1-2:思えばこれが、選択を間違えた最初の瞬間

 大学生活が自由だというのは、本当のことだ。

 勉学を収めたという証である単位さえ無事に取得していれば、誰にケチを付けられることもない。出席を頻繁に取るような授業さえ履修しなければ、ともするとキャンパスに向かう必要さえ無くなる。テストの時期を除けば。

 そうしてこの世の春とも言うべき穏やかな心地と、有り余る時間を無為に浪費しながら、多くの大学生は考える。

 自由とは何か?

 ある意味で、それは哲学的な問い掛けである。人類が常に模索してきた、普遍的な疑問だった。字義から定義付けることは難しくない。つまり、自らを由とする、それが自由。全てを自分で決断する。その代わり、その結果を背負うのも自分。

 例えば、そう。誰からも強制を受けることのない根無し草めいた生活の中で、どんな共同体にも馴染めず、親しい友人もなく、行き先を失ったとしても、それもまた自分自身を由とした結果に過ぎない。

 一通りそんなことを考えて、僕はペットボトルに入った硬水をすすった。

 馬鹿馬鹿しいと思うことはたくさんあるけれど、侘しい自分の現状をもっともらしく語ることは、本当に無意味なことの一つだ。

 僕には、あまり友達がいない。全く絶無というわけではない――頼めばノートを貸してくれるという程度の間柄であれば、何人かいる。でも、概ねそんな感じだ。

 大学生活というのは、思い描いたものとは少し違っていた。

 まあ、当たり前のことだった。イメージ通りのものなんて、この世のどこにもない。

 飲み会やコンパみたいなイベントに、僕は余り馴染めなかった。ナイーブ過ぎると笑われるかもしれない。でも、実際僕は、そこで楽しく笑えなかった。なんだかよく分からないまま上がるテンションと、繰り返される自慢と冗談と笑いと、同調圧力と上手く付き合うことが出来なかった。

 そして、つまらない顔をしている奴には、人も寄ってこない。笑う門には福来る、というのは確かにその通りだと思う。笑わない奴に、福は来ない。

 それでも時には、暗い顔の一つもしたくなる。

 何しろ僕は今、たった一人で家路に就いているのだ――知らない間に開催されていた学科の花見会を見なかったふりで。

「……はぁ」

 春はいつもそうだ。誰もが酒を飲んで陽気に笑い、飽きるまで騒ぎ尽くし、後には山となったゴミと花を散らした木々だけが残る。

 祥星学園大学嵐ヶ丘キャンパスにほど近い草馬そうま区立公園は、いわゆる桜の名所だった。花咲く季節がやってくると、新歓コンパを開催する学生達はもちろん、とりあえず酒が飲みたい卒業生や、近隣にオフィスを構える会社員に地域住民、マニアックな観光客、果ては鳥獣に至るまで、目覚めの季節を謳歌せんとばかりにあらゆる人々が毎夜のように宴会を繰り広げている。

 もっと閑静な住宅街ならば、騒音の苦情なんかがありそうなものだけど、本来苦情を入れる立場の人々まで騒乱に加わっているのだから、もうどうしようもない。ブレーキも無ければハンドルも無い自動車のようなものだ。何かにぶつかって、致命的に破損するまでは止まりようがない。

 一体何にぶつかれば彼らがその乱痴気騒ぎをやめてくれるのか、一心に考える。

 自然、足が早まっていく。

(ああ、もう、いっそのこと隕石でも落ちてくればいいのに)

 そして辺り一帯が焦土と化せば、遊歩道沿いの桜の下で睦言を交わすカップルだって、僕と一緒に水蒸気へと変わってくれるはずなのに。

 想像は余りにも不毛で、半ば駆け抜けるように、囁きあう男女の脇を通り過ぎる――

 その時、ほとんど前を見ていなかったのは、明らかに僕の落ち度だった。

 転ぶ程ではないにせよ、よろめく程度には柔らかい衝撃が、僕を襲った。反射的に腕を伸ばしたのは、ぶつかったのが人だと分かったからだ。

 抱きかかえるように、後ろに倒れていく女性を受け止める――ことは出来なかった。

 思いも寄らない重量に引きずられ、僕はあっさりと転んだ。

 跳ねる砂利が肌に痛い。一息遅れて、頭が鈍く揺さぶられた。目に映る街灯の光がじわりと明滅する。

 僕は独り悪態をつきそうになって、それどころではないことに気付いた。

「――すっ、すいません、大丈夫ですか!?」

 叫びながら起き上がると、そこには砂利道に座り込む女性がいた。

「へえ?」

 間の抜けた返事。僕は繰り返す。

「大丈夫ですか? あの、すいません、ボーッとしてて……」

 女性というより、むしろ女の子だと、僕は思った。そんなことを考えてしまうぐらい、彼女はなんだか幼く見えた。ふわふわと広がった長い癖っ毛や、膝をついてへたりこんだ様は、樹上の巣で眠る雛鳥に似ていた。

「ぬふ」

 笑う。

 僕ではない。彼女だ。

「ぬふ、ぬふう、ぬふふ」

 思わず後ずさる。

 僕は、この笑い方を知っている気がした。顔中の力が抜けて、腹から出た空気が、緩くたゆたう笑い方。

 よく見れば彼女は、砂にまみれている。今しがたの衝突のせいだけではなく、まるで頭から砂場に突っ込んできたかのように。握りしめたポリバケツからは、大量の砂が流れ出していた――体格に似合わない異様な重さの原因は、それだったのか。

「えへっ」

 赤らんだ頬が、綺麗な笑みを描く。

 その時、僕は気付いた。

 彼女は酔っ払いだ。

 僕が初めて参加した飲み会を通して思い知った、この世で最も避けるべき存在の一つ。

 控えめに言って愛らしい女の子だが、おそらく相当酔っ払っている。ほとんど空になったポリバケツを全力で持ち上げようとして、勢いを余らせもう一度転ぶ。そんな芸当は、酔っ払い以外に出来るはずがない。

 ウェーブのかかった長い髪になおさら砂をまぶしながら、彼女が再び起き上がる。

「すなぁ」

 ぼんやりと呟き、広がる濃灰色の山を両手でかき集め、バケツへと戻し始めた。

 僕の脳裏をよぎる考え――このまま何も無かったような振りをして、この場を立ち去るというのはどうだろう? ちょっと人としてはどうかとは思うけれど、泥酔した人間の世話ほど報われない作業も無い。要領を得ない会話は言わずもがな、騒音、暴力、挙句の果てには撒き散らされる吐瀉物。その辛さはどうにも耐え難い。

 さらに後ずさろうとする僕を、彼女はしっかと睨みつけ、

「手伝って!」

「えっ」

「てーつーだってー」

「はい……」

 結局、僕は砂山に手を突っ込んだ。どこから持ってきたのか――乾いた砂をすくっては、青いポリバケツに流し込む。

 しばしの後、再び砂をいっぱいに詰め込んだバケツを抱え上げ、彼女は笑う。

「よーし、しゅっぱーつ!」

 鼻歌交じりに歩き出したその後ろ姿に、僕は声をかけた。

「気をつけて」

 すると、彼女がくるりと身を翻す。

 バケツを突き出し、再び鋭い目付き。

「持って!」

「……はい」

 バケツを抱えるのは、僕の役割になった。

 陽気に踊りつつ、器用なスキップを披露する彼女の後を追う。長い髪がそよぐたび、砂粒がきらきらと舞った。

「ふふんふーん、ふーんふふーふっふっふふー」

 でたらめな鼻歌だった。まったく聴いたことのないメロディ。酷く危なかっしくて、その癖、音を外すようなこともない。風に舞う羽毛のように、歌には捉えどころがなかった。

 歌と同じように定まらない足取りを、距離を保ちながら追いかける。

 そうでもしなければ、時折思い出したように繰り出されるターンに巻き込まれてしまいそうだった。

エスニック柄も鮮やかなカーディガンに包まれた彼女の腕はしなやかで、当たって痛そうなものでもなかったけれど。

 やがて彼女は遊歩道を逸れて、木々の間を進んでいく。一体どこに向かっているのか、小さな不安がよぎった。しかし美人局というには、どうにも危なっかしい。

「足元、大丈夫ですか」

「へいきへいきへいき! ふっふっふっふーん」

 ふかふかの腐葉土の上でも、彼女は呑気にステップを踏む。

 広葉樹が茂る林の中は、思った以上に暗かった。街灯が続く道に慣れていたせいもあるかもしれない。広がる枝葉は天蓋のように、星の明かりを隠してしまう。闇は足元さえも危うくした。

 大量の砂を抱えて、僕は彼女の背中を見失わないことに精一杯だった。

 気付けば、あれ程うるさいと思った騒ぎはどこか遠く。森の静けさは、僕の深い部分を泡立たせた。

 眼球の中心がぶれる。記憶と視界が合致してしまったように。

 不意に。彼女が足を止めた。

 そこは、小さな広場になっていた。

 月の光が、伸びた木々の腕をすり抜け、幾筋も差し込んでいる。淡い輝きに包まれて、森の闇に浮かび上がった空間。冴え冴えとして、それでいて柔らかな。

「――――!」

 その中心に、城がある。石で組み立てられ、三本の塔をいただいた。

 ヨーロッパの古城。ものの本で見たことがある。

 湖畔に佇む古の建築。長く風雨に晒され、戦の痕もなまめかしく、それでもなお凛として美しい。

 その、縮小版。精巧に、精緻に模された、砂の城。

「砂! ちょうだい!」

 はっとして、差し出したバケツに彼女が食らいついた。

 少し節の目立つ手で砂をすくい上げ、彼女はそれを突端の無い塔に盛り付け始める。両の手をかぶせて、無造作に三角の錘へと形成していく。

 僕は言葉を無くしたまま、その作業を見つめていた。

 無骨な指が動く度に小さな形が生まれ、それはいつの間にか、他でもない要塞の一部となっていく。何か特別な道具がある訳でも無い。ただ、ささやかな力の働きと、応じる砂の粒があるだけで。

 やがて尖塔の仕上げを終えると、彼女は何歩か距離を取って、城塞全体を眺め始める。

「次はどこにしようかなあ」

 僕は彼女の視線を追った。

 その目に、何が見えているのか。見たことの無い世界を想像しながら。

「……そこ、窓、無いんですか。正面のところ」

 思ったことを、呟いてみる。

「あ! それ! それ分かるー」

 言うなり、彼女の指が伸びた。指先で撫でるようにして、壁面の砂を追い払っていく。

 美しいのはその細工であり、その技でもあった。

 月光が跳ねる乳白色の爪を、息さえ止めて見守る――

「――イズミー!」

 響いた声に、彼女は顔を上げた。

「ちょっと待ってさいちゃーん! すぐ終わるからー!」

 そして再び、作業へと戻る。

 振り返ると、呼び声の主は明らかだった。

 僕の知らない女の子。ボブカットの短い髪を揺らしながら、こちらへ駆け寄ってくる。

「もう、みんな揃ったよ! 早く乾杯しないと、またたえさん怒るから!」

 彼女の姉だろうか。喋り方は明朗で、歳も僕とそんなに変わらないだろう。眼が大きくて、ちょっと顎の線が柔らかいから、女子高生と言っても十分通用するだろうけれど。羽織っているキャメル色のレザージャケットは、丈が短めに作られていて、ちょっと大人っぽく見えた。

 そんなことを考えているうちに、彼女と目が合う。

「……どちら様ですか?」

 明らかに不審そうな表情。

 無理もない。林の奥に砂いっぱいのバケツを抱えた男がいれば、普通は死体を埋めようとしているのだと考える。

「えと、浅野と言います。浅野由紀彦あさのゆきひこ祥星しょうせい学園大学教育学部の二年生です」

 彼女の警戒は緩まない。

「こんなところで何を?」

 正直な所、僕の方から訊ねたい気分だったが。

「そこの……彼女に、これを運べ、と」

 目線で、腕の中のバケツを、次いで屈みこんだままの少女を示す。

 窓枠のディティールが気に食わないのか、彼女は塔を何度もほじっては埋めていた。

「……イズミ」

 今度は、呼ばれても振り返らなかった。

 彼女――イズミは、気の無い様子で答える。

「なぁにー?」

「この人に、砂、運ばせたの?」

「んー?」

 全く聞く気が無い。

 髪の短い女性の口元がかすかに歪んだのを、僕は見逃さなかった。

「だから、この人に」

「ごめん、さいちゃん、ちょっと待って。今、良い所ぉ」

 少しの間。

 いい音がした。中身の詰まったスイカを叩いた時のような。

「――いったぁい」

 女の子に叩かれた後頭部を押さえ、イズミが抗議の声を上げた。

「痛いよさいちゃん、ひどいよぉ、馬鹿になっちゃうよぉ」

「うるさい酔っ払い、ひとの話はちゃんと聞きなさい!」

 一喝。イズミは不満気に女の子を見るが、彼女は意に介さないようだった。

「で、この人に砂を運ばせたの?」

「え?」

 ようやくイズミと呼ばれた少女が、僕を見た。

 しばらく考え込む様に眉をひそめ、それから、にったりと笑う。

「うん。頼んだぁ」

「馬鹿! 知らない人についていくなって言ったじゃない!」

「ついてってないよ、連れてきたんだよぉ」

「同じだから! こんなパッとしないメガネ!」

 何気無く、酷いことを言われた気がする。ただ、言い返せば、もっと罵倒されそうで、とりあえず黙っておくことにした。

 イズミがもう一度、僕を振り向く。

 その瞳が、少し青みがかっていることに、僕はその時気が付いた。

 月夜にたゆたう海の色。銀の月が照らし出す、微かな波の影。

「湧いて来る泉で、泉。皆本泉みなもといずみ

 小首をかしげながら、イズミ――泉は言う。

「あなたは?」

 僕は、その瞳から目を離せないまま、呟いた。

「浅野。浅野、由紀彦」

「じゃあ、ゆきちゃんだぁ」

 にへへ、と無邪気な笑顔。

「この子はねぇ、さいちゃんだよ」

 と、示されたさいちゃんは、何とも形容し難い表情で、

「咲原です。咲原才子さきはらさいこ

 言って捨てる。

 泉は一人ニヤニヤとして、彼女の脇腹をつついた。

「さいちゃんは照れ屋さんなのぉ」

「違うよ! 分かってよ! あんたはもう」

 怒鳴る咲原さんに、僕は少しだけ同情を覚えた。

 これだから酔っ払いは性質が悪いのだ。

 苛立たしげに踵を返し、彼女が歩き出す。

「早く行くよ、あたしたえさんに怒られるの、イヤだからね」

「はぁい」

 追って、泉も走り出す――いや、またしてもスキップだ。

 うさぎのように何度か跳ねて、一回転。

 ぴたりとこちらを向いて。

「早く行こうよぉ、ゆきちゃあん」

 とろけるように、そう言った。

 だから僕は、ただ頷くことしかできず。

 思えばこれが、選択を間違えた最初の瞬間だったのかもしれない。

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