2-3 傷も腫れも、痛みさえも無い
「うん、まあその、大体分かったよ。大体だけど、つまり、目が覚めたら床で寝てて、しかも右腕に泉、左腕に志乃がくっついてて、つい鼻の下を伸ばしてたら、才子に辞書で思いっ切り殴りつけられて、悶絶した結果が今のそれってわけだ。うん。当たってる?」
「……多分、大体は」
明日香先輩の問いに、僕は不承不承答えたけれど、うまく伝わったかは自信がない。
鼻血を止めるために詰め込まれたティッシュのせいで、酷い鼻声になってしまっていたから。それと、理不尽な暴力に対する怒りが、胸中で鎌首をもたげていたから。
「あの、本当に、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
志乃ちゃん――
「正当防衛ですから」
それに比べて、傲然と呟く才子ときたら。
「あたしは二人のことを守っただけです。この性犯罪者から」
堂々とし過ぎなくらい堂々とした仁王立ちで、僕を見下ろしている。視線に含まれる侮蔑の感情は、昨夜よりも苛烈だった。
いい加減、何か言い返したいと思うが、眼差しの冷たさに、心臓の辺りがきゅっとなる。
「あの、才子さん、その、事故みたいなものですから――」
「志乃ちゃん、甘すぎ。そいつホントキモかったの、ニヤニヤしてさ」
そんなことはない。
とは、言い切れないのが、僕を余計に尻込みさせる。
「結局、泉のことが気になっただけなんでしょ? あたし達が何してるかも知らないで、フラフラついてきて、調子に乗って――」
彼女の罵倒は、むしろ正しいとさえ言えた。
「まあまあ、落ち着いて。憎しみや争いは何も生まない、ただ虚しいだけだよ。なあ」
明日香先輩が間に入ってくれる。しかし、才子も退こうとはしない。
「明日香さん、こんな奴、必要ないですよ。昨日だって何の役にも立たなかったし」
僕は思わず口を開いて、けれど言い返す事も出来ずに、彼女を見上げた。
確かに僕は、昨夜の大立ち回りで、何か役に立ったわけではない。したことと言えば、慌てふためいた挙句になんとか網を構えたぐらいで、後は派手に殴られて気絶しただけだ――
はっとして、自分の胸部に触れる。
何ともない。傷も腫れも、痛みさえも無い。
殴られたのは確かにここだったはずだ。全身を砕かれるような衝撃をまざまざと思い出す。そして、ゆっくりと身体が動かなくなっていく、あの感覚も。
「わーかった、うん、大体分かった。とりあえずここは私が預かるから。まかせとけ」
「嘘だ、明日香さん絶対分かってないでしょう! 適当なことばっかり!」
「そんなことない、ちゃんと分かってるよ。才子はあれだもんな。ツンデレだもんな」
「違います!」
夢だと思いたかった。酷く生々しくて、目覚めてからもなかなか拭い去れない、そんな類の悪夢だと。
動悸が早くなる。感じないはずの苦しみで、肋骨が軋んだ。
今更になって、僕は思う。そして後悔する。
あの時、僕は、もしかして――
「大丈夫ですよ、浅野さん」
声は優しかった。
「明日香さん、いい加減だけど、優しい人ですから」
志乃ちゃんは微笑みながら、新しくねじったティッシュを僕に差し出してくれる。
その優しさは、何の為なのか。分からないまま、僕はティッシュの塊を受け取った。
「いや、あの……っていうか、僕はまだ、児童文学研究会に入ると決めた訳じゃ――」
「――でも、皆本のことは気に入ったんでしょう」
「えっ」
指摘。
振り返ると、一人だけベッド――僕のベッドに眠っていた妙さんが、起き上がっていた。
「違うの?」
あの大乱闘の中で、彼女は一際美しかった。抜群のプロポーションに、優雅で力強い戦いぶり。けれど、こうして明るい場所で相対すると、その華麗さは更に飛び抜けていた。涼やかな眼差しに、小さな泣きぼくろ。真っ直ぐ通った鼻筋が、彼女にエキゾチックな魅力を与えている。
「い、いや」
「違うの」
眠る時に邪魔だったのだろう、一度解いてから無造作にくくられた髪や、寝乱れたワイシャツも驚くほど色っぽい。傍らに投げ捨てられていたタイトスカートを見なかったふりで、僕は声を上げた。
「べっ、別に、皆本さんを追いかけてきた訳じゃなくて、むしろ僕が連れてこられたっていうか」
「ご、ごめんね、あの、わたし、迷惑、かけて」
迂闊だった。
泉は昨晩の陽気さが嘘のように、部屋の隅に小さく丸まっていた。昨夜の失態を恥じているのか、真っ赤な顔で必死に言葉を紡いでいる。
「あの、わたし、すごく酔っ払ってて、全然、お酒飲んだりするつもり、なかったんだけど、明日香さんがこれはジュースだって、すごく甘いからって、それで、わたし、なんだかもう楽しくなっちゃって、お城とか造ったら楽しいかなって」
「あっ、ご、ごめん」
僕は慌てて、手を広げる。何かを打ち消そうと、バタバタ振り回しながら、
「違う、君のせいだっていうんじゃなくて。実際、僕もなんだかんだ君についていった訳だし。ただ、その、それはそれとして、サークルに入るかどうかっていうのは、僕個人の問題だから」
「なんだ君、あれか、うちの娘に手ぇ出しといて、タダで帰れると思ってんのか?」
「えっ、ちょ、なんですかそれ、完全にヤクザじゃないですか。そもそも僕、手とか出してないですし」
明日香先輩が笑うともなしに、口角をあげている。昨日は人の話もろくに聞かなかったくせに、揚げ足だけは取ってくる。
細められた目が、まるで猫のような。
「明日香さん、こいつ、ホントに入れるつもりなんですか」
またしても噛み付いてくる才子を、彼女は片手でいなしてみせる。
「まあ待て。才子の気持ちも分かる。どうやらゆきちゃんは、我らがアイドル皆本泉に夢中みたいだしな」
どこから訴えればいいのか分からないが、とにかく抗議しようとした僕の口も、彼女は片手で抑えてみせた。
「さてここで、児童文学研究会副会長である私からの提案だ」
その目線だけが、全員の表情を追っている。
「諸々の事情を慮った結果、ゆきちゃん――浅野由紀彦君を、入会希望者として、体験入会に招待してはどうかと思う。期限は一週間。入る方も迎える方も、どうするか決めるのは、それが終わってからで良い」
少しの間。
誰もが口を開くきっかけを見出せないうちに、明日香先輩は僕を見た。
「で、どうだ? ゆきちゃん」
「あ――はい」
そうして僕は、何かを主張する前に、首を縦に振ってしまったのだった。
「よし、じゃ、そうと決まったら、とりあえずなんか買ってきてくれ。私、プレミアムなビールな。めでたいから」
突き出された一万円札を前に、僕は目を瞬かせる。
「……え?」
「ボサッとしない。歓迎会だよ、君の」
それは嘘だ、と僕の直感が告げていた。酒を飲みたいが為の口実だ――と否定しなかったのは、もしかすると、彼女に対して少し恩を感じていたからなのかもしれない。
窓から差し込む朝の光が、部屋の空気に浮かぶ塵をキラキラと輝かせる。
こんな風に埃が舞い立つのを、僕は見たことがなかった。自分一人で部屋にいる時は。
「アタシはウコンの力。それと、拭くだけのメイク落とし、ウイスキー系とソーダとロックアイス。あ、トリスはやめてね」
妙さんは、静かに、けれど有無を言わせない強さで言い切る。
「あっ、わたしプリン食べたい! あと、さきイカ! それと、ビーフジャーキー! それから、メロンパンと」
陽気に声を上げたのは泉。さっきまでの反省はどこにいったんだ。
「……じゃあ、あたしカシスオレンジ。それとポテトチップスの柚子胡椒味。今月限定のやつ」
しれっと才子まで注文を押し付けてくる。
いまいち釈然としないまま、僕は明日香先輩の手から一万円札を受け取った。
果たしてこれはどういう状況なんだろう。
つい昨夜まで、ろくに友達さえいなかったはずなのに。いつの間にか、僕の部屋が宴会場にされている――しかも僕の歓迎会という名目で。さらに驚くべきことに、参加者は皆女性だという。
これは罠だ。何かの罠だ。なんだか分からないけれど、きっと罠じゃないかな?
「大丈夫ですよ、浅野さん。私も一緒に行きますから」
志乃ちゃんの心遣いに感謝しつつ、そんなことを考えているうちに、僕はすっかり忘れてしまっていた。
感じていたはずの、小さな違和感を。
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