3-5 僕の小さな友達

 そこは夜でもないし、朝でもなかった。

 寒さは感じない。晴天よりも遥かに明るいそこは、春めいた陽気に包まれた、不思議な場所だった。

 空を仰いでも、太陽はもちろん、雲さえ無かった――ただ乳白色に煌く薄い層のようなものが、ゆるゆると天を覆っているだけで。それが雲でないと思うのは、柔らかそうな膜の表面に立つ小波が、うっすら虹色の光を放っているからだった。オーロラよりもふわふわとした、燐光のカーテン。

 まったく現実離れした光景だと、僕は思った。

 だから、これは夢なのだろう。

 それも多分、白昼に見るような、ささやかな幻影。

 歩き出すと、青々とした芝生に足の裏をくすぐられて、心地良いような、気恥ずかしいような。

 その時、自分が何故か裸であることに気付いたけれど、そのこと自体はあまり気にならなかった。

 これは夢なのだから、誰かの目を気にする必要もない。

 そうだ。

 ここでは、誰かに虐げられることもなければ、暴言を吐かれることも、騙されることもない。誰かに気を使うこともないし、誰かを慮る必要もないし、虚しい努力をした挙句、気の使い方が間違っていたのかと悩む必要だってない。

 だからもう、傷ついたり、傷つけたりする必要はまったくない。

 何もかも問題ではない。

 ここはそういう場所だ。揺り籠のように優しく、思い出のように甘い。

 僕がかつていた場所。

 そして、やがて至る場所。

 風が吹く。

 どうしてだろう。

 僕は疑問を抱く。

 ここに、動くものは一つもない。ただ、僕がいるだけで。なら、どうして風が吹く?

 風の行き先に目を向ける。ただ地平線と空が融け合って、それ以外には何も無い。逆を振り返っても同じ。空とも地平線とも付かないどこか。

 風は、その向こうから吹いてくる。

 遠く遠く、僕の知らない、見たこともない場所から。

 歩く。ひたすらに歩いていく。疲れは感じない。

 だって、これは夢だ。きっと現実の肉体は、ゆっくりと眠っていて、動いているのはほんの僅かなニューロンだけ。

 そのうち、地平線に影が見えてくる。そこからはすぐだった。

 古い家。なんだか懐かしい感じがする――大草原の大きな家。

 ――これは、おばあちゃんの家だ。

 子供の頃、一度だけ行ったきり、二度と訪れることはなかった場所。

 実際のところ、殊更懐かしむほどの思い出があるわけではない。

 強いて言えば、女の子と約束を交わしたことぐらいだろうか。また、必ず遊ぼうと。しかし結局、果たすことはできなかった。

 忘れた訳じゃない。どうしようもなく、果たせなかったのだ。

 あの夏を境に、彼女は姿を消してしまったから。

 まるで最初からいなかったみたいに。

 僕は周りの人間に何度も訊いた。父、母、その他の親戚。

 そして調べた。どこかに彼女がいた証拠が残っていないかと。

 やがて気付いた。

 僕自身、彼女の名前さえ憶えていないことに。

 彼女がどこに住んでいて、どうして祖母の家にいて、どうして友達になったのか。

 思い出せることはほとんどなかった。初めから知らなかったのかもしれない。

 ただ、約束だけが、胸の底にこびりついていた。

 不意に、鼓動が高ぶる。

 まさか、あの家の中に、彼女がいるのだろうか?

 名前も顔も分からない少女。けれど、記憶というのは引き出せなくなるだけで、消える訳ではないと、誰かが言っていた。

 だから多分、会えばきっと、彼女だと分かるはずで。

 気付くと僕は、玄関の前に立っていた。建物そのものと同じぐらい、長い時間を風雨に晒され、半ば色を失いつつある木戸。

 その取っ手に、手を掛ける。

 ――ごんっ。

 痛かった。夢だというのに。

 どういう訳か、ドアは内側から開かれたのだ。まったくもって遠慮も容赦もない勢いで。

「ぴぎゃあ――」

 名状しがたい悲鳴。僕が漏らしたものではない。

 半開きのドアに、僕同様に――ただし、内側から額をぶつけた女性は。

「……皆本さん?」

 どうしてよりによって、彼女なのだろう。

 皆本泉。

 彼女が夢に出てくるなんて――まるで夢みたいじゃないか。

「……ゆきちゃん」

 大きな目を零れ落ちそうなほどに見開いて、泉が呟く。

 まったく夢というのは、恐ろしいものだと思う。

 少しも筋が通らないのに、細かいところで妙に帳尻を合わせようとする。

 その証拠に――どういう訳だか、彼女も裸だった。

 なんてことだ。信じられない。

 彼女の肌は絹ほどに白く艷やかだった。柔らかな髪に包まれた肩は細く、伸びる腕も苗木のように華奢で。腰や脚も負けず劣らずの控えめさだけれど、だからこそ、大きく際立つ部分がある。

 彼女の身体は、自身の作品と同様、一種完成された美しさを湛えていた。

 いくつかの著名な裸婦像が脳裏を過るほどに。

 ……ああ。つまりその、あれだ。

 眠りにつく前に余計な情報を吹き込まれたせいで、それが奇妙な形で顕現しているのだろう。

 彼女の裸を見てしまった――いや、実際には見たことなど無いのだから、これは単なる妄想だ――ことよりも、そんな自分の感想に動揺する。

 何故だか、恥ずかしさや厭らしさはまるで感じなかった。

 多分、泉もそうなのだと思う。

 彼女はいつも通り、じっと見たまま、身体を隠そうともしないのだから。

 考えてみれば、これがありのままの姿なのだ。今更隠す気にもならない。

 むしろ、どうして服なんて着る必要があるのだろう?

「み、皆本さんが、なんでここに?」

 どうして僕の夢の中に、と訊ねなかったのは、答えを聞きたくなかったからだ。

 なんと言ったらいいのか。夢の中の「リアリティ」を損なってしまう気がして。

「……ここ、どこ?」

 彼女がぐるりと見渡すのにつられて、改めて僕も周りを観察する。

 まさしく平原。青々とした芝生は本当に彼方まで広がり、どこを見ても地平線しか見当たらない。生き物の影もない。

 いるのは僕と泉、あるのは「おばあちゃんの家」だけ。

 これが僕の心象風景だとしたら、カウンセラーは何と分析するだろう。

 いや。そんなことより。

「家の中に、誰かいなかった?」

 僕が知りたいのは、それだった。誰か、というより、はいなかったのか?

「……わたししか、いなかったよ」

 ひっそりとした声で、泉が答えてくれる。

「本当に? 小さな女の子がいなかった? 六歳か七歳ぐらいの」

「ううん。見てない」

 でも、僕には妙な確信があった。

 これが僕の夢なら、ここには必ず「彼女」がいるはずだと。

「おかしいな。でも、絶対どこかにいるはずなんだ――」

 フラッシュバック。あるいは天啓。彼女はあの時、なんて言っていた?

「中、見に行くの?」

「……ん?」

 今更、気付く。泉の声は、微かに湿っていた。

「誰も、いなかったよ。暗くて、静かで、とっても冷たくて」

 改めて、向き合ってみれば分かることだった。

 彼女の目は腫れていたし、鼻先は紅潮していた。

「すごくね。すごく、寂しいところだったよ」

 僕は、鼻白んだ。

 いや、驚くことは何もない――ただ、泉が泣いているだけだ。

 それだけのことなのに、僕の身体の何処かが、抉り取られたような心地がした。

「みんな、どこかなあ。どこに行っちゃったのかなあ。わたし、置いていかれちゃったのかなあって」

 ――これは本当に、僕の夢なのか?

「ずっと考えてたら、悲しくなっちゃって。わたし、やっぱり一人ぼっちなのかなって。要らない子なのかなって、そんなの、もう、そんなことないって分かってるはず、なのに」

 今まで一度でも、泉がこんな風に泣きじゃくるのを見たことがあったか? あるいは、それを想像したことがあったか、もしくは見たいとでも思ったか?

 ありえないとは、言い切れない。

 優しく、だらしなく、朗らかに、笑う彼女のことを、僕は知っている。

 それ以上に、彼女の色々な顔を、もっと見たいと思っていた。例えば弱々しく泣き腫らした、その顔を。

 だからって、こんな夢を見る必要があるか? 僕はこれで満足なのか?

 とにかく僕はジーンズの尻に入れっぱなしのハンカチを差し出そうとして、今はジーンズさえ穿いていないことに気付く。

 服を着ていないって、なんて不便なんだ。

 仕方なく、伸ばした指先で、頬を流れる涙をすくいあげてみる。

 拭える量は、たかが知れていたけれど。

「大丈夫だよ。泣かないで、皆本さん。僕が――僕が」

 僕が何を言える? この夢は、そもそもが僕の作り出した幻想じゃないか。

「……ゆき、ちゃん?」

 嗚咽混じりの声が、胸の深い所に刺さる。

「僕が……なんとかするから」

 なんとかってなんだよ。この前だって、何も出来なかったじゃないか。

 そもそも彼女は本物じゃない。ここで彼女を慰めてみたところで、満たされるのは僕のエゴだけで、その愚かさが許されるわけじゃない――

「――――」

 その時。

「――見ぃつけた」

 声が聞こえた。

 僕は思わず、振り仰ぐ。「おばあちゃんち」の二階には、出窓があったはず。

 そこから覗く人の影。はためく白いカーテンに見え隠れする。

「帰ってきてくれたんだね。グッドフェロー」

 少女だった。

「……君は」

 風を受けて膨らむ金の髪に抱かれながら、彼女はこちらを見下ろしている。肘をついて左右に揺れる様は、向日葵によく似ていた。瞳の青は、真夏の海めいて煌めく。

 あの頃と何も変わらない。

 妖精じみた少女の笑顔。

「言った通りに、なったでしょ」

 僕の後悔。僕の過去。

 あやふやな記憶の中で、信じられないほど鮮烈に残る、その言葉。

「きっと、あなたを、見つけるから」

 彼女がそう呟くのと、僕が口走るのは、ほとんど同時だった。

 思わず、笑みが零れる。

「……確かに、言ってた」

 無くしたはずの記憶は、些細なきっかけで、どうしようもないぐらいに溢れ出す。メントスを投げ込んだコーラよろしく。

「探してたの。ずっとずっと、ずうっと」

 彼女は、とても明るくて、活動的だった。

 眠っている時と食事の時以外に、じっとしているのを見たことがなかった。

 何をするにも、どこに行くにも、大きな声で僕を呼び、しっかりと手を握って離さなかった。六歳の彼女は、少し成長が早くて、力も強かったから、僕は嫌だと振り払うことも出来ず――そのつもりもなかったのかもしれない――毎日のように、彼女の遊びや悪戯に付き合わされていた。

「ねぇ、次は何して遊ぶ?」

 笑って小首を傾げる姿も、その愛らしさも、昔と変わらない。思い出の底に眠っていたまま。

 変わったのは、僕だけだ。

 僕はもう知っている。気付いている。

「……ごめんね。もう、遊べないんだ」

 彼女もまた、夢の中の登場人物にすぎないと。

 誰にも心を開けなかった幼い子供が生み出した、ささやかな幻想なのだと。誰もが当たり前に持っていたものを羨んだ結果の、「おばあちゃんち」。

 そこに住み着いていた、僕の小さな友達。

 それが彼女なのだと。

 今となっては、それが現実だった。

「なんで?」

 その問いかけに、なんと返すべきなのか。

「僕はもう、違うんだ。あの頃とは変わってしまったから」

 もう子供ではないから。

 大人にも、なりきれていないけれど。

「――大丈夫だよ。やり直せるから。何度も、何度でも」

 慰める彼女に、僕はぎこちなく微笑み返す。答える言葉が見当たらないから。

 やり直せるものなんて、どこにもない。

 例えば、僕がここにいることだって。たくさんの間違いを犯してしまって――そのどれもが取り返しの付かないことで――だから今こうして、また夢の中に逃げ込んできてしまった。

 考えてみれば、大学生になる前から、僕はずっと自由だったのだ。自らを由としてきたのだ。

 ただそれに気付かず、他の何かに甘えていただけで。

「望めばいつだって戻れる。それが約束だよ、グッドフェロー」

 彼女は鈴を転がすように囁く。

妖精時計トゥールビヨンが叶えてくれるから」

 妖精。

 彼女の口から零れると、それは妙な感触を帯びた言葉だった。

 過去が現在に侵食されてしまったかのような、不気味さ。夢の中では、よくあることだ。因果関係の崩壊。時間軸の交差。明日は昨日で昨日は今日。少女は僕で、僕は少女。

 全ては僕が目を瞑っている間に起こる幻想と妄想と空想の産物に過ぎない。

「ねえ、戻ろ? 鬼ごっこしようよ。隠れんぼでも、なんでもいいよ」

 彼女の声はやはり愛らしい。うんざりするほどに。

「ずっと一緒に遊ぼうよ。ずっと、ずうっと」

 言葉は甘く芳しい。脳の芯まで痺れるほどに。

 酷く苦々しい気持ちで、僕は目を逸らした。

 どうしてだろう。

 どうしてまだ、彼女は僕の中にいるのだろう。

 僕の弱さ。僕の甘さ。幼い頃の僕そのもの。

「あの」

「ふぁ」

 不意に裸の脇腹を突かれ、変な声が出てしまった。どこから出たんだ今の声。

「あの子、お友達?」

 いつも通りのふわふわとした調子で、泉。

「え、えっと……」

 どう答えればいいだろう。昔、友達だった女の子で、けれど今はなんていうこともない――なんなら現実に存在さえしていない人なんて。説明したら、彼女はなんて言うだろう。

 僕のことを笑うんじゃないか。愚かで幼い、どうしようもなく駄目な奴だって。

「かわいいね。妖精さんだね」

 ――またその言葉だ。

 妖精。

「ううん。違うよ、彼女は妖精なんかじゃない。彼女は僕の――友達、だ」

 少しだけ、言い澱んでしまう。

 でもそれは、彼女が妖精だと疑った訳ではなく。

「え……でも、あの、あれ。ゆきちゃん、見て見て」

 泉の指は、少しだけ遠慮がちにを示した。

 楽しそうにこちらを見ている少女。

 僕は眉間に皺が寄るほど目を細め――夢の中でも視力が低いなんて、どうにも理不尽だ――もう一度、揺れるカーテンの向こうを見つめる。

「――え」

 泉の言う通りだった。

 彼女には羽根がある。華奢な肩口から伸びて、全身を覆うほどに大きい。夜空によく似た漆黒の、星を散りばめたようにきらきらとした蝶のそれ。穏やかに風に揺られている。

 否定のしようがないほど、妖精めいていた。

 童話の挿絵のような、神秘の姿。

「なんか、すごいね。ゆきちゃんだけじゃなくて妖精さんまで出てくるなんて。わたし、もしかして、すごくいい夢見てるのかな」

「……えっ?」

 それは、僕の台詞のはずだ。

「でへへ。あのね、夢で人と会うのはね、その人が、わたしのこと、考えてくれてるからなんだって。だから嬉しくて。ゆきちゃん、わたしのこと考えてくれてたの?」

 ああ、もちろん。

なんて答えられる訳無いじゃないか。この僕に。

「いや、あれ? これは、夢で……僕は多分、今眠ってて」

「えっ? でも、これ、わたしが見てるんだけど……わたしが見たら、わたしの夢じゃないの?」

 確かにその通りだ。

 泉が見ているなら、泉の夢。僕が見ているなら、僕の夢。

 では、二人が揃って見ているものならば、それは。

「楽しそうだね、グッドフェロー」

 笑みを絶やさず、彼女が言う。

「えっ、あ、や、うん」

「その人は、なに?」

 風向きが変わった。

 家の裏から静かに流れていたはずの風が、いつの間にか横殴りに吹き付けてきている。

「なにって……まあその、知り合い、だけど」

 飛んできた芝生が、瞼を掠めた。おかげで、少女の視線を避けられる。

「知り合いは、友達?」

 余りに端的で答えづらい質問だった。子供じみて漠然と、しかし本質を突いた問いかけ。

「……いや、違うと思う、けど」

 彼女は何を考えている? 僕は何かを否定すべきなのだろうか。

 まさか彼女が、泉に嫉妬しているとでも?

「じゃあ、それはにせものだよ。嘘つきだよ」

 吐き捨てるように。彼女の表情に、影が差す。

 それは酷く人間めいた仕草で――そんな風に言っていいものか――僕をはっとさせた。

 彼女は妖精なのか? これは夢なのか?

「――違うよ」

 泉が言い切ったのは、僕の疑念に対してではなかった。

「わたし、嘘なんて、ついてない」

 長くうねる髪が、風に巻き上げられて、まるで炎のように広がっている。

「わたし、ゆきちゃんのこと、好きだもん」

 僕の心臓が跳ね上がったのと、正しく同時に。

 少女が、口角を吊り上げた。

「嘘つき。あなたはグッドフェローのことなんて、何も知らないくせに」

 ビロードめいた彼女の羽根が、ゆるりと空気を撫でる。

 また一段と、風が強くなった。飛んでくる芝生が、まるで針のようだ。

「グッドフェローと一緒に遊ぶのは、あたしだけ。月が出たら、二人っきりで」

 僕は、目を閉じて、それに耐える。

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