5-6 癇癪にしちゃ、派手すぎる
どういう訳か、今更驚く気にもならなかった。むしろ、薄々感じていたことが、はっきりと確信に変わったことで、微かに安堵さえ憶えていた。
そこには、一人の少女がいた。やはり革張りのソファに横たわって。さっき目を向けた時、そこには人影どころかソファさえ無かったというのに。
(なんでもありだ)
ここは妖精達の国だ。どんな不可思議だって、きっとあり得る。
例えば、そう、目を閉じた少女が、皆本泉そっくりで――しかし、小学生ぐらいの年頃だったとしても、それもやはり事実として受け止めるしかないのだろう。
僕は自分の正気を疑った。疑ったところで、どうにかなるものでもなかったけれど。
けれど躊躇いはなかった。僕は素早く走り寄ると、幼い泉を抱き寄せる。今度は離したりしないように。
ゆきは一瞬、驚いた様子で、しかしすぐに状況を理解したようだった。
「――戻ってきたの?」
僕は頷いた。
「なんで?」
問いかける彼女は、金色の髪と青い瞳、そして黒い蝶の翅を持つ、紛れも無い妖精だった。その顔立ちだけが変わらない。思ったことがそのまま表れる。僕よりもよっぽど妖精らしい、整った面差し。
「なんで、わたしと一緒に遊んでくれないの? 約束したのに。もっとたくさん、遊んでくれるって」
「……ごめん」
そんな風にしか答えられない自分を、僕は殴りつけてやりたいと思った。
「そんなに、楽しいの? 人間の暮らしってそんなに面白かった?」
頭を振る。
彼女の顔に、僅かな明るさが戻った。
「結局同じだったでしょ? わたしもあなたも、どこにも居たい場所なんて無いんだって。わたし、あなたと一緒に遊んでいる時が、本当に、一番楽しかったんだよ」
どうしても言葉が出てこなくて、けれど、僕は喉の奥から声を絞り出そうとする。
「……うん。そう、思うよ」
何かを言わなければならなかった。例えそれが僕の身勝手だったとしても。僕はそうするべきだと思った。
「だったら、なんで」
窓から差し込む夕陽が、少女の頬を赤々と照らし出している。そして、もう一方の頬に、暗い影を落としている。
「見つかりそうなんだ。いや、もう見つけたのかもしれない」
「……それは、楽しいこと?」
僕は頷く。
「まだ、はっきりとは分からないけど。でも多分、きっと、僕の知らない――新しいこと」
僕が見つけたものは何なのか、確かめたい。そうだ、僕はたくさんのことを忘れていた。それと同じぐらい、たくさんのことを知らないでいる。
今更になって気付くなんて、本当に馬鹿げているけれど。
ゆきの顔は、くしゃくしゃだった。斜陽と、暗がりと、浮かぶ涙と、垂れる鼻水と、他にもたくさんのものが入り交じって、それはもう大変なことになっていた。
「――ズルいよ」
しゃくりあげる寸前、途切れ途切れの声。
「そんなの。ズルい。置いて、かない、で」
僕はどうすればいいのか、分からなかった。こうする以外に、手段を思い付かなかった。
「ヤだよ、そんなの」
なのに、手の中の銀時計は、ほのかに光を帯び始める。確かに
僕達は繰り返すのだろうか。
いつまでも子供のまま、終わりのないかくれんぼを。
――りぃん……
また、鐘の音が聞こえた。
まったく馬鹿馬鹿しいことに、その瞬間、僕もまた泣きそうになった。何の衒いもなく、号泣しそうになった。福音だと思ってしまったのだ。
言うほどに美しくはないし、心を震わせもしないのに。僕が知らなかったたくさんのことに気付かせてくれる、その音色。
「浅野っ」
今度は上を振り仰いだりしなかった。ただ素早く、後方に飛び退る――
どういう訳か、それを狙い撃つように、やっぱり彼女達は僕の真上に降り注いだ。
「ぷぎゅ」
自分でもどこからそんな声が出たのか分からない。いや、今のは本当に僕の声だったか?
「――いた! 浅野いた! 明日香さん、浅野いました!! あと泉も!」
「分かった才子、分かったからそこどけ、私が潰れる!」
「明日香、アンタこそどきなさい、重いわ」
「あのっ、えっと、ごめんなさい、出来れば妙さんもどいてもらえると――わっ、ごめんなさい、これ、誰のお尻ですか!?」
「ふにゃ、それわたし、わたしだよう! もー、誰これ、腕、苦しいよう」
「ご、ごめん皆本さん、あの、わざとじゃなくて――ちょっ、誰だ今殴ったの!!」
「うるさい死ね! 性犯罪者!!」
「だーっ、暴れるな! 分かったから! ド突き合いはよそでやれ、よそで!」
いやもう、何がなんだかさっぱり分からないながらも、もがき苦しみ呻き喚いて、複雑怪奇に絡み合った手足やら頭やらを解いていく。
それぞれが自身の頭から爪先まで一連で繋がっていることを確認し、狂いに狂った平衡感覚を取り戻し、己の足で大地に立つまで、どれぐらいの時間がかかっただろう。
そして、僕と泉を抱き締めたまま、頑として離れようとしない才子の温かさに気付くまで、どれぐらいの時間がかかっただろう。
「死ね……馬鹿っ」
「……ええと、あの、咲原さん」
これは辛い。子供の姿で抱え上げられるのとは、恥ずかしさの度合いが違う。しかも相手が咲原さんときたら、余計だ――そんなことを比べるのは初めてだったが、古本屋の成人向けコーナーに出入りしているところを見つけられるのと、家に置いてあった成人向け書籍を見つけられるのぐらい違う。いや、どっちも経験が無いので、あくまで想像だけど。
「さ、さいちゃん、痛いよう」
泉も抗議の声を上げるが、才子は黙って首を振るだけだった。短い髪が揺れると、彼女の爽やかな香りが広がる。
「諦めろ、二人とも。才子、完全に感極まっちゃってるから」
コートの裾を払いながら、明日香先輩が言った。
関節技じゃあるまいし、極まると外せないってどういうことだ。
「しかし、ちょっと見ないうちに、随分小さくなったね、泉」
言われて初めて気付いたかのように、泉は眼を丸くする。
「あっ! う、うん、あのね、あの子が一緒に遊ぼって言うから」
「だからって自分も小さくなる奴があるか。馬鹿」
明日香先輩はあくまで気安く語る。
言葉とは裏腹に、その眼は鋭かった。ゆき《・・》を静かに見据えたまま。
「うちの子に手ぇ出すとは、いい度胸じゃないか、君」
少女はもう、泣いてはいなかった。闖入者達をじっと、蔑むように睨みつけて。
「あなた達、何なの?」
驚くほどその声は冷ややかだった。子供にしかない、剥き出しの敵意――それはあるいは、妖精達とよく似た何か。
「祥星学園大学児童文学研究会。ゆきちゃんの仲間だよ、お友達。彼のことが恋しくなったのかい?」
肩をすくめて、明日香先輩。
彼女が語るその間に、隣に立つ妙さんは、僅かに膝を曲げて、いつでも飛びかかれるように準備を終えている。それは、紫檀の大弓を構えた志乃ちゃんも同じ事だった。
「グッドフェローはわたしのもの。あなた達には関係ないから」
少女は唸る。明日香先輩は楽しそうに眉を吊り上げた。
「――ふざけたこと言わないで。ひっぱたくよ、子供のくせに!!」
吠えるように応じたのは才子。ようやく僕と泉を手放すと、足元に転がっていた極地用のマウンテンバイクに手を掛ける。
「そーだそーだ。どっちかというと才子の方がゆきちゃんのことが好きだと思うぞ」
「明日香さんうるさいです!」
どうでもいい茶々に、才子が顔を真っ赤にして抗議する。明日香先輩は本当にどうしようもない人だ。
「交渉に応じるつもりはないわ。諦めなさい」
妙さんが冷ややかに投げかけるのと、対照的なのは志乃ちゃんだった。
「泉さんと浅野さんは、渡しません。私達の大切な仲間ですから」
思いがけなく熱い言葉に、僕はむしろ照れ臭ささえ憶えた。
「おっ、志乃ちゃん良い事言うねえ。流石子持ち! 最年長は違うなー」
「もう、明日香さん! 茶化さないでください!」
もっと思いがけない言葉に、僕は――少しだけ思考が停止する。とにかく明日香先輩はもう黙っていて欲しい。
ところが黙ったのは、ゆきの方だった。
蒼穹のような青い目で、罵り合い、じゃれあう彼女達をじっと見つめている。
ゆきが今、何を考えているのか。僕は分かるような気がした。多分、彼女も気付いたのだ。僕が、人間の暮らしで何を見つけたのか。これからの日々を、何に賭けようとしているのか。
「……ごめん、ゆき」
思わず、口走っていた。
「この人達なんだ。僕は――この人達に出会えたんだよ。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないけど」
きちんと伝えられているだろうか。いや、伝えなければ。それはただ、僕自身の為に。
「少しでいい。時間が欲しいんだ。これが間違いなのか、まだ分からないから」
応えはなかった。
泉達――児童文学研究会の面々は、いつの間にか口を閉ざして、僕を見ていた。何のことだか、彼女達にはきっと分からないだろう――いや、きっと話せば分かってくれるはずだ。少なくとも、聞いてはくれる。彼女達はそういう人達だ。
僕は応えを求めて、ゆきを伺う。そして同時に、考えを巡らせる。
さっきとは状況が違う。僕は人間で、ゆきは妖精だ。そして、彼女の背後に妖精女王はいない。今までとほとんど同じ「捕獲」のシチュエーションだ。
それなら、恐れることはない。みんながいれば、程なくこの状況も終わるはず。
(それじゃあダメだ)
そうではない。それ以外の選択をするために――
僕にしか、この「作戦」は成し遂げられない。
ふと視線が、ゆきから外れた。俯いた彼女の背後には、大きな暖炉があった。炉棚の上には、記念品がところ狭しと並べられている。誰かの肖像が収まった写真立て。トロフィー。ボトルシップ。異国の地で作られた守護神像。
その全てが俄に震え――ゆるゆると浮かび上がる。木製の写真立てが、不意に姿を消した。僕の頬を、風切り音が通り抜ける。
顔に触れる。ぬるりとした血の感触が指先を伝った。
「――逃げろ!」
僕がそう叫んだ時、彼女達はとっくに物陰へと飛び込んでいて。
誰かがシャツの袖を掴んで、僕を力強く引き寄せてくれた。
飛来した花瓶は、やはり僕をかすめて、煉瓦の壁に大きな磁器の花を咲かせる。雨か霰か、でなければ槍のように、部屋の中にあった調度が一斉に降り注ぐ。真夏の驟雨を部屋の中に閉じ込めたら、きっとこんな音がするに違いない。
「これだから、子供は嫌い」
耳を劈く騒音に混じって、妙さんのため息が頬を撫でる。シャツを引っ張りがてら、彼女が勢い良く僕の頭を抱きかかえたからだ。多分今日、僕は死ぬんだと思う。でなければ、こんなに何度も誰かの柔らかさを感じる幸運に預かれるだろうか?
「まあ、癇癪にしちゃ、派手すぎるね」
これは明日香先輩。僕ら三人――更に泉が隠れているソファの影から、恐る恐る顔を覗かせる。
間髪入れず、ティーカップが飛んで来た。
「グッドフェローは――わたしのものなんだから――っ」
ゆき自身の叫び声も、どこか遠く聞こえる。
「……かわいそう」
泉が呟く。
「うん」
僕は、頷いていた。
「――止めなきゃ」
言い聞かせるように、口に出すと。
妙さんが頭を振ったのが、気配で分かった。
「説得する自信はあるの?」
破砕音は止まない。それどころか一層激しくなりつつあった。
見上げると、頭上の窓ガラスに罅が入り始めている。
これはもう子供の癇癪なんてものじゃない。立派な破壊活動――いや、災害だ。
「まずは身の安全。それから次のことを考えよう」
こんな状況でも、明日香先輩は揺らがない。冷静に、やるべきことを組み立てていく。
「いいか、三人とも。一二の三で、部屋の入口までダッシュだ。姿勢を低くして、頭をかばって走る。とりあえず建物の外まで。あの妖精――ゆきをどうするかは、その後だ」
妙さんが頷く。花束のような芳しい香りがしたせいで、僕は頷くのが一瞬遅れた。
「しっかりしてくれよ、ゆきちゃん。色々頭がいっぱいだろうけどさ」
「すいません」
笑ってごまかそうとして、そんな余裕がある自分に驚く。
明日香先輩は、部屋の反対にあるソファに隠れた才子と志乃ちゃんにも手振りで作戦を伝える。そうして、手近なところに落ちていた、銀皿を一枚掴み取った。
「行くぞ――一、二の、三っ!!」
彼女が、ゆきに向けて投げつけた皿は、降り頻るインテリアの嵐に揉まれて、激しい音を立てる。破れたソファが吐き出す中綿をくぐり抜けて、妙さんが走り出した。その背中を追う。反対側のキャビネットに隠れていた才子達が、客間から廊下に出るもう一つの出口に飛び込んだのを尻目に。
「行かないで――グッドフェロー!!」
いっそ痛々しい彼女の悲鳴を振り切って。
僕は、尻尾を巻いて逃げ出した。
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