3-2 お姫様は、丁重に扱って

 風が草を撫でるような、かさかさという音が、不意に止んだ。

『……あっ』

 声に似た何か。

『――飴だ! 飴だぞ!』

 叫びは、森を震わせる。木の葉さえ揺らさずに、静寂の一欠片も壊さずに。

 そして、嵐が起きた。

 飛び交う歓声と罵声。行き交う小人達の影。巻き起こる喧騒は、おもちゃ箱を引っ繰り返したときのそれとよく似ていた。細やかなものがぶつかり擦れ、叩きつけられ転がり、興奮した子供達の奇声と身じろぎが混じって、騒音が鼓膜に突き刺さる。

 大気の震えも、震えのない声も、聞いてしまえば同じことだった。溜まらず両手で耳を塞ぎそうになる。

『飴! チョコ! グミ! クッキー!』

『人間だ!』

『人間が近くにいるぞ!』

『いいから食わせろ! お菓子食わせろ!』

『俺のもんだ!』

『よこせ! 僕によこせ!』

 想像以上だった。闇の中を、ほとんど弾丸と化した人影が駆け抜けていく。足元は言うに及ばず、枝葉の隙間、幹の肌、空間という空間に旋風が吹き荒れる。あとに残されるのは、葉を散らしながら花を芽吹かせる、奇妙な姿の木々。

 そして群がる小人達は、人集りというよりは、ほとんど山となっていた。押し合い圧し合い、罵声を上げながら手を伸ばす。

『甘露を啜れ! 焼いた菓子なら貪り喰らえ!』

 それは歌なのか、何かの呪文なのか。

 吹きつける暴風のような小人達に逆らって、僕は駆けた。駆けているつもりだった。

チャンスはこれしかなかったから。

(あいつらが、菓子に気を取られている隙に――)

 森を抜ける。

 気を抜くと、膝が笑う。必死にしがみついてくる才子の重さは、いかに軽いとはいえ、簡単に無視できるものでもなかった。

 黒く並ぶ木立の向こう、青白く光るトタンの壁が見えてくる。

(見えた)

 蹴散らした下草の青い匂いが、焼けつきそうな肺を満たした。僕は全身に、最後の喝を入れる――

『――おい、人間』

 人影が、降って来た。

『どこに行くんだい?』

 音も無く、僕らの行く手をふさいで。

 そうしてリリパットが浮かべているのは、好奇の眼差し。純粋に、目指す先を訪ねているかのような。

 ふと思う。遊戯を途中でやめる者がいるなど、彼らには理解出来ないのかもしれない。僕が彼らの遊戯を理解出来ないのと同じように。

 果たしてそれは、彼らが妖精だからなのか、それとも。

「――――!」

 咄嗟に、足が出た。妖精の身体は軽々と吹っ飛び、騒々しく茂みの中に消える。

 一目散に、僕は駆け出した。

(まずい)

 ついに見つかってしまった。蹴り飛ばしたあいつが『叫び』を上げれば、リリパット達はとてつもない勢いで殺到してくるに違いない。

 逃げ切れるか。逃げ切れなければ、どうなるか。考えたくもない――

 何かに躓いたと、思ったときはもう遅く。

「――うわぁっ!!」

「ひやあぁっ」

 顔面から、草の中に飛び込んでいた。背負った才子の体重が一瞬後に襲ってくる。

「痛っ――」

 勢いを失ってしまうと、途端に自分の身体が重くなった。痛みに耐えながら、とにかく立ち上がろうとする。

ぐい、と足を引っ張られた。

『何するんだよ、人間』

 振り向く。僕の右足にすがりつく、小人の影。

振り払うには、余りにもしっかりと脛を抱え込んでいる。

『おーい、みんなぁ!』

 遠く呼びかける思念が、間近にいる僕を直撃した。頭痛すら覚える強烈なイメージ。

『人間、いたぞぉ!』

 菓子の取り分の争議一色となっていたリリパット達の喚きが、にわかに色を変える。

『なんだとぉ!』

『ほら見ろ! 人間だ!』

『近くにいるぞ!』

『あっちだ!』

『いやこっちだ!』

『そっちだろうが!』

 そのかしましさが、恐ろしい。

「ど、どうしよ、浅野――」

 才子に問われたところで、もう返せる策も無かった。

「――畜生っ」

 それは最後の切り札のつもりだったのだけれど。

 僕は自分の手のひらを身体の前で重ねて、すがりつくリリパットの額に当てた。

「おいで妖精、今宵は宴、歌い踊って笑って泣いて、果てぬ夢こそ真夜中に」

 その言葉の真意が掴めていたわけじゃない。ただきっと、これは“エッセンス”を引き出す為の暗号のようなものだと、思っていた。もっと言えば、「ひらけゴマ」と同じような、魔法の言葉だと。

「馬鹿っ――」

 溢れた光に、才子の罵声も飲み込まれる。

(やった!)

 どうやら上手く行ったらしい。すかさず、脇下のホルダーから瓶を取り出す。網は手元になかったけれど、なんとか空を彷徨う“エッセンス”に手を伸ばす。

 石英ガラスで出来た檻の中へ、光の蝶が飛び込んだ。

 帯状の軌跡を描いて、“エッセンス”は踊る。夜に慣れた眼球が痛みを覚える程の凄まじさ。透き通る石英に当たっては道筋を変え、瓶の中の狭い世界を満たしていく――

 握った拳が微かに揺れた。僕の震えではない。

 瓶に触れた手のひらが熱い。光の放つ仄かな温かみが、いつの間にか焼け石のような灼熱へと変わっている。

(まずい)

 すぐさま、瓶を投げ捨てる。

 淡かったはずの光が、雷電よろしく闇を引き裂いた。轟音が耳を劈く。そこにあるのは、羽ばたく蝶に似た美しさではなく、怒りに満ちた神の鉄槌のような、荘厳さだった。

 闇も静けさも、もう意味を持たない。

 足元にあったリリパットの小さな身体が、ふわりと浮かび上がる。瓶から溢れ出す紫電は妖精の全身を覆うように広がり、やがて彼を一個の輝きへと変えていく。

「なに、これ……」

 呆然と、才子が呟いた。

 ばちん、と空気が弾ける。落雷じみた光の枝が、残像を描いた。

「……分からない」

 馬鹿みたいな、僕の答え。

 リリパットは、もう不気味な小人ではなかった。人の形をした炎のような、いっそ神々しいだった。辺りの空気が、歪んで見える程に熱を帯びている。放射される光で、眼球の裏がひりひりと痛んだ。

 ――これが、妖精の正体なのか?

 溢れそうな疑問に、僕は蓋をした――理性ではない部分が、僕を急き立てていたから。

(次は失敗できない)

 

 唐突な違和感。気にしている暇はない。

 才子を背負ったまま走り出す。宙に浮かぶ光の塊をかわし、月下を目指す。

 背後で、更なる轟音が上がった。次の瞬間、爆風が僕達の足元を掬い上げる。

「うわ――」

 頭から草むらに突っ込みそうになるのを、ばたつく足で何とか回避した。

「ヤバい」

 才子の呟きが、耳元に降りてこない。多分、後ろを振り返っているのだろう。

「なんか――」

 地面を蹴る。跳べよとばかりに、思いっきり。

「――飛んでくる!」

 稲光が落ちて、木々が燃え弾け、そうしてようやく焼けつくような温度が肌に刺さる。煽られながら、けれど足を止められなかった。

「くそ――」

「来る! もう一回!」

 思わず、見上げる――

 視界いっぱいに広がった輝きが、果たして近づいてきているのかどうか、僕には判断できなかったし、判断できたとしても間に合わなかっただろう。

 その一撃を避けられたのは、才子のおかげだった。まるで自転車のハンドルを切るように、僕の両肩を傾けたのだ。二人絡まって草むらを転がり、落雷めいた妖精のジャンプからとにかく逃げる。

 衝撃と焦熱に乗って、髪が焦げる嫌な臭いがした。

 考える。自分でも滑稽になるぐらい、真剣に。

 どうすれば、逃げ切れる?

 雷撃は、僕らを追って落ちてくる。森をまるごと消し炭に変えるその勢いに、容赦や慈悲の気配は感じられない。捕獲瓶で捕らえる前から、ずっと彼らにそんな様子は見られなかったけれど。あの子供めいた無邪気ささえ、今はもう影も形もない。

「めちゃくちゃ怒ってるんじゃないの、あれ!」

 ほとんど泣きそうな声で、才子が叫んだ。

「多分ね!」

 泣きたいのは、僕も一緒だ。

「どうすんの!?」

「お菓子! まだ持ってない!?」

「――探してみる!」

 耳をつんざく才子の大声。

 電光が閃いた。景色がねじれる。

(――――!)

 吹き飛ばされたのか自ら跳んだのか、自分でも分からない。ただ、直撃は避けれられたことと、背負っていたはずの才子がいつの間にか僕の下敷きになっていることだけがはっきりしていた。

 帯電した空気が弾ける音が、心臓が痛くなるほど響く。何故か、喉の渇きが妙に気になった。肋骨を破らんばかりに、鼓高まる鼓動。

 振り仰げば、球電は満月のようだった。

 夜空を藍に染め、木々を煌々と照らし、重力を感じさせない軌道でふわふわと浮かび。

 木の葉のような気軽さで、雷の如く大地を射抜く。

 胸の下で、才子が激しく身じろぎする。逃げ出そうとする訳でもなく、遮二無二自分の服を探っている。果たしてまだお菓子があるのかどうか。

 光が膨れ上がった。灼かれるような眩しさに瞼を閉じ、顔を伏せる。

 才子の声が聞こえた。

「これでも――」

 僕は、ただ目をつぶったまま、彼女を抱きしめる。少しでも雷電を防ぐ盾になればいいと思いながら。

「――っ!」

 吐き出すような彼女の叫び声。

 やがて来るその時に備えて、身を固くする――

「――――」

 …………

 時間が経ったのだと思う。

 それに気付いたのは、彼女の一声があったからだった。

「――痛いよ……離して、浅野」

 目を開ける。

 顔を真っ赤にして、才子が喚いている。

「早く。立って、走って! 急いで!」

 僕は顔をあげた。

 リリパット――纏う光で周囲の草木が焼けることを気にも留めず、彼は座り込んでいた。背中を丸め、一心不乱に何かをいじりまわしている。

 ……お菓子だ。

 多分、才子が隠し持っていた、最後のクッキー。

 熱に炙られて柔らかくなってしまったビニールを破ろうと、必死に袋の端々を引っ張っている。小さな指では力が足りないのか、それとも触れる傍からビニールが溶けるせいか、なかなかうまくはいかないらしい。小さな罵声を上げている。

 そうして見ると、電雷を帯びているとはいえ、リリパットは単なる子どものようで、少しずつ冷静になっていくうちに、一瞬でも死を考えたり、才子の盾になろうと思ったりした自分が物凄い間抜けのように思えてきて、同時に、密着していた彼女の温度や感触がじわじわ意識を占領していき、女の子の身体ってこんなに柔らかいものだったのかと思い始めた辺りで、勢い良く頬を張り飛ばされ、僕はようやく自分を取り戻したような気がした。

「暑苦しい! つか、キモい!」

「ええー……」

 それはあんまりな言い草だと思った。否定できないけれど。

「ていうか、早く離して! ホントに苦しいから!」

 痛む頬をさすりながら、起き上がる。口の中に、鋭い痛みがある。多分、張り手の衝撃で唇の裏を切ったのだろう。なんという威力だ。

「ほら、早く持ち上げて! 足痛いんだから!」

 僕は溜息をついて――息が触れるだけで、口内が痛む――才子を抱え上げる。そろそろ僕の腕力も限界を迎えそうだったが、あと少しの辛抱だ。

 ――と。

「ゆきちゃん! さいちゃん!」

 舌っ足らずな声がした。

「――――」

 木陰から、飛び出してくる影。才子は驚きの声を上げたけれど、僕は声さえ出なかった。

 それは泉だった。月光に照らされて、妖精のように煌く少女の影。

 柔らかく伸びた髪が、きらきら光る。広がるスカートは、羽ばたく翅にも似て。その美しい面差しは、神秘と言っていい程の気配を漂わせる。

 彼女が草むらに降り立つまでの、ほんの一瞬。それが酷く長く感じられた。

「――よかったあ」

 けれど、胸を撫で下ろす姿は、拙く愛らしい彼女のまま。

 今は素面だというのに、相変わらずよたよたとした足取りで泉はこちらへやってくる。下生えが焼け落ちていなかったら、すぐにでも転んでいたに違いない。

「二人とも、無事でよかったよう」

 広げられた両手を、避けようとは思わなかった。腕の中の才子ごと、彼女は僕を抱きしめてくれる。

「泉、なんでここに? みんなは?」

 才子はほとんど問い詰める勢い。僕はなんとなく、それが彼女なのだろうと思った。その刺々しさは、真剣さの裏返しなのか。

「あの子達、工場に集まってお菓子食べ始めてたんだけど、ちょっとしたら、なんかみんな森に戻り始めちゃって、明日香さん達はそっちに」

 さっきのお菓子騒ぎのせいだろう。リリパット達はかなり興奮していたようだったから、捕獲がうまくいっているといいけれど。

「あんたは?」

「二人がいなかったから、どこに行ったんだろうって思って、探してたよ」

 たった一人で、はしゃぎ回るリリパットの中を?

「馬鹿!」

「えへ」

 言いたいことは、才子が言ってくれた。

 泉が首だけで辺りを見回す。間近で揺れる長い髪から、得も言われぬ甘い香りがした。

「なんだかすごい音してたね」

「そこのリリパットがね。なんか、すごいバチバチ言っちゃって。無理矢理“エッセンス”を抽出しようとしたからだと思うんだけど」

 アーモンド型をした才子の瞳が、何故か僕を狙う。

 細められた彼女の目は、思った以上に鋭かった。

「この馬鹿がね」

 彼女が脚を怪我していなかったら、多分、靴ぐらいは踏んづけられていたかもしれない。

アレ・・は誰にでもできるもんじゃないの。泉とか、明日香さんとか、素質・・が無いと無理なんだっつの」

「……ごめん」

 初めて聞く話ではあった。そもそもあの呪文は一体何なのか。僕は知りもしなかった。

 とはいえ、才子の怒りはもっともだと思う。結局、僕は彼女を危険に晒したのだから。

何かの役に立つどころか、ほとんど足を引っ張ることしかしていない。彼女を見つけたのも偶然なら、ここまで逃げて来られたのもほとんどが偶然の産物だ。

 言い返せないままの僕から、不意に才子が目を逸らす。

「……まあ、でも、いいよ。もう」

 急にもごもごと、曖昧な言葉。

「え、な、何が?」

「もういいって言ってんの」

 それだけ言い捨てて、もう彼女は目を合わせてはくれない。

 くす、と笑みを漏らしたのは、泉。

「よかったね、ゆきちゃん」

「う、うん……あの、え、何が?」

 何が何だか分からない。

 けれど、僕達を抱く泉の細い腕に、少し力がこもったような気がした。

「わたし、嬉しい」

「……そっか」

 間の抜けた僕の返事。

 彼女が嬉しいのなら、きっとそれでいいのだと思ってしまう。泉の笑顔は、なんだか不思議だった。可愛らしいのは間違いないのだけれど、それだけのものでもない。胸の奥の方に入り込んでくるような、ふわふわとした感覚は一体何だろう――

「――才子さん! 浅野さん!」

 呼ぶ声。

 最初に走ってきたのは、志乃ちゃん。しばった黒髪がほつれて、頬にかかっている。

「志乃ちゃん! そっちは!?」

 僕が問うと、切れ切れに彼女は答えてくれた。

「今の――落雷で、リリパット達は、みんな、逃げ出しちゃって」

 後からやってくるのは、妙さん。どれだけ走ってきたのかわからないけれど、息は切らさず、顔色は涼し気なまま。黒っぽい細身のアノラックは、彼女によく似合っている。

「何があったの」

 彼女は、焼け落ちた森を見渡し――そして、光り輝くリリパットを見つけて、微かに頬を歪めた。

「……“愚か者の炎イグニス・ファトゥス”」

 独りごちると、すっと右足を踏み出す。軽く握った拳を、前に差し出しながら。

「イグニス? な、なんですか?」

 一応訊ねてみるが、応えてはくれなかった。いつも以上に厳しい眼差しで、妙さんは光るリリパットを見据る。

「不味いわね」

「うん、マズい。確かにマズい」

 ようやく姿を見せた明日香先輩は、ココアシガレットを咥えたまま器用に喋る。

「全員、撤退準備。奴の足止めしながら、森を離れよう」

「えっ、りょ、了解です!」

 答えながら、僕は腕の中の才子をもう一度抱きなおす。

「ゆきちゃん、落とすなよ? お姫様は、丁重に扱ってあげなきゃ」

「なっ――」

 絶句する。それは、才子も同じだったようで。

「だっ、だだ、誰がっ、お姫様って」

 途中で舌を噛んだらしく、言葉は途切れてしまったが。

 明日香先輩はいつものように右手を上げて、号令を発する。

「妙、囮になれ! 志乃、奴の進行方向を塞げ! 泉はゆきちゃんのサポート! ゆきちゃんは死んでも才子を守れ!」

 とにかく勢いで、僕は――僕らは叫んだ。

「了解!!」

 ようやく菓子を食べ終えたのか、リリパットが光り輝く眼を、再びこちらへと向ける。

 バリバリと大気が爆ぜ、その周囲どころか、目に映る全てが歪み始める。

 今までにない、大きな雷光の気配。

「逃げろおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 僕らは叫んで、誰からともなく駆け出した。

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