2-6 またしても危うく失神するところ

 そして、気付けば僕は、そこにいた。

「――ぇ……」

 眠っていたのではないと思う。少なくとも、家のベッドで布団にくるまっているのではない。その証拠に、身体の節々が痛みを訴えている。寝違えたのか――気絶していたのだろうから、いまいち語弊がある――、首筋の筋肉が固く強ばっていた。背中にも、強く擦ったような痛みがある。

「――ねぇ……ねえってば」

 肘の違和感に、手首の鈍痛。

「起きてよ――ねえ、起きて! ねぇってば!」

 一つ一つ確かめていくのが面倒になって、僕はとにかく目を開けることにした。

「…………!」

 ばっちりと、視線があった。彼女は僕の顔を覗き込んでいたらしい。

「――よかった」

 安堵の溜息が、鼻先にくすぐったい。

 僕はどう答えればいいのか迷って、とりあえず笑うことにした。

「おはよう」

「……馬鹿じゃないの!」

 平手で頭を張り飛ばされ、勢いで首に更なる違和感を覚え、ようやく何かのスイッチが入ったような気がした。

「アホ! ドアホ! ふざけんな!」

「ええぇ……」

 唾まで飛ばされてしまうと、最早不平の呻きをあげる以外に出来ることがない。

 ほとんど半眼に近い目つきで、彼女――才子に睨みつけられる。

「なんでこんなところにいんの、馬鹿!」

「なんでって……」

 少しの間を置いて――思い出すのに時間が必要だったのだ――僕は言った。

「君を探しに来たんだよ」

「……はあ!?」

「よかった。無事で」

 言って、笑う。

 もう一度はたかれた。

「一回死ね! ていうか、見つけたのはこっちだし!!」

 言われてみればその通りだった。

 辺りを見渡す――ことは出来なかった。周囲は相変わらず並び立つ広葉樹に埋め尽くされ、緩やかに溢れる月の雫以外に、明かりは無い。辛うじて分かったのは、今僕が寄りかかっているのは、ほとんど崖に近い急勾配だということだった。見上げると、そう遠くない所に崖の縁が見える。どうやらあそこから落ちたらしい。高さにして、五、六メートルぐらいか。打ち所が悪ければどうなっていたか。なるほど、こうしてみると安全ヘルメットというのも、意外に役立つらしい。

「ていうか、作戦はどうしたの? もう終わったの?」

「分からない。僕が君を探し始めたのは、準備中だったから」

 気絶していた時間の長さによっては、既に妖精達が捕獲されている可能性もあるけれど。

「そもそもあんた、どうしてあたしを探しに来たの? 持ち場はどうしたの」

「……君こそ、なんでこんなところにいるんだよ。君だって役割があったじゃないか」

 僕がそう切り返すと、彼女の顔に苦いものが浮かんだ。

「……それは――」

 よくよく見てみる。彼女の頬は、土で汚れていた。綺麗な栗色の髪にも葉っぱが絡まって、酷く乱れている。まるで草木の茂る崖を転がり落ちてきたかのように。

 僕は、問いを重ねた。

「自転車は? どうしたの」

「……別に、いいでしょ。そんなこと」

 いい訳がない。いや、少なくとも彼女にとっては些事では無いはずだった。

 久しぶりに出したマウンテンバイクに、喜んで跨る彼女を、僕ははっきりと憶えている。

「もしかして、君も、崖から落ちたの」

「……うるさい」

 視線を逸らした彼女の横顔に、枝に引っかかれたような細い傷が幾筋も付いていた。うっすら血が滲んでいる。

 才子は慎重に、土手に突いていた手を離すと、僕と同様に斜面へ背中を預けた。かなり足をかばっているのが分かる。

「急に、ライトが消えて。フェアリーサークルに入ったって分かったんだけど、その時にハンドルをミスったの」

「……そっか」

 僕は、それ以上問いかける気を無くして、とりあえず背負っていたリュックサックを下ろした。それだけの動作で、身体中の関節が軋むのが分かる。右肩が上がらないので、反対の手で慎重に鞄のベルトをずらしていく。

 雨蓋を外し、ぐちゃぐちゃになった中身を掻き分け、手の感触だけで目当てのものを探り出した。プラスチック製の小さな救急箱。

 手元も危うい暗さの中、無理やり蓋を開けて、中身を漁る。

「咲原さん」

「なに」

「こっち向いて」

 意外に、彼女は素直だった。無言のまま、僕を振り向く。

 ほのかな明かりに照らされて、才子は僕の知らない顔をしていた。

 いつも不快そうに僕を見る眼が、今は少し悲しげに潤んでいる。微かに濡れた睫毛が、きらきらと光を弾く。頬に触れる髪が、顔に陰を差していた。

 僕はなんだか、見てはいけないものを見たような気がして――なのに、どうしてなのか、目を離すことが出来なかった。

 僅かに血が滲んだ唇が、震えるように囁やく。

「……なんなの」

 何か言おうとする。

 それは結局言葉にならず、僕は掴んだ消毒薬のノズルを持ち上げた。

「怪我。手当しておこうよ」

 彼女が拒否する前に、頬についた泥を指先で落とす。

「痛っ」

「我慢して。すぐ終わるから」

 消毒液を脱脂綿に含ませ、傷を撫でたあと、大きめの絆創膏を貼りつけてやる。まるでやんちゃ坊主みたいな顔の才子を見たら、思わず笑ってしまった。

「なんか、男の子みたいだね」

「うるさい、馬鹿」

 悪態と共に、彼女が消毒薬をひったくった。

「あんたの番」

「いや、僕はいいよ」

 首を振る。と、顎を掴まれた。

「何言ってんの。あんたの方が酷い顔してるっつの」

 荒々しく、顔の泥を払われる。悲鳴を上げそうになるが、彼女は容赦しなかった。ぐりぐりと消毒液をこすりつけられ、ベッタリと絆創膏を貼りつけられる頃には、僕はぐったりと消耗していた。

「なんか、逆に痛いんだけど……」

「ぴーぴー言わないで、子供じゃないんだから」

 今度は彼女が笑う。馬鹿にされているような、そうでもないような。

 どちらにしても反駁する元気はなく、僕は溜め息をついた。

「咲原さん、自分の荷物は?」

「どっかに落としたみたい。……崖から、落ちたときに」

 不承不承、彼女は付け加える。僕は何も言わなかった。

 手先だけで、鞄から発煙筒を取り出す。

「一応、みんなに合図を送ろう。見えるかどうか怪しいけど」

 起き上がると、腿の辺りに鋭い痛みが走った。単なる打撲であることを願いながら、平坦になっている場所を足先で探す。

「火が出るから、一応、周りの草は抜いてね」

 才子のアドバイスに従って、裸になった土を軽く掘り、手榴弾のような発煙筒を埋め込む。ピンを引き抜くと、微かな火と共に、もうもうと煙が上がり始めた。

「あとは、助けを待つしか無いか」

「うん。そうだね」

 担いででも連れて帰ると宣言した手前、情けなくはあったけれど、僕は仕方なく才子の隣に座り込んだ。

 吹き抜けた風が、思いの外冷たい。真夜中も過ぎて、これからさらに気温は下がっていくのだろう。妖精達が全て姿を消せば、フェアリーサークルの影響が収まって、携帯電話で救助も呼べるだろうが、果たしてそれはいつのことになるだろう。

 沈黙。

 止まない森の声は、僕と彼女の妙な隙間を埋めてはくれなかった。

 何を話せばいいのか、考え込む。

わざわざ考え込む必要もないのかもしれないが。彼女は僕を嫌っているのだ――僕の被害妄想を差し引いても、才子が僕との会話を求めているとは思えない。

 居心地悪く身じろぎしながら、ふと、眼鏡を無くしていた事に気づく。落下の時に、飛んでいってしまったのだろうか。

 いつもならフレームが当たる鼻筋をこすりながら、そんなことを考えていると。

「……あんたって、結局、泉のこと、好きなの?」

「――はあ!?」

 自分でも驚くほど、大きな声をあげていた。

「きゅ、急にどうしたの」

「別に、なんとなく」

 こちらではないどこかに目線を固定したまま、彼女は呟く。

「あの子、モテるの。分かると思うけど」

「ああ……うん、なんとなく」

 月並みに言えば、庇護欲を掻き立てるタイプ、というのだろうか。

「でも、本人は、全然そういうの興味なくて。絵描いたり、よく分かんない像つくったりとか、そんなことばっかりしてるの。しかもそれで、結構すごい賞とか取ったりして」

 それは、とても腑に落ちる話だった。

「だから、泉目当てでウチに入ったりしても、多分、ろくなこと無いと思うんだ。もしかしたら、今、身に沁みてるかもしれないけど」

 冗談めかして、才子が言う。

 苦笑いが漏れた。言ってみる。

「そんなの、分からないよ。まだ、会ってから何日も経ってないのに、好きとか嫌いとか」

 本音なのだろうか。言っている自分でも、よく分からない。

 僕は彼女が好きなのか。だからこのサークルに入りたいのか。

 本当にそうなのか。

「ただ、皆本さんのつくるものがすごいっていうのは、理解できる。あの砂の城は、なんていうか、本当に綺麗だった」

 断言できることといえば、それぐらいしかない。

 溜め息が聞こえた。

「やっぱり、そうだよね。そう思うよね」

「……どうしたの?」

 彼女が頭を振る。髪に絡んでいた葉が、ゆらゆらと落ちた。

「ううん、別に。あたしもそう思うから」

 小さな葉っぱは、音も無く暗闇に消えていく。僕は目の端で、それを追った。

 何と言えばいいのか、束の間、考える。

 もしかすると、これもまた地雷なんじゃないだろうか? 触れない方がいいことだって、きっとあるはずだ。

 視線を上げる。意外に長い彼女の睫毛が、伏せがちに揺れていた。僕はまた、少し驚く。

 この人も、こんな顔をするのか。それは、当たり前のことに違いないのに。

「……もしかして、咲原さんも、彫刻とか、そういうの作るんだ」

 彼女は横目で、僕を一瞥する。

「あたしは、写真」

 ああ――と、曖昧に頷く。予想は、やや外れていた。

 呆れたように眉を顰めて、彼女はおもむろに、自分の赤いレインジャケットの襟首から胸元を探る。何気ないけれど大胆な仕草に、ドキッとした自分が情けない。

 引っ張り出されたのは、ネックストラップに繋がった、小さな使い捨てカメラ。

「動くの?」

「フェアリーサークルの影響を受けるのは、複雑なものだけ。これぐらい単純な造りだと、なんとか動くんだけどね」

 薄っぺらいプラスチックで出来たミニチュアカメラは、ほとんど玩具に見えた。実際、差し出されたそれを受け取っても、ほとんど重量を感じない。

「……これ、本当に写真取れるの?」

 素朴な疑問。

「当たり前じゃない。トイカメラ、知らないの?」

 意外なほどの熱心さで、彼女がカメラに顔を寄せてくる。

「ここの蓋を開けて、フィルムを入れるでしょ。あとはレバーでフィルムを巻いて、ボタンを押せばシャッターが切れるから――」

 シャンプーの匂いと、それから、微かな汗の匂い。濃密な森の空気に慣れ切った鼻に、彼女の存在が心地良かった。

「……聞いてる?」

「――え」

 思わず身を固くする。

まさか聞いてなかったとは言えない。そんなことを言えば、また冷たい目を向けられるだろう。かといって、気の利いた返答など思いつきもしない――まして、まさか君の匂いを嗅いでいたなんて。僕の立場は、性犯罪者から変態性癖の死刑囚まで一気に大転落だ。

「……あんたってさ、意外と」

 不意の思いつきを、彼女が口にする。

 その時、僕は森に眼を奪われた。

 何も見えない。見えるはずもない。

 しかし。

「……何かいる」

 気配とでも言うべきだろうか。耳が、肌が、ひりつく何かを感じている。

 才子が身構えた。彼女はさっきから、まったく足を動かしていない。多分、怪我の程度は僕よりも深い。果たして逃げられるか。否、立ち上がれるかどうか。

 予感は、間もなく実感に変わる。気配は音へ。空気の震えが風とも呼べぬ動きと変わり、頬の辺りの皮膚をくすぐる。

 温度を奪われた汗が、やけに冷たい。

 彼女をかばうように腕を伸ばしながら、僕は足に力を込めていく。腿に走る熱を努めて無視して。

 何かを――強いて言えば、闇を刺激しないように、ゆっくりと。

 張り詰めていく空気に、足を捕られないよう――

 深い森の奥から、それは現れた。まるでお伽話のように。

 小さな人間。

 一見して、子どもだと思った。

 伸びた下草から、辛うじて頭が見える程度の身長。しかし、子どもにしては妙に日に焼かれ、時間を経た肌の色。異様に輝く黒い瞳。鮮やかな緑のタイツを佩き、若草色の胴着と帽子を身につけたその姿は、童話に描かれた小人とまるっきり同じだった。

 本当に、悪い冗談だと思う。

 怯えるタイミングさえ逃して、僕は立ちすくむ。

 闇から現れた小人が、何かの幻覚でないことは、やはり明らかだった。彼の背後から見る間に伸びていく茨が、次々に花を咲かせていることが、それを裏付けている。

 ――彼が、妖精なのだ。

 リリパット。常に集団で行動し、自身よりも大きな生き物に様々な“悪戯”を仕掛ける。その性質は子どもそのもので、目をつけられた人間は、彼らが飽きるまで――いつになるともしれないその時まで、延々とに付き合わされる。

『人間だ』

 声は聞こえなかった。強いて言うなら、意思が通じたというべきだったのだろう。耳を塞いだところで遮れない、弾むような言葉のイメージ。

『人間がいたぞ!』

 眼前で花火が炸裂したような、強烈な衝撃が脳裏を突き抜ける。

 歓喜という感情を水鉄砲に詰めて、頭蓋に打ち込んだとしたら、こんな気分になるに違いない。息をするのも忘れそうなほどの圧力。

 森が、静まり返った。ほんの僅かな間。

 そして、津波がやってきた。

 ざわめきに隠れていた足音が、一斉にこちらへと向かってくる。草を踏み、幹を蹴り、枝を折り、葉を散らしながら、彼らがやってくる。

『人間だ!』

『やっぱりいたぞ!』

『それなら祭りだ!』

『人間祭りだ!』

 大小様々なが響く度、眼が灼かれ、耳が劈かれる。頭の中を無数の幻像が駆け巡り、こめかみが押し破られそうなほど傷んだ。

 自分が立っているのか、倒れているのかさえ分からないまま、僕はひたすらに、傍らの温もりを握り締めていた。そうしなければ、自分が生きているのかどうかも、分からなくなってしまいそうだった。

『踊るぞ! 星が見えなくなるまで!』

『歌うぞ! 月が沈むまで!』

『遊ぶぞ! 夜が明けるまで!』

 ――気付けば、彼らはもう、そこに溢れかえっていた。

 僕らを取り囲むように、手を繋いで円を作り。迸る程の喜びで、歌を紡いでいる。

 大合唱に答えるように木々が震え、あらん限りの力で花開いていった。月の光が勢いを増したかのように、その様を照らし出す。ゆっくりと広がる黄金色の花弁が、星屑のような煌きを零した。

 僕は、言葉もなく、それを見つめる。

 そして思った。

 ――果たして、僕は何を見ているのだろう?

 これは奇跡なのか。それとも、真夜中の夢なのか。あるいは、僕の空想が産み出した、ありもしない幻影なのか。

「――すごい」

 才子の一言だけが、強く現実味を帯びていた。

 知らぬ間に取っていた手に、力がこもる。柔らかい肌は、失いかけた現実の手触りを与えてくれた。

『開け花、今宵は宴! 飽きて散るまで狂い咲け!』

 リズムに合わせて輪は縮み、広がり、ぐるぐると回る。彼らは満面の笑みで、言葉を繰り返す。似たようなメロディーで、けれど少しずつ何処かが違う声色で、陽気な歌を奏でる。調和しているようでいて、その実、てんでバラバラな混沌の塊。

 響きは延々と頭の中を掻き回す。

 光とも音ともつかない何かが、思考に潜り込み、暴れ狂う。耐え難いほどの喧しさ。終わりのない騒音の嵐。胃の腑の底から、猛烈な吐き気がせり上がってくる。

(これが。明日香先輩が言っていた)

 妖精の歌。人ならぬ者の声ならぬ声。

 聞いたものを異界へ誘う。眼にしたものを楽園へ導く。

 彼方からの呼び声――

『野を駆けろ、山を越えろ! 飽いて死ぬまで戯れ狂え!』

 いつの間にか、足元まで蔓が覆っていた。少なくない棘を食い込ませながら、それは僕の爪先を這い上がってくる。不思議と痛みは感じない。ただただ、蔓に咲いた美しい花の色に目を奪われて。

 視界の隅に、陰が泳いだ。

 光の粉をまき散らしながら、月影にふらふらと舞う。黒いビロードに翡翠を散りばめたような、鮮やかな展翅。

 けれど、追わなければ消えてしまう、頼りない瞬き。

『蝶々! 蝶々だ!』

 蝶は、木の葉のように揺れて、夜を泳いでいく。

 まるで僕を誘うように。

 こちらへおいで。もっと、遊ぼう。もっともっと。

 ずっと。

 ――何人かの小人が、蝶に手を伸ばす。乱暴な手が、煌く羽根を打ち据える。

 痛みが走った。

 身体の何処かが傷ついた訳ではなく。強いていうのなら、古い傷跡が開いたような。胸の底に開いた穴から、感情が溢れ出したかのような。

 それは、郷愁とでも言えばよかったのか。

 言葉にならない。呻きが喉を震わせる。

 才子が手を握っていてくれなければ、僕はきっと泣き出していたに違いない。いや、もしかすると、正気さえ保っていられなかったかもしれない。

 訳も分からないまま、迸る衝動に任せて、絡みつく茨を引き千切る。手のひらに突き刺さった棘の痛みが、奇妙な怒りを呼び起こす。

 僕は、踊り続けるリリパット達を睨みつけた。

『怒った! 怒ったぞ!』

『人間が怒った!』

『顔が真赤だぞ! 熟れ切った林檎みたいだ!』

 彼らは笑っていた。まるで、新しい玩具を見つけた子どものように。にやにやと、僕らを眺めている。その視線が、無性に気に食わなかった。

 奴らは楽しんでいる。

 僕らを。

 

「逃げて」

 才子が僕の手を引く。

「みんなを呼んできて、浅野」

「……嫌だ」

 頭を振り、僕は彼女を手放した。膝立ちから立ち上がりつつ、腋下のホルダーに触れる。

「あいつらを黙らせてやる」

 捕獲用のガラス瓶は、三本あったうちの二本が既に砕けていた。最後の一つも、微かにひび割れている。透明な石英の表面には、白い筋が走っていた。これで“エッセンス”が捕獲できるのか、僕には分からない。

それでも構わなかった。

 あの、脳を掻き回すような唄声が止むのであれば。

「無理だよ、そんなんじゃ!」

 思いの外強い力で、裾を引かれる。

 僕は怒鳴りつけようと振り返り。

 完全に、機先を制された。

「今走れるのは、あんただけ! みんながいれば、なんとかなるから! だからしっかりしてよ、馬鹿!」

 柳眉を逆立てて、才子が叫ぶ。ともすると、少し泣いているかのような、鼻にかかる声。

 急に、視界が晴れていくような気がした。雷に打たれたような衝撃とは、こういうものだろうか。あるいは、頭から水をぶっかけられたかのような。

 どうして分からなかったのだろう。

 彼女は多分、今、すごく怯えている。

 そして、僕に助けを求めている。僕が、彼女を頼りにしたのと同じようにして。

『どうした人間! やるのかやらないのか! 決闘ならば、一族の勇者がお相手仕るぞ!』

 誰とも分からぬお囃しが響く。

 進みでてきたのは、一匹のリリパット。心なしか、他のものより肩幅が広く、目付きも鋭いように見える。とはいえ、身長は僕の腹に届く程度しかなかったけれど。

 僕は才子に頷きかけた。

 そして、彼女が口を開く前に、妖精達へ向き直る。

 果たして意味があるのか分からないけれど、そうすることでしか考えを伝えられないが為に、僕は腹の底から大きな声を搾り出した。

「そうだ妖精ども! 僕達は、お前らに決闘を申し込む!」

 叫びながら、考える。

 才子の言うことは正しい。

 問題は、それをどうやって実行するか、だ。

 奴らは、夜の森では人間よりも遥かに素早く動ける。森を熟知し、夜を見透かし、風を切って走れるが故に。対して僕らは、ろくに走れもせず、暗闇に戸惑い、森に怯えることしか出来ない。

 最初から、勝負の結果は見えている――この場を逃げ出し、助けを呼ぼうと考えたところで。

 ならば、どうするか。恐らく答えは一つしか無い。

「――勝負の方法は、かくれんぼ! 勝った方が、この森の王だ!」

 宣誓に。

 返ってきたのは、大地が揺れるほどに強く大きな「歓声」で、僕はまたしても危うく失神するところだった。

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