

 とっさに手の中の感触を確かめる――そこに、小瓶は無かった。衝撃で飛んでいった瓶が割れていないことを、胸中で祈る。

 思ったより冷静なのは、悶絶しようにも、痛みで動けないからだった。身体中が痛苦を喚き立てるのを、脳が思考の壁で拒んでいる。

「――ゆきちゃん!」

 泉が叫んでいた。だが、全ての音は急に遠ざかっていく。

 土を蹴る音や、悲鳴、罵声、その他の騒々しいもの達。

 妖精の生き血を浴びるまでもない。酷く殴りつけられただけで、人間は簡単に死ぬのだ。

 逆に焦りを覚えるほど、僕は淡々と考えていた。

(きれいだ)

 夜闇に踊る燐光や立ち回る彼女たち、季節を無視して狂い咲く花々、そして泉が造り上げた精密な砂の城。ぼんやり煙っていく世界を、何かがふわふわと横切っていく。眼球だけで燐光を追いかけながら、僕は思う。

 ――出来ることなら、をもう一度見たいと。

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