2-5 僕はまたしても全てを見失った

 結論から言えば、僕の予想はある意味で大きく裏切られた――そこには、まったくと言っていいほど、空は無かった。星の明かりも、月の影さえ望めない。ただ鬱蒼とした木々が腕を伸ばし、僕らの頭上を覆い尽くしてしまっていた。

 いや。覆っているのは、頭上だけではなく。

 行く手を塞ぐ枝葉を、猟師よろしくナタで断ち落としながら、僕らは黙々と歩を進めていた。ついでに足に絡まる下生えを蹴散らし、道無き道を切り開いていく。

 夜の森というのは、僕が想像していたよりも遥かに暗いものだった。公園の林などとは、比べるべくもない。ヘルメットにつけたヘッドライトなど、何の役にも立たなかった。一歩踏み出すのもためらうような視界の狭さと、生命の気配が濃縮された、騒がしいほどの静寂。どこかに妖精がいても、おかしくはないと思わせる。

 後ろから付いてくる明日香先輩の気怠げな声だけが、森を包む深い闇を震わせていた。

「グレムリンは一例だけどね。程度の差はあるけれど、妖精ってのは、基本的に甘いものに寄ってくる。虫とか子供と同じ。そんなに可愛げのある奴らではないけど」

 流石に森の中で煙草は吸っていなかったが、代わりにココアシガレットをくわえている。

どういう訳か、彼女がかざすLEDランタンは僕の背後で光るばかりで、ちっとも行く先を照らしてはくれなかった。むしろ中途半端な明かりのせいで、かえって眼前が暗くなっているような気がする。

「訊いてもいいですか」

「スリーサイズは秘密だ」

 笑おうとしたが、少し膨らんだ木の根を見つけたので、それを乗り越えることに気を取られてしまった。

「……妖精って、そもそも、何なんですか」

 今更ながら、問いかける。

 それはほとんど冗談にしか聞こえないような存在――甘いものが好きだって?――だった。民話やおとぎ話に語られるような、不可思議な生きもの達。どうしてそんなものが存在するのか。

結局、児童文学研究会に対する疑問は、それに尽きるのだ。その謎が解けない限り、他の何を聞いてもしっくりとはこないだろう。

「人間って、何だと思う?」

「は?」

 思わず振り返る。

「いや、君が質問したのは、そういうことだよ」

「……分からない、ってことですか」

 明日香先輩はココアシガレットを舌で転がしつつ、両の手のひらをこちらに向けた。

「色々な文脈から、定義はできると思う。どれが答えだ、とは言えないけどね」

 僕は溜息をついて、枝を落とす作業に戻る。

「私達が知ってるのはね。奴らは真夜中にしか現れないってこと。大抵の人間にとって迷惑な“悪戯”をしでかすこと。“冷たい鉄”と呼ばれる特殊な金属が苦手だってこと。“エッセンス”を失うと姿を消してしまうこと――そして、“エッセンス”を高く買ってくれる人間がいるってこと」

 ナタを振るう手が、一瞬止まってしまった。彼女は今、何と言った?

「……児童文学研究会というのは、つまり、“エッセンス”で商売をしているサークルってことですか」

「奴らの“悪戯”は、それこそ他愛もない落書きから、航空機を落とすまで、質も規模も様々だ。誰かが捕まえなきゃ、いつか必ず大きな被害が出る。知っているのに無視するのは、寝覚めが悪いだろ?」

 なるほど、そういうことか。つまり彼女達は、猟師のようなものだ。害獣を狩ることを商売にしている。豪華な作戦用の装備も、そんな資金源があるなら納得が行く。

「この前、君が捕まえてくれたデュラハンの分は、もうすぐ払い込みがある。心配しなくていいよ」

 先輩の物言いが、妙に鼻を突いた。

 誰が取り分の心配をしている?

 かといって、もう一度面と向かう勇気もなく、僕はただ呟いた。

「別に僕は、お金が欲しくてやったわけじゃ――」

 その時。

 全ての明かりが、消えた。

 一瞬、何も見えなくなる。網膜に焼き付いた残像が霞んで広がった。

 本能的な恐怖に、二の腕が粟立つのが分かる。

「――先輩……っ」

「思ったより早いね」

 予想外の近さで、明日香先輩が囁やく。吐息が耳に温かい。

「いつもなら、連中が目を覚ますのはもう少し遅い時間のはずなんだけど。多分、何かの気まぐれで、散歩でもしてるんだろう」

 明日香先輩が事前に得ていた情報では、妖精が現れるのは、取り囲むような森の奥にある廃工場のはずだった。

嵐が丘から車で一時間。何十年も前に打ち捨てられ、その後買い手がつかない廃工場。野放図に木々が茂る山の中腹という立地の悪さが、経営が立ち行かなくなった一番の原因だと見える。周囲を哨戒するにも、こんな道とも呼べない道しかないのだから。

「もう近くに来てるんですね」

「これも妖精が持つ特徴の一つだよ。奴らの周囲では、全ての機械が停止する。飛行機どころじゃなく、車も、バイクも、懐中電灯も。動くのは自転車ぐらいのもんだ。その影響がある範囲を、私達はフェアリーサークルって呼んでる」

 思い出す。デュラハンが現れる前に、街灯が消えたこと。腕時計も動かなくなったこと。

 今まさに、僕たちは妖精達フェアリー遊び場サークルに足を踏み入れたということか。

「明日香さん、そろそろです! 妖精達、出てきてます」

「ああ、分かってる。戻るよ、志乃、ゆきちゃん」

 いつの間にか、すぐそばに志乃ちゃんがいた。ライトグリーンのマウンテンパーカーがちらついたから、間違いないだろう。

彼女は、草木を物ともせずに歩く。夜目が効くのか、真っ暗闇でもフットワークが軽い。

「浅野さん、足元大丈夫ですか?」

「ああ、うん、その……自信無い」

 気遣わしげな声は聞こえるのに、肝心の愛らしい顔が見えない。自分が踏み出すつま先さえ見えないのだから、それも無理はない。迂闊に足を運べば、木の根につまづきかねないだろう。ナタを振るにも、勇気が必要になる。

 歩みが遅いのは、自分でも分かっていた。それでも、背後に控える明日香先輩の気配が、僕を慎重にさせる。

「……少しだけ、失礼しますね」

 予想だにしない力が、僕の手を引いた。危うく枝で顔を切られそうになる。なんとか派手に転ぶことだけは避けて、僕は悲鳴を上げた。

「ちょっ、し、志乃ちゃんっ、早いって!」

「気をつけて、舌噛みますよ!!」

 一喝が、耳に刺さる。

 凛とした、鐘の音のような声。僕は今更ながら、彼女が実は年上だということを実感した気がした。もし姉ができるなら、こういう人が良い――何を考えてるんだ、気持ち悪い。

 とりあえず僕は、なんとかナタを腰の鞘に仕舞い、背後に手を伸ばした。何度か掠めて、明日香先輩の指先を捕らえる。すらりとした、少し冷たい指だった。

「意外に、男の子の手だね」

 ぼそっと述べられた感想。なんだか気恥ずかしくて、思わず手を離してしまいそうになる。しかし、先輩はしっかりと僕の手を握って離さなかった。

「急ごう。妙が網を投げたら、多分、乱戦になる」

 泉と妙さんは既に廃工場で、餌――これが本当に甘いお菓子なのだ――を仕掛け、“冷たい鉄”製のワイヤーで編まれた網を準備している。今回の妖精は、小柄で素早く、デュラハンとは違った意味で捕獲が難しいらしい。しかも一度に現れる数が多いのだとか。一匹一匹捕らえていては埒が明かない。だから、文字通りの一網打尽作戦なのだという。

 当然予想される獲り漏らしをフォローする為、僕らは二人と別行動を取ったのだった。差し当たっては、妖精達の出現を確認しようと見回りを行っていたのだけれど。

 志乃ちゃんがなびかせるパーカーのフードを必死に追いかけながら、僕はふと思う。

(咲原さんは、大丈夫かな)

 彼女は僕達と泉達を結ぶ連絡係として、この森をマウンテンバイクで駆け回っていた。先程、こちらに異常がないことを確認して、再び泉達のもとへ向かっているはずだった。

 相変わらず冷たい彼女の視線を思い出して、僕は密かに溜息をつく。

 まったくどうして、いちいちイビられなければならないのだろう。僕が一体何をしたというんだ。

 そんなことを考えていると、いつの間にか、視界に明かりが戻り始めていた。今までの生活では気にも留めなかった、月や星の光。森の木々が無くなれば、すぐに廃屋が見える。

 錆びた鉄骨と伸びた蔓が、複雑に絡み合いながら夜空に青白く浮かび上がっていた。風が吹けば崩れ落ちそうなほど、頼りない影。ひび割れ、朽ちた灰色の壁が、それでもかろうじて工場の体裁を取り繕っている。剥がれかけたトタンの屋根は、往時の面影もなく、無気力に垂れ下がっていた。信じがたいほどに成長した茨の蔓が、全てを覆い尽くして、艶めかしい薔薇や、鮮やかな色彩の花を咲かせている。

 デュラハンが現れた夜と同じだった。この世のものとも思えない、百花繚乱。僕は確かに憶えている。先程、初めてこの廃工場を訪れたときは、こんな風に咲き乱れる花など無かったことを。

 真夏の夜ならば、肝試しの名所と騒がれてもおかしくはなかっただろう。けれど、僕にはどうにも、そんな風には考えられなかった――幽霊よりもよっぽど奇妙で恐ろしく、それでいて手に触れられるようなが、そこにいると分かっていたから。

「予定通り、出口を押さえよう。志乃ちゃんは裏、ゆきちゃんは私と一緒に正面」

 志乃ちゃんは頷き、それから思い出したように僕を見た。

より正確に言えば、握ったままの、僕の手を。

「あっ、ご、ごめんなさい」

 さっと志乃ちゃんが手を引いてしまう。微かに残る滑らかな肌触りが、妙に名残惜しい。

「い、いや、全然! むしろありがたかったっていうか、その」

 志乃ちゃんの顔が、一瞬にして赤らんだ。

 何か言おうとする彼女に、明日香先輩が立てた一本指を見せた。

「イチャつくのは後にしろ。いいな?」

 志乃ちゃんはもうしばらく口を開閉させて――俯くように、頷いた。

月明かりのおかげで、彼女が耳まで真っ赤になっているのが分かる。僕は自分もきっとそうに違いないと思い至って、こっそりと顔を背けた。

 一度だけ深呼吸をすると、志乃ちゃんは踵を返し。やはり素晴らしいスピードで、工場の裏手へと消えていく。背中に担いだ和弓の弦が揺れて、一瞬だけ煌めいた。

 それを見届けて、明日香先輩が呟く。

「行くよ。ゆきちゃん」

「ちょっと待ってください」

 意外そうにこちらを見やる彼女に、僕は続ける。

「咲原さんが、まだですけど」

「ああ。遅れてるみたいだね」

 それ以上は言うまでもなく、目だけで先輩に訴える。

 廃屋の出口は合計三箇所あった。正面の搬出口、事務所跡に設けられた裏口、そして作業場奥にある非常口。予定では、志乃ちゃんが一つ、僕と先輩が一つ、そして才子が最後の一つで待ち伏せを行い、罠を逃れた妖精達を捕らえるはずだった。

 耳を澄ましても、才子が現れるような気配はどこにもない。聞こえるのは、木の葉が擦れるささめきぐらいのもので。

 取れる行動は恐らく三つ。それでも才子がやってくることを期待して、当初の作戦を展開する。僕と先輩が二手に分かれ、才子の持ち場をカバーする。あるいは、この森のどこかにいる才子を探し出す――妖精達が集まるまでの、残り僅かな時間を使って。

「来ない奴を当てにしても仕方がない。君を一人には出来ない。だから、予定通りの作戦を続行する。いい?」

 断固とした口調だった。

 反論の余地もない。僕もまったく同じ意見だったから。才子がやって来ない理由ははっきりとは分からないが、もっとも有り得そうなのは、既に妖精と接触しているからだろう。もしくは、さっきの僕と同じように、灯りを無くして立ち往生しているか。それにしても、僕らと同じく彼女だって緊急用の発煙筒を持っているはずなのだけれど。

いずれにせよ、今すぐ彼女が助けられるとは思えない。まして僕に出来るのは、明日香先輩の手伝いがせいぜいといったところだ――つまりは、彼女の足を引っ張らないことが、僕にとって最善の努力なのだ。

 そのことが、何故だか妙に引っかかっていた。

 元々所属するかどうかも迷っていたようなサークルの体験入会だ。無理をしてへまをやらかすのも、メンバーに迷惑をかけるのも、僕の本意ではない。

 なのに、気付けば僕は、とんでもないことを口走っていた。

「僕、探してきます」

 明日香先輩はにべもない。

「ダメ」

「もしかしたら、動けないような怪我をしているのかもしれません。夜が明けるまで放っておくわけにもいかないでしょう」

 言いながら、自分でも詭弁の類だと気付いている。

 けれど、引き下がろうとは思わなかった。それは僕自身のプライドの為か、それとも。

「二重遭難って言葉、知ってる?」

「僕がここにいても、先輩の邪魔をしないのがやっとだと思います。だとしたら、彼女がここに戻れる可能性を高める方が、よっぽどいい」

 彼女が、僕の目を見た。

 真正面から覗き込まれて、少したじろぐ。

「それ、本気で言ってるの」

 嘘や冗談にでも聞こえたのだろうか。僕は重ねた。

「なんとか、探し出します。最悪、担いででも連れて来ますから」

 少しの沈黙。微かな夜風に、森が鳴く。

 明日香先輩は嘆息して、コートのポケットを探り始めた。

「自信があるんだか無いんだか……よく分かんないね、君は」

 取り出した箱から、新しいココアシガレットを抜き出しつつ、呟く。

「見つけたら、とりあえずリュックサックの中に入れといた発煙筒を焚いて。移動できるならこちらに戻ってきて。自分の安全を第一に考えて。分かった?」

 僕は頷くと、傾いていた安全ヘルメットを戻した。

 明日香先輩に背を向け、再び森の中へと戻る。かつては生垣だったであろう毒々しい色をした花の塊を掻き分けると、月明かりも届かない暗闇に飲み込まれた。

 薄く木立の影が見えるようになるまで、じっと黒い帳に目を凝らす。そして同時に、耳をそばだてる。

 聞こえたのは、草花が揺れ、擦れる音だった。風が奏でるそれとは明らかに違う、もっとしっかりとした響き。どうやら妖精の足音らしい。視界の効かない暗がりでは、聴覚が敏感になる。音はいくつも、四方八方から聞こえてきた。無明としか思えない彼方から。

 慎重に一歩を踏み出す。躓くほどに膨らんだ木の根が無いことを確認して、次の足を。少しずつ進んでいくうち、この辺りは比較的足元が安定していることが分かってくる。微かに見える幹や枝葉の輪郭を頼りに、僕は歩いた。

 言い切ってはみたものの、才子を見つけられる可能性が限りなく低いことは、僕にも良く分かっている。森は暗く、そして広い。その中で一人の人間を見つけるのは、木の葉を見つけるより幾分か楽、というところだろう。

 何かしら、大きな痕跡が残っていたり、物音でも立ててくれれば、発見は早くなるだろうが。今はとにかく歩いて、そして五感を働かせるしかない。

 ただ神経を研ぎ澄まそうと、集中する。

(本当に、大丈夫なのかな)

 それでも、考えてしまう。物音、悲鳴、発煙筒の煙――今の所、才子の状況が分かるようなサインは何一つ見つけていない。それはもしかすると、事態がかなり不味いことになっているからなのかもしれない。

 心配だという気持ちは、確かにある。

 例え彼女が僕のことを嫌っていたとしても。一度ならず言葉をかわした相手が不幸に見舞われるというのは、寝覚めのいいものではない。

 頬に切りつける鋭い感触。枝が伸びている。僕はナタを取り出して、それを落とした。弾けるような音を立てて、枝が跳ね――そして、瞬く間に、新たな膨らみが切り口に生まれる。まるで早回しの観察動画のように伸びた枝から、どういう訳か白く小さな花が咲く。

 僕は、息を呑んだ。

 どう考えても、異常な現象だ。

 フェアリーサークルの中では、あらゆる機械が静止する。それだけでも立派な超常現象だというのに。あろうことか、この空間では、木や花々の成長が驚くほど活発になるらしい。とんだファンタジーだ。

 放っておけば、遠からず草馬区は森に飲み込まれてしまうのではないだろうか?

 水面に泡が浮かぶように、そんな妄想が湧いてくる――

 と。

 音がした。近い。

 茂みが踏み荒らされる、細かな音の重なり。誰かが森の中を歩いている。

 耳を澄ませる。向かって右手。

「咲原さんっ」

 叫んで、僕は駆け出した――少なくとも、そうしようとした。

 急に、つんのめる。何かに足を取られたのかもしれない。身体が軽くなったような錯覚。

 反射的に伸ばした手が、何も掴まず空を切る。

(まずい)

 音に気を取られすぎて、足元への注意が疎かになっていた。

 全身から冷や汗が吹き出て――天地がひっくり返っていくのを感じて――ナタが手の中をすり抜けていくのに気付いた辺りで、僕はまたしても全てを見失った。

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