5-5 もう一度、やり直しで

 気付くと僕は、今まさに、銀時計を手にして、あの頃の僕と同じように、妖精女王の前に立っていた。幼い妖精だった頃と同じく、風に煽られた長い金髪が視界に影を作る。

 奇妙な感覚だった――記憶の中にだけあるはずの世界が、まさに現実感を持ってそこにある――まるで時を遡ったかのように。

 妖精女王が瞬きをするように、煌きを繰り返す。

『もしもお前達が、どうしようもない後悔を抱えてしまったのなら、願いなさい。そして信じなさい。その時計トゥールビヨンはあなた達を救ってくれるのだと』

 僕はじっと、鎖の下で揺れる銀時計を見た――そして、思い出す。僕がフェアリーサークルの中で体験した奇妙な出来事の数々を。中でも、最もおかしな出来事のことを。

「……ねえ、だからこの後、わたし達は約束をしたんだよ」

 は記憶の中の彼女と同じように、癖だらけの黒髪を風に遊ばせながら、僕の隣に佇んでいた。榛色の瞳が湖面を写して、きらきらと光っている。

「わたしがあなたを見つけるから。そうしたら、一緒に遊ぼうって。もう一度、取り替えっこをしようって――わたしが人間で、あなたが妖精で」

 そうだ――

 僕には、ようやく分かったことがある。

 あの日の夜――僕が初めてと出会った夜。僕は確かに、死んだのだ。けれど、。この古ぼけた、小さな銀時計のおかげで。

こうして今、僕がここにいる理由も、全く同じ――。この瞬間を。全てが決定的に変えられなくなってしまった、この時を。

「ね。遊ぼうよ。もう一度、やり直しで」

 は言う。満面の笑みで――どこか泣き顔に似た、笑い方で。

「やり直して、また飽きたら、入れ替えよう。わたしが妖精で、あなたが人間」

 僕は何か、言おうとしたのだけれど、どういう訳か、言葉の一つも出て来なかった。

もしかして僕は、妖精に戻れるのか。この奇妙で不気味な、けれど孤独で安らいだ世界に戻れるのか。

「そうやって、ずっとずっと。二人で、遊ぼうよ」

 それに飽いたなら。また人に戻って。それからまた、妖精になって。そして、再び、もう一度、何度も何度も繰り返し、延々と――

「ねえ、グッドフェロー」

 呼びかけられたなら、何か応じなければと。僕は口を開いて。

 ――りぃぃぃぃ……ん――

 澄んだ音だった。言うほどに優しくも繊細でもないけれど、意外なほどに力強い鐘の音。

 聴き覚えがある――今のが知っているはずもない――十五年後の、未来のだけが知っている。

『――この音!』

 女王の「声」が弾ける。リリパットなど比較にもならない衝撃は、実際に水面を走り、周辺の木々が悲鳴を上げるほどだった。

『忌まわしき音――人間の鐘の音!』

 は、今はまだ人間に過ぎない少女は、鳴り響く鐘を気にする素振りも見せない。

 ――りぃ……ん――りぃん――

 僕はといえば、鐘の音と女王が放つ「声」の両方に、頭蓋骨を突き破られそうな気がして、額を抑えることしか出来なかった。

 この痛みは何だ? この苦しみは何だ?

 ――りぃん……りぃぃぃん――りん――

 鐘は止まない。むしろ一層強くなる。朝の訪れを告げるように、暁を迎えるように、あるいは僕の目覚めを急かすように。

 僕は眠っているのか? 全ては夢なのか? それとも全てが現実なのか? ここはどこなのか? 今はいつなのか? 僕は間違っているのか? 僕は正しいのか? 僕はどうしたいのか?

 ――果たして僕は、誰なのか?

 鐘の音は大きくなる。耐え難いほどに――強く、激しく、僕の全てを揺さぶり続けて。

「――ゆきちゃん」

 誰かが僕を呼んでいた。不思議なことに、その声ははっきりとした輪郭を伴って、僕の耳に届いた。これだけ騒がしい中でも、立ち消えることはなく。

 誰だ。

 僕をその名前で呼ぶのは――

「ゆきちゃん」

 その声は、彼女でしかありえなかった。よりも少し高く、もっと舌っ足らずで、言葉を覚えたばかりの小鳥のような。

「……皆本、さん?」

 そんなはずはない。十五年前、ボクがまだ妖精だった頃、彼女がここにいたはずがない。仮に何かの偶然で出くわしていたのだとしても、ボクのことをそんな風に呼ぶはずがない。

「――やっぱり、ゆきちゃんだ」

 僕の手を取る、同じぐらいに小さな手。肩越しに振り向くと、やはり彼女はそこにいた。

 より髪が短く、幼い顔となっても、見紛うはずもない。満月の夜と同じ、群青色の瞳が僕を映していた。

「……なんで?」

 説明は出来るかもしれない。僕らの約束――妖精時計トゥールビヨンは時間も場所も超える不条理の証だ。ついでに、傍にいた誰かを巻き込んだって不思議じゃない。ただでさえ彼女は、妖精と素質の持ち主なのだから。

 それでもなお。

 僕は、奇跡を信じてしまった。彼女は僕の為に――僕を救う為に、現れたのだと。

 皆本泉は、少しだけ赤い眼尻をこすりながら、やはりと同じ笑顔で笑う。

「分かるよ。匂いがするもん」

「……匂い?」

 何の話だか分からない僕に、彼女は紙一枚挟めないほどに近づいて、

「ゆきちゃんの匂い。前に嗅いだ時と同じ。バニラみたいに、甘くて落ち着く匂い」

 くんくんと鼻を鳴らしてみせた。

 僕は思わず腕を持ち上げて、自分の肘の辺りを嗅いでみる。何の匂いもしない。当たり前か――人は自分の体臭には気付かない。

 いや、問題はそこではなく。なんだか無性に馬鹿馬鹿しくなって、笑い声がこぼれ出す。

 その腕を、強く掴まれた。

「――離れて」

 の顔は、真っ赤だった。腕を掴む手が、微かに震えている。

「グッドフェローから、離れてよっ」

 彼女は叫んだ。

「この子は、わたしのなんだから!」

「ダメ。ゆきちゃんは――わたし達の!!」

 泉も叫ぶ。負けじと唾を飛ばしながら。

「とうもろこしなんだから! キャンプなんだから! あと、砂を運んだり、なんか、なんとかしたりするんだから!!」

「何それ意味分かんない! グッドフェロー約束したもん! わたしとずっと遊ぶもん!!」

「わたし達だって、あれしたもん! 体験入会だもん! 会員だもん! 仲間だもん!! ずっと一緒なんだもん!」

 何を言っているのか、当人は分かっているのか。少なくとも僕にはさっぱり分からない。

「あんたアホなの!? 馬鹿なの!?」

「馬鹿じゃないもん! 馬鹿って言った方が馬鹿なんだもん!!」

「うるさいアホ! もじゃもじゃ頭!」

「もじゃもじゃじゃないもん! 天然パーマ!」

 分からないけれど。けれど、僕は。

「もーじゃもじゃ! もーじゃもじゃ!」

「違うもん違うもん! うー、嫌い! 馬鹿!」

 僕は。

 ――りぃぃぃん――

 再び、鐘の音。

 一層強く、大きく、呆れるほど騒がしく。頭の中心で暴れ狂う痛みに、吐き気さえ催す。

『――――』

 女王の叫びが臨界点を超えた。彼女を形作る光の幾つかが、軌道を逸れて弾け飛ぶ。広がる熱と衝撃が、湖畔に立つ木々の幾つかを吹き飛ばした。

 思わぬ熱波に、僕は思わず抱き寄せてしまう。と泉の二人を。

「グッドフェローは、わたしのだから! 二人でずっと遊ぶんだから! ずっとずっと、何度も何度も、繰り返しで!」

 叫んでいるのは、の方だったけれど、激しすぎて、その眼は少し潤んでいる。

 そして泉は――大きな瞳いっぱいに涙を溜めて。僕の方を、否、更に遠くを見ていた。

「うううううう」

 泣き出すのを辛うじて堪えて、彼女は唸りを上げる。声なき悲鳴。助けを求める声。

(誰か)

 その視線に釣られて、僕もまた空を振り仰ぐ。いや、ただ単に、押し寄せる苦痛の波から逃れたかっただけかもしれない。

(誰か――助けてくれ)

 そこには無辺の空が広がっていた。少なくとも、僕の記憶ではそうだったはずだ――妖精達の領域に太陽は無い。彼女達は退屈の次に太陽を嫌う。光の下では、余りにも全てが明瞭すぎて、見たいものを見ることが出来ないから。

 まったくそれはどういう訳だったのか。いつも空を覆っているはずの柔らかな乳白色の天幕から、眩い光が零れ落ちてきていた。人間には美しく――妖精達にとっては眼を灼かれるような。

「――――!」

 人が住む世界に射す、太陽の光だ。一体どうして。疑問だけが増える。

 とにかく輝きは真っ直ぐに僕らを照らし、その軌跡を辿って、何かが舞い降りてくる。

 違う。滑り降りて。

 いや違う。落ちてくる。自由落下だ。あっという間に影は大きくなる。雁字搦めに抱き合った、四人の女性。

「えっ」

 何が起きたのか、まったく分からないまま、とりあえず僕は両腕を広げた。

 そして、当たり前だけれど、そのまま押し潰された。

「ぷぎゅ」

 自分でもどこからそんな声が出たのか分からない。いや、今のは本当に僕の声だったか?

「――いた! 泉いた! 明日香さん、泉いました!!」

「分かった才子、分かったからそこどけ、私が潰れる!」

「明日香、アンタこそどきなさい、重いわ」

「あのっ、えっと、ごめんなさい、出来れば妙さんもどいてもらえると――わっ、ごめんなさい、これ、誰のお尻ですか!?」

「うひゃあっ、それ僕! くすぐらないで――ちょっ、ダメだってっ、ええっ」

 いやもう、何がなんだかさっぱり分からないながらも、もがき苦しみ呻き喚いて、複雑怪奇に絡み合った手足やら頭やらを解いていく。

 それぞれが自身の頭から爪先まで一連で繋がっていることを確認し、狂いに狂った平衡感覚を取り戻し、己の足で大地に立つまで、どれぐらいの時間がかかっただろう。

 そして、僕を抱いたまま、頑として離そうとしない泉の温かさに気付くまで、どれぐらいの時間がかかっただろう。

「……ゆきちゃんは、わたし達のだもん」

「ええっと……あの、ありがとう、皆本さん」

 前にも、こんな風に抱きしめられたな、と思う。つい最近のことなのに、随分昔のことのような気がする。

「……いや、ていうか、君、ゆきちゃんなのか? 泉――泉、だよな」

 明日香先輩が戸惑ったような声を上げるのは、これが初めてじゃないだろうか。

 反射的に肯定しようとして、どう説明すればいいのか、迷う。流石の彼女達だって、俄には信じ難いはずだ。

 何故なら今の僕は、あの頃のままの姿だったから。木の皮と花びらの服を着た、金髪碧眼の少年。事実として、その頃の僕は、浅野由紀彦では無かったのだ。

 泉はきゃんきゃんと吠える。いくら幼くなっても、その様を見れば、誰も彼女を見間違えたりはしないだろう。

「この子、ゆきちゃんだよ! だってほら、匂いするもん!」

「マジか」

 そんな訳あるか、と思う。

「そんな訳ないでしょ。犬じゃあるまいし、そんなこと分かるわけないじゃない」

 一言一句、才子の言う通り。むしろ小さな鼻を首筋に押し付けられると、泉が纏う甘い香りを感じてしまって、君の方こそいい匂いがする、と言ってしまいたくなる。

「あー。うん、でもなんか分かるわ。ゆきちゃん臭い感じ」

 気付くと明日香先輩が、僕の耳元に鼻を寄せていた。彼女がいつも吸っている、メンソールの香りがした。背後から押し寄せる柔らかな感触に、僕は完全に身動きが取れなくなる。

「……間違いなさそうね。金髪でも青い目でも羽根生えてても、鼻の下伸びると、浅野君の顔になる」

「なんですかそれ」

「その反論も浅野君っぽい」

 妙さんは躊躇なく、僕を指差す。

「……で、浅野さん」

 おずおずと話を進めてくれるのは、やっぱり彼女だった。志乃ちゃん。

「今、どういう状況ですか?」

 彼女が視線で示すその先には、やはり広大な湖があった。湖面に渦巻く光球は、もう女性でも樹木でもなく、全てを飲み込む暴風のように荒れ狂っている。

 そして僕の腕に絡みついたまま、離れようとしない少女。

 浅野由紀。の友達で――かつてだった人間。

「ねえ。グッドフェロー」

 俯いているせいで、彼女の表情は分からない。けれど声は酷く静かだった。泣き出す寸前のように。

「やり直せるんだよ。嫌だったことも、悲しかったことも、間違ったことも、全部無かったことにして」

 僕は、黙っていた。何かを言い返そうと思えなかった。

「わたしと一緒に遊ぼうよ。ずっと、ずっと」

 押し出すように、彼女が声を上げる。

 ――りぃぃぃぃ……ん――

「――――!!」

 耳から頭に針を差し入れたような、強烈な痛み。

『貴様ら――やはり! 今度は、何を奪っていくつもりだ!』

女王のが、突風を巻き起こす。

「近寄らないで。あなたが、泉さんと浅野さんをさらったんですね」

 毅然とした声を上げたのは、志乃ちゃん。鳴らしたばかりのハンドベルを掲げて、女王であった光の渦を見つめている。その横顔は、研ぎ澄まされた鏃のように、凛としていた。

 僕は――咄嗟に、ベルを持つ彼女の手を、掴む。

「ダメだ、志乃ちゃん」

「浅野さん?」

 訝しむ彼女に、僕は重ねて頭を振った。

「女王に触れちゃいけない。彼女は――僕らが敵う相手じゃない」

「でも、あの妖精が、二人のことを」

「違うんだ。そうじゃない」

 泉をさらい、僕を誘き寄せようとしたのは、だ。古い約束を守るために。もっともっと僕と遊ぶために。

 しかし彼女自身も、普通の人間に過ぎない。事態の因果は崩れ去ってしまっているのだ――当たり前だろう。時間を遡るなんて非常識なことが起きてしまったのだから。

(いや)

 そもそもが間違っている――仮に女王を捕まえても、を捕まえても、他のどんな妖精を捕まえても、何も解決はしないのだ。

 僕が。そして彼女が。何かを、変えない限りは。何かを選んで、何かを諦めない限りは。

「悩んでる時間はないよ、ゆきちゃん。どうする?」

 僕を背後から抱きすくめたまま、明日香先輩が囁やく。

「答えは分かってるんだろ。なら、教えてくれ。私達に」

 この窮地を解決する為にどうするべきか。はっきりとは分からない。が本当に最善だとも思えない。

 けれど、今ここでまごついていることが、最悪の選択だということは分かっていた。

乱舞する女王の輝きはギラギラと殺気立ち、今にも暴発しかねない。あの光の全てが“エッセンス”ならば、仮にその全てが火の玉イグニス・ファトゥスになった時、逃げ場はどこにもないだろう。

でも、それじゃあどうする?

(出来る事は二つしか無い)

 僕が――グッドフェローが、の元に戻るか。それとも。

「僕を」

 手の中の銀時計を握り締める。強く、強く。

「僕を、信じて下さい」

「今更」

 明日香先輩が、鼻で笑った。僕も笑う。ちょっとだけ、恥ずかしくなって。

僕はかつて――そして今、妖精だった。僕は知っている。彼女達がその気まぐれで、どんな理不尽も巻き起こしてきたことを。

ならば、僕にだって。

すぐ目の前には、幼くなった泉の横顔があった。僕にはそれが、素晴らしく頼もしいことのように思えた。許されるなら、その頬に口づけの一つもしてやりたいほどに。

 願う。が救われることを。そして信じる。妖精時計トゥールビヨンが、僕にチャンスを与えてくれることを。

 痺れを切らした志乃ちゃんが、ベルを振り上げる。妖精女王の輝きが、一層強さを増す。

――りぃぃぃぃ……ん――

それと同時に。

僕は、時計板が淡く光を放つのを、見たような気がした。

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