2章 疾風と共に

8. 千客万来

 ロニーがジムの指導をやめ、練習に専念してから1ヶ月目。2人で始めたこの試合の準備が大きく変わった。ジムに通っていた練習生も1人、2人と戻ってきた。俺が声をかけると、どいつもこいつも来たがったのだ。ヨーギとエルミがさらにその人数を増やした。そして誰もがロニーを勝たせたがった。


 俺は薮田がどういう選手か、ロニーがどういう状態か、それを全て連中に包み隠さず話したが、それでも、誰もがロニーにつきあうと言った。だけじゃなく、近所の商店やら行きつけの屋台やら、モスクというイスラームの教会やらから、人づてにニュースは疾走した。


「また試合に出るって? あれだけやめろって言ってたのにな」

 最初にきたのは、ロニーの以前の試合で一緒にセコンドをやったトニーだった。バリクパパンからジャカルタに出て10年、旅行代理店に勤めて脂肪が目立ってきたこの男も、1週間も動くとなんとかロニーの相手ができた。


「今日はイキのいいのが獲れたぞ」

「魚かよ」

 ヨーギが連れてきたのはフィロとママンだった。


「日本のボクシングを覚えたいんです」

「ショーじゃいやなんです。俺たちは、真剣にボクシングがやりたいんです」


 この2人は以前ヨーギと同じジムに通っていたアマチュアで、大学の体育学科に在籍していた。フィロはスラウェシ出身のキリスト教徒で背が高く、この国の人間にしては色白な青年。ロンボック島のママンは対照的に、がっちりとした小柄な体格で色黒短髪、熱心なムスリムだった。


 ヨーギとトニーが来られない日は、この2人にもスパーリングをやらせた。毎日本調子の奴を相手に10ラウンドやらせるのが目標だったが、これでついにその数字を満たせるようになった。


 手間を取られた家事の類も、解決をつけることができた。ロニーが食事を作らなくなったので、俺が根菜のスープを煮込んでいた時だ。


「うまくねえなあ」


 化学調味料を使ってないせいでどうしても味が薄い。ぼやいてると、エルミが寄ってきた。


「貸してよ」

 エルミが右手に巨大なカメを持ち、迷わず鍋に唐辛子をぶちまけた。さすがジャカルタ娘だ。俺には全く食えないものが作られたが、ロニーはあっさりうまいと言った。わずかな量でもこの味なら満足だそうだ。

 パソコンの表計算ツールでカロリーを計算する。唐辛子を足しても問題なさそうだった。


「お願いって言ったら、また作りに来てもいいよ」

 エルミが言った。


「いいのか?」

「晩だけならいいよ別に。私の分も食べさせてね」

 負担はかけたくなかったが、時間の節約は最優先だ。頼むしかなかった。


「わるいな。できるだけバイト代は出すよ」

「いいってば」


 ヨーギがそれを聞いて笑った。

「エルミは作りたいんだよ」


「ああ、料理が好きなのか?」

「はあ?」


 エルミに心底気に入らないと言う顔でにらまれた。なにに怒ってるのかはよくわからなかったが、とにかくありがたいのは確かだ。エルミは近所のガキをまとめて掃除をさせたり、洗濯を手伝ってもくれる。おかげで良い方向に良い方向に回りつつあった。


 そしてさらに数日後。ヨーギが決定打を持ってきた。


「誰が来ると思う?」


 ヨーギがわざとらしい笑顔を3倍くらいに膨らませてやってきた。


「誰だろうが役にたちゃあいいさ」

「アキラ、そんな言い方はいただけないなあ。本当に本当の特別ゲストなんだぞ」


 ヨーギがドアを大きく開いた。


「こんばんは。面白い選手がいるから是非と言われてね」


 落ち着いた低い声。聞き覚えがあった。


「うん?」


 会ったことは一度もなかったが、見たことはあった。白い髪とヒゲ、そして金縁のメガネ。


「あああっ?」

 ロニーが叫ぶと、珍しくトップロープを飛び越えてリングから降りた。


 そこで誰なのかようやく理解した。エルミがいつもつけてる番組で見た、格闘技の解説者だ。


「老スミトラ!」

 ロニーが椅子の背もたれを片手でつかみ、彼の横に置いた。そういえば、そんな名前だったような気がする。


「ロニー・ハスワント君だね。君はアキラ・ゴドー君」

 男は無駄のない動作で、ゆっくりと椅子にかけた。


「は、はい」

 緊張で思わず声が上ずった。


「スミトラだ。協力を申し出たいのだが、よろしいかな?」


 大歓声が沸いた。


 老スミトラ。

 知っていた範囲ではインドネシアの古都ジョグジャカルタの出身で、伝統武術であるシラットの名手。キックボクシングや総合格闘技にも明るい武術家というくらいだった。

 だがヨーギが話してくれたこの男の経歴は、それをさらに超えていた。プロボクシングではスーパーバンタム級で19勝1敗の国内チャンプで、2度の防衛戦に成功。ばかりかIBF認定世界王者となった中部ジャワ、バンジャルネガラ出身のフライ級ボクサー、シャフウィナ・サヌシを育成した中心人物だそうだ。


「なぜここに?」

 驚きを隠さずに聞いた。


「もちろん、君たちを見に来たんだよ。虚飾と怠慢に塗り固められたインドネシアのボクシングが、真実と熱意に生まれ変わる時が来ると。そう聞いて、是非と思ったのさ」


 心臓を流れる血液の量が、いきなりドンと増えたように感じた。これまでもソムチャイを呼び、ヨーギが押しかけ、弓子に来てもらい、少しずつ、少しずつ何かしらの予感あった。しかし、ロニーのやっていることが無駄にはならないとはっきり感じられたのは、これが初めてだった。いよいよ高く飛べる時が来たのだ。ドアから吹き込んでくる風が、そう告げてきた。


 *


 翌日から、分単位のスケジュールが動き始めた。老スミトラは毎日のようにジムを訪れ、指導だけではなくマッサージや止血のテクニックを俺たちに叩き込み、食事や体調管理のノートも細かく更新させた。


 そして本人は薮田の動画を丹念に見返して丁寧なアドバイスをロニーに告げ、直す必要があれば自らミットをとってくれた。俺は何度も老戦士に礼を述べた。


 2週間が過ぎると、老スミトラは俺とロニーを呼んで、直近の動画をフルスクリーンにして見せた。


「ヤブタは全然難しい相手じゃない」

 スミトラがはっきりと言った。


「もし彼がもっと経験豊富で、指示を的確に飲み込み、一度決めた戦術を守り続ける落ち着きがあれば、私はもっと焦りを感じたと思う。もしそういう選手が相手なら、国内戦だってかなり苦心することになるだろう。でもそんなことはない」


 スミトラが動画を再生した。


「ラッシュに入る前、彼は必ず頭を止める。ウィービングを忘れる癖があるようだ。防御の技術が未熟なのをガードの高さで補っているが、いくらインファイターでも接近しすぎている。いいかい、ここの声」


 スミトラが動画のシークバーを左に戻した。


「アキラくん。ここでウィービングを再開して距離を取れという指示が入っていないかね?」


 ボリュームを最大にして聞き耳を立てた。ぞくりとした快感が、俺の背を走った。


『イッキ、頭振って自分のリーチ大事に! 詰めない詰めない、詰めないよー!』


 直後に薮田がウィービングを始めた。この指摘を聞いた時、俺はこのトレーナーの癖や短所など何も気にしなくていいのだと理解した。


「たしかにそう言っています」

「セコンドの声を聞けてはいるんだ。だが打てる距離になったら頭の中が空っぽになるんだろう。この若さに付け入る隙がある」


 スミトラが一時停止をクリックした。ディスプレイに穴があくほど見つめたはずの動画が、この男の目を通すと全く別のものになった。

 まさしく本物の指導だ。強いな、困ったなと繰り返していた日々がバカみたいに思えた。


「今日からヨーギにラッシュを入れてもらい、体が開いたところで左に踏み込んでから右フックを入れる動きを覚えてもらう。ロニー君のその動きに対して、ヤブタは右アッパーを打ってから下がるはずだ。それにジャブを重ねて体力の漸減ぜんげんを狙おう。どうかね」


「できると思います」

 ロニーの目にも確信が浮かんでいた。


「よし、ではそれをイメージしてサンドバッグを打ってきなさい。それとアキラくん。残ってくれないか」


 スミトラは俺と2人になると、厳しい表情で言った。


「アキラ君。君は疲れている。疲れすぎだ。すぐに休みなさい」

「いえ。ロニーのためです」


 俺は即座に答えた。


「日本人は熱心だ。すばらしい美徳だよ。しかし、過労で命を落とす者もいるそうじゃないか」


「俺はロニーに勝たせたい。あいつの望みをかなえてやりたいんです。あいつの最後の試合になるかもしれないんだ」


 ふむ、と、スミトラは眼鏡をはずして、ぼろぼろになったジムの天井に目をやった。


「なるほど。君は疲れているのではない。緊張しているんだな。その日本戦では、チーフ・セコンドに誰が立つのかね?」


「私です」


「君は決して悪いセコンドにはならないだろう。しかし、もっと豊富な経験があるセコンドのほうがいい」

「しかし……」


「あてがないのかね? それとも、君の目の前にいる8人のボクサーを育てたトレーナーでは不足なのかね?」


 老スミトラは、俺の胸のつかえを抜きとるような声で提案した。


「私はまだ日本に行ったことがない。楽しみだ」

 俺はスミトラの手を握り、深く頭を下げた。


 あのスミトラが来たと聞きつけ、他にも続々と、新旧を問わず応援がかけつけてきた。毎日のように、大量のインドネシア人がロニーに殴られにやってきた。ロニーの両拳は、そのたびに少しずつ、少しずつ磨かれていった。


 その騒ぎにまぎれて弓子も来た。右手に大きな帆布のバッグをぶら下げて。得意満面の笑顔で手を突っ込むと、ウィンクと一緒にそれを投げつけた。


「1ヶ月がかりの新作だよ!」

「おお、こいつはすげえぞ!」

 バッグを受け取ったヨーギが、中身を開いてそれを全員に見せた。


 バッグの中には新品のガウンが入っていた。

 インドネシアの国旗の色だ。勇気と情熱を象徴する赤に、神聖と誠実を示す白を斜めに走らせてある。背中には二行。CHANDRA BOXING GYM。そしてRONNIE HASWANT。名前にはさらに銀色の縁がとられていて、襟元にはインドネシア伝統のろうけつ染めで、インドネシアを象徴する霊鳥ガルーダが描かれていた。


「立派すぎるよ。僕に似合うかな」

 ロニーが笑った。


「いいじゃねえか、場末の消化試合じゃねえ。メインはるんだぜ」

 俺も笑いながら、ロニーの腕に袖を通してやった。サイズはぴったりだ。


「ロニーさん、がんばってね!」

 投げキスをロニーに飛ばすと、ジムは口笛の大合唱に包まれた。ロニーがグローブを上げてそれに答えた。


「よし、じゃあやるか!」

 豊富な練習量をさらにスミトラの指導が支え、俺は体力も気力も余裕をもって相手ができるようになっていた。


 今のロニーが出すカウンターは、ミドルレンジだけでなく、ロングでも強烈な威力を維持することができていた。今のこいつには多彩な左があり、特にショートレンジで打つ左フックで右足に体重をシフトさせる動作が速い。この左でダメージを与え、そこから右のフック、ストレートで仕留めるルートも見えてきた。


 なによりモチベーションが最高だ。人が増えれば増えるほど、こいつの動きはよくなっていった。俺と対照的だ。黙々と一人で打ち込むタイプじゃない。こいつは、こういう環境の中でこそ光るタイプなのだ。


 勝たせてやりたい。どれだけ薮田のパンチが鋭くても、このロニーの右を喰らわしてやりたい。


「ロニー、足を止めるな! 動き続けるんだ!」

 スミトラがロープを握って指示を出すと、ロニーは危なげなくインファイトを避け、足を引きながら回り込む。このサークリング技術で横へと回り、相手のリズムが崩してスタミナの消耗を抑えるのもスミトラの戦略だった。


「それでいい。アキラくん、もっと積極的に前に出てくれ」


 スミトラが満足そうに声をかけてくる。言われるまでもなく前に進んでいるのだが、ロニーの左が、こめかみテンプルへ、ジョウへ、心臓ハートへ変化をつけて打ち込まれ、なかなかいい手が見えてこない。


 俺は多分笑っていた。ロニーが笑っていたから、きっとそうなんだろうと思った。1秒よりもはるかに短い時間に、1日よりも長い時間を詰め込んで、1発、1発を打ち合った。


 ロニーが小さく唇を開いてマウスピースを見せた。「楽しいな」と言っているように見えた。俺が前に踏み込んだ。ロニーもぐっと前傾した。ジャブがぶつかり合い、リングに汗がしみこんでいった。


 ひょっとしたら……


 本当に、薮田に勝てるかもしれない。

 そう思うと、嬉しくてしょうがなかった。

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