7. ゲンコツと針と糸
ロニーがランニングに行っている間、ここ数日でのクレジット決済を確認した。本にサポーターにミットにメデシンボール。ここまではなんとか今までの稼ぎで買えたが、ここから先は貯金を崩さなけりゃならん。
ブラウザを閉じてため息をついた時。ドアから日差しがこぼれて、ローヒールの音が続いた。
「やっ、元気?」
このジムをエルミ以外の女がくぐることはめったにないのだが、今回だけはこいつにどうしても来てもらう必要があった。
埼玉の服飾関係の専門学校を出て、インドネシアの伝統的なろうけつ染めを学びに来ている。ジャワ更紗と呼ばれる染物の中で、チレボンバティックという繊細なグラデーションで彩られたものは特に習得が難しく、この女はその技術だけを学びに来ていた。新関弓子という名前だった。
栗色の長いポニーテールに同じ色の目、白い肌。白いワイシャツにすらりと細いスラックス。以前、ジャカルタ日本人会とかいう互助会で知り合った、唯一今でも連絡を取る日本人だった。
呆れたことに、こいつは普段のメシが米と味噌汁らしい。ここ来てから日本のことなんか考えたくもないと思っていた俺には、全く理解ができない感覚の持ち主だった。
「よう」
片手を上げながらパソコンを落とした。
「しばらくだねー、あんたから電話してくるなんて。日本人会の集まりにも来ないしさあ」
「こんなとこで日本人と関わりたくねえよ。だいたいありゃ
言い捨てると、弓子が相変わらずだなあと笑い飛ばした。陽気で話好き、笑顔に嫌味がない。性別を含めて俺と全てが正反対で、この国にいなければ全く縁のないタイプだ。
「ロニーさん、試合なんでしょ。応援してるよ」
弓子がパンチングボールを連打するロニーに声をかけた。ロニーは最後の一撃でボールを跳ね上げさせると、うん、と一言だけ答えて台を降りた。
「頼みたいのはこいつとこいつなんだ」
俺が床に倒したサンドバッグと箱に入ったグラブとミットをいくつか出した。
「うへー、あっせくさー」
弓子が露骨に顔をしかめる。
「こんなもんだよ。お前だってバスケやってたんだろ」
「いやいやいや比べないでよ。これすごいよ」
「なんとか頼むよ。他に当てがねえんだ」
弓子が目を細めながら綿が寄った青いグローブを手に取った。椅子にかけると、小さな手でそれを遠ざけながら撫で回す。直したいものがあったら頼みなと言っていたのに、いざ頼むとこの態度だ。どうして女はこう……
「ねーこれ洗濯したらダメ……だろうね。合皮か……」
「サポーターとかは洗濯できんだけどな。合皮は固くなっちまう」
「針が通るかねえ……」
「ああ、だから修理用の奴はあるんだ」
ざらっと、俺が道具を机の上に広げた。
「使えよ!」
弓子があっけにとられて目を開く。
「その使い方がわかんねえんだよ」
「男ってやつはどうしてこう……」
弓子が額を抑える。前言撤回。文句を言える立場じゃないのを忘れていた。
「アキラ。グラブはまだ予備がある。サンドバックを先に頼もう。走ってくるよ」
ロニーは汗を拭くとそのタオルを腰に差して、炎天下の中を走りに行った。
「熱心だねえ。相手、日本人だって?」
弓子が針を選んでスラックスのままサンドバッグにまたがり、指貫をはめた。ちくちくと補強を始める。
「薮田一輝って奴だ」
「えー? 薮田なの?」
弓子が手を止めて口をとがらせた。
「知ってんのか」
「あの、コーラかなんかのCMに出てる奴でしょ? ネットで見たけど」
「ファンタじゃなかったかな」
「だったかも。よくわかんないけど。でもあいつ嫌い。チンピラっぽくて」
「ボクサーなんざ、みんなチンピラみてえなもんだよ」
突然、弓子がこちらをにらんで言い返した。
「そんなことないよ。あんたの国体のビデオも、ロニーさんのジョグジャの試合も格好よかったよ。すっと避けて、さって打ち返してさ。薮田のボクシングって、突っ込んで引っぱたくだけじゃないか」
「そりゃスタイルの違いだ。俺たちはアウトボクサー。薮田はファイターだ」
「いや、そうじゃなくてさ。ロニーさんに勝って欲しいってことよ」
弓子は言いながら、サンドバッグを器用に縫い上げていった。
「俺もそう思ってるよ。確率は低そうだけどな」
俺には信じられない手際のよさで、みるみるサンドバッグが補強されていく。縫い目も均質で、かなり打ってもほつれそうにない。
不意にさっきの台詞がしっくりきた。なるほど、こいつはプロが好きなんだな。職人は技術にこだわるってわけか。
「実際さあ、薮田って強いの?」
「強いよ」
「うーん、まあ、そっか……」
そうだ。
薮田は強い。何度動画を見ても悪い選手じゃない。マスコミが持ち上げすぎて素人目に判断しにくくなっているだけで、ボクサーとしての能力は文句なく高い。
サンドバッグの補強はたちまち終わった。2人でそれをかかえて天井のリングにくくりつける。ひらっと、横の台からメモが落ちた。俺がバッグを固定している間に、弓子がそれを拾った。
「試合の日、9月1日かあ。帰ってるな」
「大阪だぜ」
「あたしん実家、京都」
「だっけか?」
「うん。服屋だよ」
「チケットが出たらお前にやるよ」
「いいの?」
「他に払う礼もねえしな。最前列を取ってやるよ」
埃にまみれた手を服で払いながら言った。弓子は続いてパンチングボールとグラブの修理に入った。どれも上々の仕上がりだ。これでよしと思ったころに、エルミが来た。
「あれ」
弓子が目を上げてエルミを見た。なぜか不自然にエルミが目をそらした。
「友達?」
エルミが聞いた。
「ああ、サンドバッグを直してもらったんだ。叩いてみるか」
俺がサンドバッグを平手で揺らした。
「うん」
エルミはジャージだった。そのままジムに上がって置いている靴に履き替えると、ターン、ターンと軽快なジャブをバッグに打ち込んだ。
「どうだ」
「いいんじゃない?」
エルミが冷めた言い方で答えた。
「役に立てて良かったよ」
弓子がインドネシア語に切り替えた。
「あ、インドネシア語、上手なんですね」
エルミが振り返って言った。
「うん、まだ2年目だけど。エルミさんは高校生?」
「はい、2年です」
「いつも来てるの」
「はい。ジャワはスポーツ好きな女子って少ないんですよ。特に格闘技だとめったに女の子は入れないんですけど、ここだけはいいよって言ってもらってて」
「優しいじゃん」
弓子が俺に言った。日本語だった。
「金とってねえしな。誰が来たってかまやしねえんだ」
「アホか。この子があんたに優しいねって言ってんの」
「へ?」
「あーもういいわ」
弓子が呆れた顔で頭を押さえたところで、ロニーが帰ってきた。途中で会ったらしく、ヨーギも一緒だった。巨体の上の頭がきょろきょろと動く。
「すごいな!」
「おう、サンドバッグ直してもらったぜ」
「野郎の牢屋に美女が2人もいる!」
「そこじゃねえ! バッグを見てくれよ!」
俺が言うと、ヨーギも他の奴らも全員が笑った。ジムに久々に明るい笑い声が戻った気がした。
「3年前に戻ったみたいだ」
ロニーがサンドバッグを触って言った。
「まあ、直したからには使いまくらねえとな」
「本当だね。じゃあさっそくだけど、このグラブでスパーリングの相手を頼むよ」
ロニーは一直線にリングへ上がった。
「わかった。じゃあ弓子、悪いな。そこの冷蔵庫に入ってる好きなもん持っていってくれ」
弓子は水道で手を洗うと、横の冷蔵庫を開けた。
「へいへい。コーラもらうわ」
「何本でも」
「本気みたいだしさ、そのうちロニーさんのガウンも縫ったげるよ」
「本当かい、嬉しいね」
ロニーが答える。
「約束。じゃ、またね」
ボロボロの備品を修理させられた女は、2本のコーラを指に挟んでドアへ向かった。
「弓子さん、また来てくださいね」
「うん、ありがとう。エルミさんもこの人たちの相手してあげてね」
それまで緊張していたエルミの顔が、少し和らいだように見えた。エルミが直したばかりのグラブとヘッドギアを渡してくれた。
さて、疲れる時間の始まりだ。いつもどおり、ぐるぐると肩を回しながらロープをくぐった。
「アキラ。グローブをつけたら、一つ言っておく事がある」
ロニーが真剣な声で言った。
「なんだ?」
「あのコーラは、減量が終わったら飲もうと思っていたんだ!」
言い終わるより早く、ロニーが襲い掛かってきた。
エルミがぷっと噴き出した。
「おおっと!」
俺がマウスピースを握ったままの左でブロックする。
「コーラの恨みは大きいぞ!」
笑いながら、ロニーがパンチを繰り出してきた。左ジャブ、左のフック。老獪なボディブローが俺のガードを潜り抜けて行く。
「やっちゃったね」
エルミが真っ白な歯を見せて笑う。
「まて、マウスピースくらいつけさせろ!」
俺が怒鳴った。
「わかってるって、冗談、冗談」
ロニーが俺のグラブにジャブをたたきつけた。高い音をたてて左手が震えた。
「上機嫌じゃないか。慎重に相手しないと叩きのめされてしまうぞ」
俺のマウスピースを持ってヨーギがリングに上がる。名前がついたケースを開け、口に押し込んだ。ロニーも自分のマウスピースを手に取った。そして、それをつける前に小さな声で言った。
「嬉しいよ。君のおかげで、またやり直せる」
眉間に皺をよせて、「ん?」と鼻で返事をする。
ロニーは答えなかった。聞くタイミングを逃したまま打ちあった。
そして、ふと、いつもとの違いを感じた。気のせいかと思ったし、このところ殴られ放題だったから、俺の調子が悪いのかと思った。
違う。
速い。
重い。
どうしたんだ。
パンチのレベルが上がっている。錯覚じゃない。この数日で、ロニーの上達が尋常じゃなく早い。
「なんか、ロニーさん格好いいね。いつもより速い」
観ていたエルミの感想も同じだった。
あの、3ラウンドも動いたらへとへとになるロニーが別人のようだ。どういうことだ。試合が決まるまでと、どうしてこんなに差がある?
こいつの動きはインドネシア6位の動きじゃない。こいつの左はインドネシア6位の鋭さじゃない。いつ、こんなに技術を覚えたんだ。
ロニーの自在に変化する左が俺を翻弄し、銃弾のような右が俺を貫いた。のけぞってロープへもたれた。もうやめよう、と俺が言った。今までと逆だ。俺はロニーに腕を引かれ、ようやく立ち上がった。
「悪くねえ。いや、どころじゃねえ。どうしたんだよ」
息を荒く継ぎながら言った。
「君のおかげだ」
「そんなことを言ってんじゃねえ」
「いいや。君のおかげさ。君がここに来なかったら、ボクシングはもうやめていた。きっと、ヤブタ・イッキとも戦えなかった。それだけさ」
よく耳になじんだ、落ち着きのある声が返ってきた。
不思議な感覚だった。もう、以前の臆病なロニーはいない。こいつは薮田に立ち向う、ベテランのボクサーになりつつある。いつ、こんなに動けるようになったんだ。
しかし、ふと、それは今聞いてはいけないような気がした。きっと、聞けばこいつは答えてしまう。もしかしたら、それがメンタルに影響を与えてしまうかもしれない。
まだやるべきことはいくらでもある。言いたければ勝手に言うだろう。それより今は何ができるかだ。
「俺がやろう。アキラは少し強く打ってる。今日は休んだ方がいい」
ヨーギが言った。認めたくないが、たしかに頭がくらくらする。
「ロニー、いま俺を崩したときのことを思い出しながら行きな。流れの中で右を出すタイミングを掴め。左もよくなってきている。圧力をかけるやり方も掴んで行け。ヨーギ、できるだけ足を使ってくれ」
「よろしい、頑張ってみるぞ」
「頼むぜ」
ヨーギがグラブをつけると、ロニーがもう一度構えた。
80キロのヨーギ相手に、ロニーがつっかけた。もちろんヨーギは受けながらも打ち返してくるが、ロニーの勢いは落ちない。横から見るとさらにわかる。これは、明らかに今までやってきたままごととは違う。俺の体が、つられて高揚しつつあるのを感じた。
ロニーは俺の指示通りにさまざまな左を出してきた。一見して同じフォームだが、打つ角度も狙う位置も、詰将棋のようにじわじわと相手の手を封じていく動きだ。ヨーギはオールアウトするまで動き回り、ふらふらでリングを降りた。
「いやはや、フェザーごときいくらでも受けられると思っていたのに、どうもうぬぼれていたな」
ヨーギが巨体を椅子に沈める。
「俺が続けよう。強く当てなければまだいける。ロニー、行けそうか?」
「あと3ラウンドはやりたいね」
「ロニーさん本気だね。アキラ、ちゃんと勝てるように手伝わないとね」
エルミが冷たいタオルを絞って俺たちに渡した。
確かにやることは多いが、できることも増えてきた。この先は、この勢いを維持できるかだ。ここからが本番だ。グラブのマジックテープを歯で締め、マットを深く踏みしめた。
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