6. ムルデカ広場の出会い

 午前中にロニーの練習用グローブを新調し、街を散歩がてらジムを回ったが、何度探しても、まともなプロボクサーは見つからなかった。


「どうするか……」


 目を上げると、インドネシアの独立記念塔、モナスのそばまで歩いていた。灯台のような大理石の白い建築物が、他に高い建築の無い中、冗談のようにひょろりと立っている。無料で入れるはずだったと思い、鹿が放し飼いされているムルデカ広場へ入った。家族連れがたくさんいた。とぼとぼと見て回ると、ベンチでチェスをやっている奴らがいた。チェスはこの国ではかなりメジャーで、ロニーやエルミがやっているのを見たこともある。


 俺もチェスのルールは知っていた。日本にいたころ、チェスボクシングという変な競技に出たことがあったのだ。知力と体力を総合的に競うというムチャクチャな建前のもと、1ラウンドでチェス、2ラウンドでボクシングのように交互に繰り返す。

 ボクシングでKOするかチェスでチェックメイトするかで決着が決まるので、チェスでのらりくらりと負けない手を打ち、ボクシングでめった打ちにするという手であっさり優勝した。2度やる気には全くならなかったが、そんなわけでチェスはそこそこ詳しかった。


 見ていた黒が徐々に劣勢になり、数十手で決着がついた。ふう、と息をついて、目の前の男が立ち上がり、振り返った。


 そして、しまったと思った。


「あっ」

「げっ」


 借金取りだ。


「お前、チャンドラの居候だな。グローブ買う金があるのに、俺に返す金はねえのかよ」


 ヒゲをたてた男がチェスの駒を投げ捨て、憎々しげに俺の顔へ指を突き立てた。さっさとグラブをしまっておけばよかった。それ以前に、こんなところへ入るんじゃなかった。


「わたし、インドネシア語、難しい。わかりません」

「嘘つけ、ロニーと話してるだろ。何度も見てるぞ」


 畜生、そろそろこの手も使えなくなったか。


「利子だけでいいからここで渡しな。こういうものを出してほしくないだろ?」

 ぎらりと何かが光った。ナイフか。


 参ったな。顔を知っている奴とケンカはできない。勝ったところで慰謝料という借金が増えるだけだし、怪我でもしたら練習に響くし、騒動で逮捕でもされたら国外追放のおまけつきだ。


 よし、逃げよう。


「どこへ行こうってんだ」

 振り返ると別の男がもう1人。いや2人。


「今日は別件があるから、ここだけで勘弁してやるって話してんだ。あるだけ渡せばいいんだよ。そのくらいいいだろう? 帳簿にはちゃんとつけてやるよ」

 男が刃物を先だけ見せて近づいてくる。


 仕方ない、財布の中にまだ入っているか。ポケットに手を伸ばした。


「そうこなくっちゃな、わかりゃいい……」


 いいかけた男の頭に、誰かの手が乗った。


「なんだ?」

 怒鳴りながら男が振り返った。


「そんなことも知らないのかね。教えてやるよ。これはな、左手というんだ。勉強になったか?」


 見あげると、俺の目の前に巨大な男が立っていた。


 ジャワ人の平均身長はそれほど高くない。170センチそこそこの俺より低い奴が多いくらいだ。180オーバーで横幅も広いそいつは、この国ではズバ抜けて大柄だった。白い肌に赤い髪。胴も腕も強靭な筋肉が見える。おそらくはかつてこの国の宗主国だった、オランダ人との混血だろう。


「ふざけんな、俺たちはこいつに用があるんだ」

 その脅しに驚く様子もなく、ぬふふふっ、と、大男が笑った。


「そいつは偶然だ。実は俺もこの日本人オラン・ジャパンに用事があるんだよ」


「なんだ、お前の知り合いか?」

 借金取りが俺に振り返った。


「こんな奴、見たこともないぞ」

 それ以外何も言えず、俺はポカンと成り行きを見守った。

 大男がまたも、ぬふふふふと鼻から奇妙な音を出して笑った。


「なにしろこいつは、インドネシアのボクシングを救ってくれるかもしれぬからな」


「何をわけのわからねえ事を言ってやがる。これがなんだか見えねえのか」


 借金取りが大男にナイフを見せたが、大男は笑いながらその腕を握りしめた。


「こんなおもちゃじゃ、俺に刺したって通りはしないよ」

「なっ? てめえこの、離せ!」


 ぐっと大男が子供をあやす大人のように借金取りを持ち上げる。両足が地面から浮き、じたばたと短い足が宙を動いた。


「や、やめろこの野郎!」

 大男は相手の顔が同じくらいの高さになるまで持ち上げ、額にガツンと頭突きを食らわせた。ぎゅうとつぶれたような声を出して、男が落ちて倒れた。周りの奴らが慌てて逃げていく。


 もっけの幸いだ。俺も後ろを振り返って一目散に走った。


 運良く借金取りは追ってこなかったが、運の悪いことに大男は追ってきた。なんの罰ゲームだ。


 モナスから続く東南アジア最大のイスラーム寺院、イスティクラル・モスクの脇へ。白亜チョークでてきたドームの外周をぐるりと走る。大男がみるみる迫ってきた。脚には自信があったのにサボりすぎていたようだ。

 肩をがっしりと掴まれる。振りほどこうとしたが無駄だった。


「なんだよお前は! 俺がなんかしたってのかよ!」

「ほう、なかなかインドネシア語はうまいんじゃないか」


 さっきよりさらに周りに人が少ない。自分の間抜けさにがっかりした。市街地へ走ればよかったのだ。


「金なら1ルピアも出ねえぞ!」

「金が欲しければ、お前なんかに声はかけんよ」


「じゃあなんなんだよ! ぶんなぐるぞ!」

 息も絶え絶えに怒鳴りつけた。


「ほうほうほう、スーパーフェザー級がライトヘビー級をぶんなぐる! それが脅しかね! ずいぶんウェイトに無頓着なんだな、ボクサーのくせに」

 もう一度男を見上げた。たしかに見たところ80キロ以上はある。俺のアッパーが直撃しても、小揺るぎもしそうになかった。


「まあいい。お前がアホか賢いかにはなんの興味もない。

 俺が興味あるのは、お前がロニー・ハスワントを試合に出そうとしているかだよ」


「てめえ、妨害でもしてえのか?」


 言うと、男はまたも鼻にかかった奇妙な笑い声を出した。


「逆だ! 逆だ! 俺はロニーに勝って欲しいんだよ! さあ、戻って話の続きをしようじゃないか!」


 大男はバシンと俺の背中を叩くと、心底面白そうに俺の後をついてきた。


 *


「誰だい、それ?」

 ロニーが腹筋をしながら、帰ってきた俺に言った。


「こっちが聞きてえよ」


「誰か来たの?」

 エルミがテレビを見ながら言った。また格闘技チャンネルで金縁眼鏡がしゃべっている。俺はリモコンを取って画面を消した。


「あー、消さなくてもいいのにー」

 渋い声でエルミがこちらを見たが、俺の後ろに目をやると、あっ、と声を出した。


「ヨーギ? なんで? 来るって聞いてたけど」

「アッラーのお導きだ。モナスのそばでお前の大好きなアキラにあったんでな」


「もう、何言ってんのよ!」

 エルミが笑いながら立ち上がった。


「知り合いなのか?」

 俺がエルミに聞いた。


「そうとも、そうとも。エルミは俺の勤め先でアルバイトをしているんだよ」

 ヨーギと呼ばれたオランダ系の大男は、ばんばんと俺の背中を叩きながら言った。


「エルミ、俺が言ってたこと、こいつに話したのか?」

「ふっふっふ、まあね。ちょっと見直したでしょ」

「いや、見直したも何も、こいつ誰だよ」


「なんでも、エルミの先生が日本まで遠征だそうだからな。もしかしたら、役に立つかと思ってきたのさ」

 ヨーギが横から割って俺の肩に手を乗せた。


「役に立つ? お前がかよ。いいか、俺たちがやってんのはプロレスじゃねえんだぞ、ボクシングっていうんだぞ」


 手を払いながら俺が言うと、ヨーギはまたもぐふふっと笑った。


「これでも3年前までは、アマのライトヘビー級に出ていたんだぞ。でもインドネシアのボクシングは嫌いでプロになる気がしなかったんだよ。不真面目な奴ばかりでうんざりだ。だがエルミの話だと、このジムはそうじゃないらしい。もし君たちが本物ならそれを見せてもらいたいんだよ。その代わり俺はこの身体をいくらでも叩かせられる。練習には上の階級がいるだろう?」


「勝手に決めるんじゃねえ。まともにできねえ奴にこいつの相手はさせられねえよ」

「じゃあテストだ。でかいグローブを貸してくれ」


 大男はべらべらと言いたいだけまくしたてると、シャツを脱いでハーフパンツのままリングに上がった。体は確かに十分に作られていた。服の上からは見えなかったが、はち切れそうな巨大な胸筋の下に、ブルドーザーのタイヤを思わせる腹筋が並んでいる。


「ロニー、どうする?」

「見てから考えるよ。でも、彼はちょっと面白そうな人だね」


 しょうがねえ、やるか。ロニーには万が一の怪我もさせられないから、俺がリングに立った。ヘッドギアとグローブをきつそうにつけていたが、それを使ったから動けないという事はなさそうに見えた。


「ヨーギ、頼むよ」

 エルミがウィンクを投げて言った。


「もちろんだ。俺も楽しみたいからな」

 バンバンとヨーギがグラブを叩き合わせてリングに上がった。


「ロニー。こいつが合格かはお前が決めてくれ」

「わかった」


「いくよ」

 ロニーがストップウォッチを動かした。


 こんなでかい奴とやるのは久々だ。相手の出方を見て、打ち返しながらリングを回った。オーソドックスだったが、大男はステップを踏みながらタイミングを計り、左で牽制するふりからの右を打ってきた。最初の印象が変わった。馬鹿力にものを言わせるタイプかと思ったが、そこそこできるようだ。回りながら何度か打ち合ってみる。アマチュアらしく打点を取りにくる動きがうまかった。


 俺は少しスピードを上げた。スウェーやバックステップなどの回避はあまりよくないが、ブロックのタイミングはいい。男が軽く左フックを振ってきた。その次に重厚な右が飛んでくるのは明らかだった。威力を殺すためにわざと近づいたが、ヨーギはすぐにロングリーチを生かして立て直した。ステップの遅さはリーチと組み立てで補っているようだ。俺は少しヨーギの動きを待った。初めてジャブを出してきた。


 そこで、意外な動きに驚かされた。ヨーギは続いて上体を柔軟にねじり、前手のアッパーを出してきたのだ。薮田の技術にそっくりだった。


「まちな」

 ステップで避けてから、手を前に出してマウスピースを外した。


「どうしたい」

「おまえ、ボクシングを日本人に習ったのか?」


「ほう。さすがよくわかるなあ」

 ヨーギは嬉しそうに笑い声を出した。


「モナスで俺が日本人だってわかったのもそのせいか」


「実はそうだ。エルミの話を聞いて久々にバンテージを買いに来た時、店におまえがいた。後をついていったら、やけに日本人訛りのインドネシア語だ。背中にグローブ、話し相手は借金取り。これがあのアキラじゃなけりゃ驚くね」


「アキラ。彼にきてもらおう。うってつけだ」

 ロニーが親指を立てていた。


「お、良かった」

 小さな声でエルミが言った。


 振り返って男を見上げた。合格か。しかしまだこいつの素性すじょうには得体の知れないものを感じた。赤毛を短く刈り込んだ四角い輪郭に彫りの深い顔。シャツの奥に細かい傷があるのが目についた。普通の勤め人とは思えない。エルミと一緒に働いてるというのが気にかかった。


「エルミ、お前、どんな職場でバイトしてるんだ?」

「え? 普通だよ?」


「オフィスの事務とかじゃなかったか?」

「んー、まあね」

 エルミが少し自信なさそうにヨーギを見た。


「俺はスーパーのガードマンだよ。エルミには社内の仕事を手伝ってもらっているのさ。電話を受けたりね」

 ヨーギがすらすらと答えた。


 警備か。だったら多少は怪我もするかもしれないし、ボクシングの経験もあって悪い事はないのだろう。この際、仕事なんかマフィアとかでなければなんでもいい。


「よし、決まりだ」


 なにしろ人手はいる。ひょんなことからこの大男のペースに巻き込まれてしまったかと思ったが、思わぬ幸運のような気がしてきた。


 八方手を尽くしても、俺はソムチャイに2時間来てもらうのがせいぜいだった。女子高生にこんな話をしてもと思っていたが、やはりジャカルタなのだからインドネシア人に頼るのが正解だったのだ。ロニーと俺だけじゃなかった。エルミがいた。そしてヨーギが来た。


 挫折を知り尽くしたはずのボクサーが、性懲りもなく夢を見てしまう。ともすれば喜劇のネタだ。それでも俺には、この大男が道の拓き方を教えてくれたように思えた。チャンスが来たぞという微かな声が、遠くから聞こえ始めていた。今いる道を闇雲に突き進めば、この声がもっと大きく聞こえてくるような気がした。


  *


「それにしても、この設備はひどいな」

 ロニーとひとしきり殴り合ってから、ヨーギが言った。


「一通りはあるんだがな。質がな」


「自分のグローブだけ新調してちゃいけないよ。まずサンドバッグは直さないといかん。メデシンボールもサッカーにも使えない」


 ヨーギが本当は10キロくらいあるはずのボールをつかんで言った。筋力をつけたり腹に落として鍛えたりする道具だが、縫製ほうせいがほつれてからは使っていなかった。


「リングだけはやたら立派だが、それでは足りんよ」

 ヨーギが続けた。


「わかってはいるんだけどね」

 ロニーが言った。


「だったら考えないといけない」

 まったくその通りだ。


 あらゆる打撃格闘技につながる話だが、打撃の練習というのは素振りだけではダメだ。打撃のガツンという感覚を血や肉の中に埋め込み、その反動を感じながら組み立てを考えるものなのだ。ピアニストが毎日鍵盤をたたくように、学者が毎日論文を読むように、ボクサーは人体に近い構造の物を殴り続けなければならない。


 仕方ねえ、気は進まないがあいつに頼むか。日本人とは話したくないし女は苦手だが、もうやるって決めちまったからな。

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