5-8 きっと見つけたんだと思う
それはまるで悲鳴のようだった。空間に満ちる震え、そして騒音。傾ぎ、揺らぎ、捩れ伏した家屋が挙げる、断末魔。そこに残されていた思い出の悲鳴。
そんなものは単なる感傷に過ぎなかったとしても。気安くしていられるほど、状況は芳しくなかった。三階建て西洋建築の崩落に巻き込まれるその瞬間に、魔法の時計が力を貸してくれるかどうか、僕には確信がない。ずり落ちてきた眼鏡を、指先で押し上げる。
さっきまでの緊張感はどこへやら。明日香先輩はモッズコートのポケットに手を入れて、だらしなくそこに立っていた。
「無事で何よりです」
まずは一つ、言っておく。
彼女はニッコリと笑った。
「まあね。お陰様でね」
僕と明日香先輩が言葉をかわす。やりとりの間に、立ちはだかる少女が一人。
言葉も無く、僕を見つめる眼は深い青色。吸い込まれそうな色合いだと思うのは、きっと僕だけなのだろう。出来ることなら、そうしたいけれど。
「……見てるだけじゃ、僕は捕まえられないよ」
ゆきは応えない。
「そんなこと言っちゃって。ホントに逃げ切れるつもりなの? ゆきちゃん」
代わりに口を開いたのは、明日香先輩だった。
僕は笑顔を作る。出来るだけ強気な表情で。
「無理だと思ってます?」
それはもう誰より僕自身が、とは言わないでおく。
「まあ、わたしの前に出てきちゃったからなあ」
軽口を叩く。
そうしていながら、彼女はポケットから手を出さない。
僕にはそれが、不気味に思えた。
「流石、強気ですね。明日香先輩」
「だって、アレだろ? 捕まえたら、君を好きにしていいんだろ?」
先輩が言うと、若干ニュアンスが変わっている気がする。
「いや、それ、ちょっと違うような」
「つまり君は捕まえた人の所有物になるわけでしょ。ってことは、何をどうするのも持ち主の自由ってことじゃん」
からかわれている。彼女の妙に楽しそうな顔を見ているだけで、僕は胃の辺りにずしんと重い物を感じた。
「そりゃ、わたしも頑張るよ。うん」
「……言っておきますけど、お金とかは貸しませんよ」
念の為、釘を差しておく。
「何言ってんだ君は。わたしが金に困ってるように見える?」
口をへの字に曲げて、大げさな鼻息まで立てて、先輩は言う。
「うら若き乙女が、若くて活きのいい男子をとっ捕まえたら、やることなんて一つでしょうが」
「……えっ」
何の話だ。まさかセクハラか?
「君は、本当にアレだよな。なんていうのかね。こういうの」
嘆息。
そして、明日香先輩が一歩近づいてくる。僕は思わず後退る。
「何も獲って食おうって訳じゃないよ?」
そんなことは当たり前だ。と言い切れるだろうか?
「……ねえ、明日香先輩。分かってますか?」
「うん、もちろん」
更に一歩、彼女が踏み込んでくる。合わせて僕も、後ろに――
「――うわっ!?」
気付いた時には、身体が平衡を失っていた。宙に浮かぶほどの勢いもなく、ただ無様に尻餅をつく。背骨を突き上げるような痛みに、声を上げることも出来なかった。
「――――」
何かがおかしい。僕は何に足を取られた?
勘繰るまでもなく、答えはそこにあった。
足首に絡みつく布――僕が穿いていたジーンズ!!
「今だ、行け!」
明日香先輩の号令に。
「――捕まえたっ」
応じたのは、ゆきだった。
飛び込んでくる少女の背には、黒く大きな蝶の羽根があった。ビロードのように艷やかで、翡翠のように煌めく美しい紋様。懐かしいその姿に、僕はほんの刹那目を奪われた。
そうでなくとも、彼女の念力でベルトを外され、ジーンズを引き下ろされ、トランクス丸出しではかわしようもない。というか、なんてみっともない姿をしているんだ、僕は。
予想以上に軽い彼女の身体を抱き留めて、僕は床の上――壁の上に倒れ込んだ。
「――捕まえた!!」
部屋に響く、少女の快哉。
「やったっ、やったやった捕まえた! 捕まえたよグッドフェロー!!」
歓声を上げる少女は、あの頃とほとんど変わらないように見えた。まだ僕が妖精で、彼女が人間だったあの頃と。
塞ぎがちだった少女が、初めて見せたあの笑顔。
多分、それは僕も同じなんだろうと思うと、なんだか妙に面映い気持ちになる。彼女が子供なら、僕だって子供だ。少しばかり、違うものを見てきたというだけで。
「あたしやったよ、アスカ!」
満面の笑みのまま、彼女が振り返る。
先輩は、くすりと息をこぼして、柔らかく微笑んだ。
「ああ。よくやったね、ゆきちゃん」
その賞賛が誰に向けられたものなのか。僕はじっと、明日香先輩を見ていた。
コートのポケットから出てきた彼女の手には、何も握られていない。捕獲瓶も、“冷たい鉄”のベルも。つまりは、ブラフだったのだ。あるいは杞憂だったというべきか。
空の手を振り回しながら、彼女は嘯いた。
「つまりさ、こういうことなんだろ? 君の作戦っていうのは」
僕は頷く。先輩が笑う。
「君は本当に、デタラメだなあ」
それは酷く心外な評価だったけれど、存外悪い気はしなかった。自分でも、そうだとしか思えなかったから。
僕は肘を突いて上半身を起こすと、はしゃぐ少女に手を伸ばした。
彼女はその手を、取ってくれた。
「ねえ、ゆき」
僕は言う。
彼女の青い眼には、僕が映っていた。かつて彼女だったはずの、僕が。
「僕、見つけたんだよ。きっと見つけたんだと思う」
かつて僕だったはずの彼女は、穴が空きそうなほど、こちらを見つめている。
「僕達が知らなかった、新しくて、楽しいこと」
言ってから照れ臭くなって、少し笑う。彼女もつられて、笑ってくれた。
「私も見つけたよ。グッドフェロー」
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