Chapter.1 ミッドナイト:マッドパーティ
1-1:そもそもどこで、何を間違えてしまったのか
美しい、夜だった。
「あの」
空は宇宙そのものを映して黒く、月は花の蜜にも似て眩い。星影は無く、月光に浮かんだ叢雲が、紫苑のように漆黒を漂っていた。
咲き誇る桜の香りは、風に乗って鼻先をくすぐる。降り注ぐ光の雫は、地上の繚乱も照らし出した。淡い桜や色鮮やかなつつじ、清楚な木蓮、その他、見たこともないような原色の花弁の嵐。複雑に絡み合った薔薇の蔓はさながら熱帯雨林のようだった。危ういようでいて、胸を突くような力強さも感じる。
目が醒めるような、真夜中の夢のような――ふと不安になるような、夜。
不意に、薔薇の満開はこの時期だったのかと、訝る――
――どうやら、まだ酒気が抜けていないらしい。何しろアルコールなんてものを摂取したのは、去年紛れ込んだ学部の新歓コンパで飲まされて――そしてあらん限りにぶちまけて以来なのだ。酔わないはずもない。
「僕はどうすればいいんですか……」
そうして考えてみると、これも何か悪ふざけの一種だと思えた。それ以外に説明のしようがない。
僕は手の中にある冷たい感触を、握りしめた。夜風に冷えた長い金属の棒には、美しい銀糸の網がぶら下がっている。
それは、どう見ても虫取り網だった――全てのパーツが不必要なほど頑丈な金属で作られた。これならきっと、カブトムシはおろか、サイだって捉えられるに違いない。
果たしてこんなものに、ジョーク以外のどんな使い道があるだろう?
僕は被せられた黄色い安全ヘルメットをかぶり直し――これだってまったく酷いコスチュームだ――、傍らに立つ人の横顔を見た。
質問を聞いてくれただろうか。
煙草を咥えたまま、彼女はぼんやりと月を眺めていた。
「あのー……」
もう一度、呟く。
半ば閉じられたような、眠たげな眼が、僕を見た。それ以外は微動だにしない。猫背気味の痩せた背中も、どことなくくたびれたモッズコートも。風の無い夜では、寝癖混じりの長い黒髪さえ揺れる気配がない。
「大丈夫。出番はまだ先だから」
それだけ言うと、彼女は短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んだ。逆の手で紙ケースを取り出し、底を指先でたたき始める。
「……無くなっちった」
溜め息混じり。空のケースを握りつぶす。
そして彼女は、元のように月を鑑賞し始めた。
どうしていいかわからず、僕も嘆息する。
何かを訊いたところで、まともな答えがあるとも思えなかった。とにかく彼女は、万事この調子だったから。
ふと思い立って、ブルゾンの胸ポケットに押し込まれた小さな瓶を取り出す。
コルクで栓がされた、なんてことのないガラス瓶。サイズで言えば昆虫ぐらいしか入りそうにない。折角虫取り網もあるし、この際蝶々でも探しに行こうか。
真夜中の東京で開催される、虫取り大会。
頭を振る。冗談にしても面白くない。
(ああ……)
奇妙な虚しさに襲われて、声には出さずに呻く。
(何してんだ、僕は)
そして、僕は思い出す。そもそもどこで、何を間違えてしまったのか――
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