9. アリの象退治
さらに日数は過ぎていった。世の中は新しい選挙でどこの政党が勝ったと大騒ぎ。税金がどうなるだの、これまでの生活がどうだのというニュースが飛び交い、デモ隊が練り歩いている。俺たちの問題は、どうやって薮田にグローブをぶつけるかだった。
今日もテレビに番組は流れず、奴の試合が繰り返し再生されていた。
「何にしても強いことに変わりはないね」
「うんざりしてくるな」
スミトラがいなくなると、すぐに弱気が首をもたげてきた。
「まさしくジャイアントキリングだ」
リモコンを握り、画面を止めた。
「いいじゃないか、インドネシアらしくて。インドネシアのじゃんけんは、アリがゾウに勝つんだぞ」
非番で朝から来ていたヨーギが、突然横から言った。
「なんだそりゃ」
と聞いてから思い出した。インドネシアのじゃんけんは、親指、人差し指、小指を一本ずつ出す。小指は親指に勝つルールなのだ。
「あの小指ってアリなのか」
ヨーギに言った。
「そうだ。
ヨーギが小指を反対の手の親指にぶつけた。
「あれはなんでなんだろうね」
ロニーが笑いながら言った。
「知らねえのかよ」
俺が言う。
「多分アリでも群がったらゾウも倒せるとかなんだろうけど、僕はわからないな」
ロニーが手を広げて言った。
「決まってるじゃないか。予言だよ。ロニーがヤブタをぶちのめすというアッラーの予言さ」
ヨーギが俺の背中を叩いて笑う。
「なんておめでたい奴だ」
思わずつられて笑った。
「
「どこにでもいるよ」
「日本語ではなんと言うんだ?」
「アリだ」
「おっ、2つ目の偶然だ。アリとは世界最強の偉大なボクサーにして、敬虔なるムスリムの名前じゃないか」
「カシアス・クレイの話はどうでもいいよ!」
いつもの鬱陶しいこいつの冗談は無視して黙らせるのだが、今回はついに根負けして吹き出した。ヨーギのこの話術は天然なのかわざとなのか、未だによくわからない。
モハメド・アリは本名をカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアという。黒人の差別撤廃を唱えるマルコムXという思想家に影響を受けてイスラームに改宗し、ベトナム戦争への参加を断るなど政治的な運動でも知られている。
だがやはり彼が有名になったのは、その実力ゆえだ。徴兵拒否により長くリングに上がれなかったが、復帰後にハードパンチャーで知られる王者ジョージ・フォアマンを破った話は、映画など多くのメディアで知られている。
晩年はパーキンソン病という全身が痙攣を続ける病に苦しんだが、それでも公の場に立ち、アトランタオリンピックでは震える体を抑えて聖火台へ点灯する姿を見せた。
当日までこの役は秘密とされたため、アナウンサーは『誰でしょうか、緊張で手が震えているようです』と言っていた。それを見ていた親父がテレビに向かって、『違う、あれはアリだ、世界一強い男をなぜ知らないんだ』と叫んでいた。それは当時9歳だった俺が、初めてボクサーという存在を認識した瞬間でもあった。
「アリじゃハードルが高すぎるよ」
ロニーが言った。
「いいや、これはもう天啓だとしか思えん。ロニー、アリだ、アリだ、
ヨーギの強引な理屈に、ロニーもつられて笑っていた。
ジャディラ・アリ。この男はゾウをかみ殺しに行く。その言葉が、なんとなく心地よく感じた。
ジャディラ・アリ。
ライオンや虎ではなく、アリになれか。
その表現が、なんとなくロニーに似合っているような気がしておかしかった。
✳︎
ドアの音が聞こえた。老スミトラだ。時計を見ると午後の練習時間になっていた。スミトラも入れて3人でリングに上がった。
「打ち合いからアッパーに入る。ヤブタのフォームを意識して」
「はい」
打ち合いながら右アッパーを混ぜた。
そのタイミングで、ドン、という音と同時に風でジムのドアが揺れた。
「えええっ?」
ロニーがびっくりして両手を下に落とした。
「まてまて、俺のパンチじゃねえよ!」
笑いながら俺が両手を上げる。
「なんだ今のは?」
ヨーギが外を見て、すぐにドアを開けた。もう一度何かの音が聞こえた。今度はもっと遠いように感じた。
「ちょっと見てくる」
ヨーギが外へ駆けていった。目で送ると、もう一度向き合った。
「離れて攻めてこなくなった場合も考えよう」
スミトラが軽い構えを取って俺の横に並んだ。
「こう構えるんだ」
それはアジアのボクシングにはあまり見られない技術だった。左手を下げて身体を横に向けるデトロイトスタイルだ。
フリッカージャブ。
この姿勢から出す技術にはそういう名前がついている。左腕をしならせて、下から見えにくい軌道で相手の顔面を捉える変則ブローだ。長いリーチを持つ選手に向くとされているが、体重を乗せにくくダメージを与えるのは難しい。何より高いスタミナが求められる。
「ロニーのスタミナで使えますかね?」
俺が眉をひそめて言った。
「相手が出てこなくなった時のためだから、つぶれるかは考えないでいいだろう。早いラウンドで相手を混乱させるために使う。やってみるか」
「ええ」
スミトラの生み出した新手もロニーはよく飲み込み、ミットへいい音が響いた。
「いけそうだ」
「まあ、奇襲に使いますかね」
パソコンにメモを追加した時、ヨーギが珍しく重い顔で帰ってきた。
「事故だ。この先の四辻だ」
俺たちも出てみると、道路の先で巨大なダンプカーが、一戸建てに命中していた。
「ひでえな。わざと突っ込んだのかよ」
俺が言う。
「有名な代議士の家だそうだ」
ヨーギが言った。
口々に勝手な事を言いながら人が集まってくる。警官がそれを追い払いながら、立ち入り禁止の線を引いた。
集まった中、ロニーが浮かない顔でその様子をみつめていた。前にも政治関係のニュースを見ていた時にこんな顔をしていたような覚えがあった。
「どうしたんだ?」
悪趣味な好奇心をおさめてロニーに言った。
「いや、どうもしやしないよ」
「縁起でも悪いと思ったのか?」
笑いながらそう言ったが、ロニーは答えようとしなかった。
「ジムに戻ろう。もっと練習したい」
ロニーがダンプカーへ背中を向けた。
「なんだいったい」
結局その日は終始あまり口を開かないまま、新しいパンチを繰り返した。
機嫌が悪いのだろうか?
そろそろ減量も続き、機嫌が悪くなる時期だ。試合前というのはそばに人がいるだけで頭にくるほど気が立つ。ただ、他にも原因があるように見えた。なんとなく気がつくところはあった。
「お前、どこか痛めてるのか?」
練習を終えてから恐る恐る聞いた。ロニーはしばらく複雑そうな顔をしていたが、それから静かに首を縦に振った。
*
翌日。
来るべきものが来たかという気分で、スミトラに連絡を取った。膝が痛むそうだ。スミトラがキックボクシングの興行ドクターもやっているという医者を紹介してくれたので、午後にCTを取りにいった。普段ぼろ家にしか縁がなかったから、清潔な病院がやたら立派に見えた。
「変形性膝関節症です」
そんなことは俺もロニーもわかっている。どうせこの診断だろうと、事前に単語も辞書で引いておいたのだ。膝に負担がかかるスポーツをやっていて、この病名を知らない奴はモグリだ。
「試合は出られるのか」
「あんたみたいな人に無理だというと殴られるんですよね。もう懲りたんで言わないようにしています」
華人と思われる肌の白い医者が言った。
「おいヤブ。俺はお前とコメディをしにきたんじゃねえんだぞ」
「あんた日系でしょう。華人か韓国人みたいな話し方しますね」
「何人もへったくれもあるか。俺はボクサーだ。あえて言うならボクシング人だ」
「たしかにコメディアンの才能はゼロですね。いいですか、まず試合は許可します。なので手術はしません。金属を入れたら試合に出せませんからね。保存療法でもたせてもらいます。
ただし指示を聞くこと。練習の時とランニングの時は常に質の良いサポーターを巻いてください。お勧めのものを特価で分けます。それと」
「それと?」
「痛み止めに加えて、この名前の漢方薬を探してください」
医者がさらさらとメモを作った。
「漢方? まじないは結構だ、間に合ってる」
「何を言うんですか。漢方薬は適切なプロセスとエビデンスに裏付けられた、立派な科学ですよ。ただインドネシアでは処方薬ではないのです。売っている人の指示を聞いて、間違わずに使うこと。いいですね」
メモを握らされた。
独活寄生湯、正紅花油、ほか数種類。久々に漢字を読んだが、全く見慣れた名前がない。そもそも漢方なんて葛根湯しか知らなかったというのもあるが。
「暗号みたいだ。よくこんなのが読めるね」
帰りのバスでロニーが笑った。
「いや、俺も発音はわかんねえんだよ。なんとなく意味がわかるようなわからねえような、そんな感じだ」
「でも、僕はどこに売ってるかわからないな」
「あとでスミトラに連絡を入れてみるよ」
「わかるかなあ? 彼はジャカルタの人じゃないしね」
ジムに戻る。なぜか弓子も来ていて、痛んだミットを直しながら、エルミと話し込んでいた。ヨーギが巨体を揺すって駆け寄ってきた。
「どうだ?」
「オーケーだ。出られる」
ほっと全員が息をついた。
「気にしないとならねえ事はあるけどな。とにかく今日は丸1日休養だ。スミトラにも断りを入れる。そうだヨーギ。漢方薬を売ってるところ知ってるか?」
「うん?」
「医者に言われてよ」
「中医のいる病院に行ったのかね? わからんが、コタから歩いて行けるとこに中華街があるだろう。そこなら買えるかもしれん」
「ネットで調べるか」
それを聞いてヨーギが笑った。
「アキラ、グロドッ地区の小売店がググってでてくると思ったら大間違いだよ。市価の10倍で売ってる観光客向けの店がわかるだけだ。ちょっと待て」
ヨーギが携帯を取り出した。この国ではまだスマホが普及しきってはいない。調べものはなにかとガラケーで、どうしても時間がかかった。
「パソコン使いなよ」
「いや、これでいいんだよ」
エルミも携帯が鳴ったようで、それを出して画面に目を落とした。数分、2人が携帯をいじった。
「うーん、えーと、うちの親が使ってる店なら、大きいし安心だけど」
突然エルミが言った。
「へえ?」
「案内しようか」
エルミが携帯を閉じた。
「お前の家ってコタの方なのか?」
「えーと、うん、近いほうかな」
「住所と店の名前教えてくれないか」
「エルミと行けばいいじゃないか。あそこは迷うぞ」
ヨーギが横から言った。
「エルミの帰りが遅くなる」
「アキラが送っていけばいいじゃないか。どうせ今日は休みにするんだろう。気晴らしに行って来いよ。あそこは1人で行ったらかえって遅くなるぞ」
「……そうか、どうするかな」
「連れて行きなさい」
考え込んでいると、なぜか弓子が口を挟んだ。
「えっ、なんでよ?」
聞き返すと修理が終わったミットが俺めがけて飛んできた。
「何しやがる?」
「いいからエルミと行ってきなさい! これは命令だ!」
弓子が歯を向いて日本語で言った。心底怒っているようではないが、冗談にも見えない。女はわからん。逆らわないでおこう。
「エルミ、いいか?」
「うん、行こうよ」
エルミの顔がパッと明るくなった。買い物が楽しいんだろうか。
「ロニー、悪いな」
「いや、大丈夫だよ。たまには休みたいと思ってたんだ。アキラもお茶でも飲んでくるといいよ」
ロニーのやる気は落ちていないようだ。ほっとして、エルミを連れて外に出た。
「弓子となんの話してたんだ?」
「えー、ないしょだよ」
エルミが笑いながら言った。
「弓子さん、いい人だね」
「そうかぁ?」
「うん。好きだよ、あの人」
なんだかよくわからないまま、大通りへ向かった。
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