フェアリーランド:フェアリーテイル

最上へきさ

フェアリーランド:フェアリーテイル

Prologue

開幕:妖精といた夏

 子供の頃、こんなことがあった。



 僕は玄関先に腰掛けて、靴紐を結んでいた。背中には、大きすぎるリュックサック。あれもこれもと詰め込んだお土産で、はち切れんばかりになっている。

「もう行っちゃうの?」

 声をかけられても、振り返る余裕が無い。慣れない紐結びには、集中力が必要だった。

「うん。そろそろ、時間だから」

 答えながら、紐の先端にあるプラスチックを弄ぶ。

「もっといればいいのに」

 一方の紐で輪を作り、もう一方でそれを引き絞る。

 僕は、均整の取れた羽根を持つ蝶の姿を想像した。黒いビロードに翡翠を散りばめたような、鮮やかな光陰を宿した展翅。この夏、僕と彼女が捕まえた、一番の大物。彼女が言うから、逃がしてしまったのだけれど。

「一緒に遊ぼうよ。もっともっと、もっと!」

 蝶結びが完成した。あの蝶ほどには美しくないにせよ、悪くない出来栄え。僕は小さく頷いて。

「うん、遊ぼう。また今度、ね」

 まだ汚れのないスニーカーのつま先から目を上げると、そこには古い格子の木戸があった。長く風雨にさらされ、都度手入れがなされ、挙句に深い飴色へと変わっている。嵌めこまれたガラスから、漏れる光は淡く煙っていた。

 ここは古い家だ。僕が生まれるずっと前から、ここにある。母が子供の頃にはもうあっただろうし、きっと祖母が幼い頃にだって、既に建っていたに違いない。

だからなのかもしれない。僕には、とても懐かしい場所だった。きっと、数えてみれば、何度か訪れたという程度のことなのだろう。けれど、家に漂う穏やかな香りや、床板が奏でる小さな音、薄っすらとした明かりの加減、その全てが、僕に永い時間を感じさせた。

今まで僕が生きてきたそれよりも、ずっとずっと永い。

実感は、僕を奇妙な気持ちにさせた。嬉しいような、悲しいような――胸の中心を引き絞る息苦しさ。不思議と、嫌な感じはしないのだけれど。

 低く空気をたゆたうような柱時計の音が、出発の時刻を知らせてくれる。

 僕はポケットから懐中時計を取り出した。お守り代わりに母からもらった、簡素な時計。

 立ち上がる。肩を震わせて、食い込むリュックのベルトを馴染ませる。

「約束だよ、グッドフェロー。必ず、絶対、また一緒に遊ぶって」

 足首を回し、靴の具合を確かめる。紐はきちんと結べていた。

「うん、約束」

「本当に?」

 僕は振り返らずに、ただ頷いた。

「じゃあ、こうしよう。僕は、どこかに隠れるから。百数えたら、僕のことを探して」

 そして歩き出す。

 それは約束だった。僕と、彼女がかわした。

「……分かった」

 いつか必ず、また出会う日まで。

 戸を開けると、真っ直ぐな光が視界を白く染めた。

 目を細め、片手で日差しを遮りながら、僕は門をくぐる。



「きっと、あなたを、見つけるから。捕まえるから。そうしたら、もう一度」



 そうして、僕はふと思う。

 彼女は、一体誰だったのだろう、と。



 振り返ると、既にあの古い家はなく。

 そこにはただ、見慣れた自分の家があるだけだった。



 子供の頃、そんなことがあった。

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