10. 中華街の休日

 ジャカルタを走っている足には、タクシーやバスのほかにオート三輪がある。このバジャイと呼ばれる庶民の足を停めて、グロドッ地区へ行くよう頼んだ。排ガスとひどい金属音をまき散らして、エルミと夕方のジャカルタを西へ向かった。


 かつてバタビアと呼ばれたコタ駅の周辺は、オランダの植民地時代の名残もあって、面白い建物や軍事・商業などの遺跡も多い。散歩をしていてもそれなりに目を引く施設があり、何度か行ったことがある。


 だが、グロドッ地区は初めてだった。一応そこは中華街ということになっているが、金徳院という寺院以外は、あまりそれらしさがないと聞いていた。

 インドネシアでは政治の関係で漢字を使えなかった時代があったらしく、看板はアルファベットが多いし、20年ほど前に暴動があったせいで焼けた家も多いということだった。中華街というよりスラム。噂から想像するイメージはそんなところだ。


 そんな理由で、これまではここへ足を運ぶ気にはならなかった。バジャイが海岸から中華街へバーハンドルを切った。目を路地に向けると、その先は貧民窟のようになっていて、確かに行ってもろくなことになるとは思えなかった。


「ありがとうよ」

 中華街の入口で札を運転手に渡し、2人でバジャイを降りた。


 着いてみたら思っていたよりも電気屋が多かった。ケーブルやらモニターやら、その手の事務機やIT関係の機器がそこらじゅうにあふれている。最近は方向性を変えたのだろうか。


「アキラっていくつだっけ?」

 エルミが俺の横を歩きながら聞いた。


「この前30になったな」

「普通なら2人は子供がいる年だね」

 言われて面食らった。日本なら30でも結婚している奴は半分程度もいない。なんと答えたものか。


「まともな仕事に着いたらそうするけどな」

「ボクサーじゃない」


「ボクサーじゃ食えねえなあ。電気工事のほうがまだ食えるよ」


「ふーん」


 大した話をしているわけでもないのだが、やたらエルミはうれしそうだった。こんな時間を過ごしたことはめったになかったから、なんとなく新鮮だった。


 話しているうちに、道の先に大きな店舗が見えた。


「あそこだね」


 看板には「藥坊」という中国語が書いてあったが、他はインドネシア語だった。中に入ると透明なプラスチックのケースに何かの植物の根や動物の角やらが並べてあり、それを乗せてある木の棚に大量の引き出しがついている。どことなく不気味だった。


「どっちが病気なんだい。それとも避妊か妊娠検査かい」


 華人と思われる店番をしていた若いひょろひょろの男が言った。なんで俺がエルミをこましてる設定なんだ。否定するのも面倒なので、俺は病院の名前だけ告げてメモを渡した。


「ああ、宋先生の処方ね」

 つまらなそうに青年が立ち上がった。何箇所か棚を引き出し、袋詰めを始める。


「煎じ方はわかるかい」

「鍋で煮るんだろ」

「土瓶があるといい」

「ねえな」

「鉄瓶でもいい」

「鍋じゃだめなのか」

「鍋でもいい」

「最初からそう言え」


 エルミが横を向いて笑った。

 なんで華人は普通の会話をコメディにしたがるんだろう。俺の偏見だろうか。


「一つだけないなあ。調合してくるよ」

「さっさと頼むぜ」


 少し待つと、青年がビニール袋を閉じながら持ってきた。


「関節痛の薬ばっかりだね。煎じ薬が2種類。塗り薬が2種類。使い方はこの紙に書いてあるからね」

「へいへい」


 カウンターには巨大なソロバンが置いてあった。青年がバチンバチンとそれをはじいて紙に数字を書く。


「ほらよ」

「お大事にどうぞ」


 あまり2度は来たくないなと思って、袋を手に提げて店を出た。


「すごかったねー。虫とか蛇が漬け込んであったし、なんかの目玉が入ってるのもあったよ」

 そんなのがあったのか。見なくてよかった。


 外は少し空が赤くなっていた。

「家まで送るよ」

「もう帰らないとだめ?」


「ああ、ロニーのところに行かねえとな。こいつを早く使いたい」

「あ、そっか……そうだよね。ロニーさんのほうが大事だしね」


「勝たせねえとな」

「わかってるよ」


 と言っているが、どうもエルミはもう少し遊んでいたいようだ。しっかりしているようでも、まだ子供か。


「少しお茶でも飲んでから帰るか」

「本当に?」

 エルミが嬉しそうに笑った。


「今日はロニーを休ませないとならねえ。俺の顔ばっかり見ててもうんざりするだろうし、少しなら大丈夫さ」


「そっかー。でもアキラって真面目だよね。ロニーさんの事ばっかり」

「そりゃまあ、世話になってるからな」


「それだけ?」

「いや、もちろん仲間だってのもあるさ」


「えらいよ、アキラは。ロニーさんにあれだけ叩かれても嫌にならないで、毎日毎日、ジャディラ・アリって繰り返してさ」


「ボクサーだからな」

「やっぱりボクサーなんじゃない」


 エルミに言われて、複雑な思いが胸に浮かび上がってきた。ボクシングをやめるためにジャカルタに来たはずなのに、今はボクサーでないと言うことはできなかった。


 街を見回した。ここに来て何年にもなるのに、楽しみを見つけようとしてこなかった。それは、この国に受け入れてもらおうとしていなかったことのようにも思えた。


「そこで」

 言って、そこそこまともそうなカフェにエルミを連れていった。


 休日らしい休日だ。ジャカルタに来てこんなところへ来るのは初めてかもしれない。空を見上げた。夕暮れまでもう少し時間があった。オレンジジュースとコーヒーを頼んだ。本当は酒でも飲みたいのだが、ムスリムが9割を占めるこの国はとにかく酒が売っていないし、加えて当たり前だが俺の好きな日本酒がない。


 すぐにウェイターがドリンクを運んできた。ジャワのコーヒーは豆を粉々に壊して細かく砕くため、ドリップ式で落とすと目詰まりで全然出てこなくなる。カップの中に粉を入れて、インスタントコーヒーみたいに淹れるのだ。粉は溶けないから、底に沈むまで飲めない。


「エルミ、学校は楽しいか?」

 待ち時間に適当な話題をふった。


「ん? もちろん楽しいよ。うち、7人だけど、高校行かせてもらってるのはあたしと兄貴で終わりになりそうなんだ。しっかり勉強しないとね」


「7人か。すごいな。エルミは何番目なんだ」

「3人目。男、女、女で、その下はみんな男」

「親が大変だな。手伝いとかはしてるのか?」


「うん。あたしも中学の頃はミルク飲ませたりおしめ換えたりとかしてたよ。今は1番下が4歳だけど、めちゃくちゃうるさいよ。常になんかしゃべっててさ。アキラは兄弟いるの?」


「兄貴がいるけど連絡は取ってねえな」

「そっか、寂しいね。でも、今はロニーさんたちもいるからいいのかな。ロニーさんって兄弟は?」


「そういや聞いたことがねえな」

「ロニーさん、昔のこと言わないよね。多分なんかあったんだと思う」


 エルミが、オレンジジュースに口をつけて言った。


「なんかって?」

「わかんない。でも、あの人ジャワじゃないよ。わかんないけど、スマトラかも。名前も変えてる」


「名前もか。よくわかるな」

「わかるよ。ロニーもハスワントもありそうな名前だけど、それであの顔にあの仕草って、やっぱり違和感あるもん。全然ジャワ語話さないしね。アキラと一緒で、昔の話はしたくないんだと思う」


「そんなもんか」

「細かい事は知らない。多分ね」


「普段ロニーとしか話さねえから、どうもまだインドネシアの常識が分からねえ」


「多分インドネシアには、インドネシアの常識は少ないと思うよ。でも生まれた場所で人がすごく違うから、それが日本とは違うかもね」


「なるほどな」


 コーヒーを飲み終え、下に溜まった粉を見ながら言った。


「アキラって、日本でもボクシングばっかりやってたの」


「まあそうだな。中学の頃から。大学を辞めてから1回電機の会社に入って、アマチュアの大会で優勝したんだ。そのあとプロになって全日本新人王っていうのに出た。中日本ってので優勝して、次に中、西、もっと西の3地区で王者を決める。そのあと東日本代表と対決する東西戦ってのがあって、これに勝ったんだ」


「ずいぶんたくさんやるんだね。新人の試合なんでしょ?」

「そうだな。しかも新人王は次に韓国と日韓対抗戦をやるんだぜ」


「うへー」

 エルミがのけぞって笑った。


「まだまだ。新人王になってようやく日本ランキングの最下位だ。日本王座になったら次は東洋太平洋とかの地域認定王座。アリみたいな世界チャンピオンはその先だ」


「世界チャンピオンって何種類もあるんでしょ?」


「認定する団体がたくさんあるからな。まあWBA、WBC、IBF、WBOのどれかのチャンプになれば、普通は世界一って認めてくれる。そこまで行けばまともに食えるんだけど、なかなかそうはいかねえな」


「厳しいね」

「ああ」


「ヤブタは東洋太平洋のランキング1位なんだっけ。チャンプの次だよね」

「そうだ。次はチャンプを狙ってもいい頃だ」


「アキラは次は?」

「俺はもうやめるさ。ロニーの試合が終わったら、仕事をもう少しまじめにやるよ」


「強いのに」

「強い奴なんていくらでもいるからな」


「ケンカになったら、何人もバタバタ倒せるんでしょ?」

「そんなこたあねえよ」


「何人くらいなら倒せる?」

「1人」


「えー、嘘だあ。たった1人?」

「ケンカならキックとかの方が強くなれるよ」


 インドネシアはボクシング以外の格闘技のほうが盛んだ。空手やテコンドー、キックボクシングや総合格闘技で活躍している選手がたくさんいる。


 スミトラが教えている伝統武術、シラットをやっている奴も多い。インドネシアのアクション映画、ザ・レイドはシラットのアクションで興業的にも成功をおさめた。


 この国ではボクシングなんていう、パンチしか使えない格闘技は流行遅れなのだ。だから層も薄く、選手も育たない。


「アキラなら何人いても平気そうだけどなあ。ロニーさんとヨーギ以外は、全然相手にならないじゃない」


「ボクシングはケンカの役には立たねえよ。グラブははめるし蹴れねえし投げられねえし武器は持てねえ。強くなりたきゃピストルでも買えばいいのさ。バンで終わりだ」


「そりゃ、ピストルならそうかもしれないけどさあ」


「そんな話はアクションヒーローにでも任せて、俺みたいな俗物は真面目に仕事だ。今のままじゃ金がなさすぎる。結婚もできねえよ」


 そう言うと、エルミがまたふふっとおかしそうに笑った。


「そんなことないよ。できるよ」

「そんなに運がいいとは思えねえ」


「できるよ」

「できるかね」


「うん、できる」

 エルミがまた笑う。オレンジジュースを飲み終えて、とんとテーブルに置いた。


「そろそろ行くか」

「うん」


「試合が終わったら、みんなでブロックMに行こう。あのショッピングモールなら、もう少しまともなものも見に行ける。日本の食い物もあるしな」


「今日ので十分だよ」

「随分助けられてるしな。礼をしたいんだ。アンチョールのボーリング場とか水族館とかでもいいぞ」


「そうかな」

「そうさ」


 言いながら歩いたが、少ししてふと不安になった。日暮れなのにやけに静かだった。ジャカルタと思えないくらい人気がない。


「なんか変だな」

「向こうの道、封鎖されてる」


 目を凝らした。道路の中央にバリケードが作られて、その前には警官がいた。

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