11. 素手の一撃
どこか、俺たちがいるのとは別の通りで
「火事だな」
「怖いね」
「少し大きく回って行こう。バジャイは危ないかもな。電車で帰ろう」
「うん」
小走りにコタのほうへ向かったが、その途中で、棒や何かを書いた布を持った集団が道を塞いでいる。駅にはそれを避けないと入れないようだ。
嫌な予感を感じてさりげなく脇道へ行こうとしたが、そこにもデモ隊のような集団がいた。目があった。
「中国人か?」
1人が俺の目の前に立った。見回したがかなりの人数がいた。エルミが俺の腕にしがみつく。敵意ある視線が俺たちに向けられていた。
「ち、ちがう。俺は日本人だ」
できるだけ怯えたふりをして、俺が両手を前に出してエルミを後ろに下げた。
こういう時は弱そうに見せかけるに限る。男らしさを見せつけたい奴には、下手に出れば面倒にはならない。
男は左右を見て何かを話した。ジャワ語なので何を言っているかは聞き取れなかったが、どう見ても機嫌が良いようには見えなかった。無許可のデモ隊か。
「サムソンの社員か?」
「そ、そりゃ韓国だ。日本だよ。トヨタとかの。でも俺はそんなすごい会社じゃないよ」
できるだけ低姿勢に切り抜けようと、上目づかいに姿勢を低くした。エルミには幻滅されるかもしれないが、この際そんな事はしょうがない。ケガでもしたらロニーの練習に響く。
「子供を買いに来たのか」
言われてようやくなんで絡まれてるか理解した。どいつもこいつも、なんで俺がエルミをこましてる設定にしたがるんだ。
「喧嘩したいわけじゃないんだよ。許してくれ」
「そりゃそうだ。女が目当てなんだしな!」
皮肉な声で男が笑った。
「何言ってるの?この人、あたしの先生よ!」
頭にきたようで、エルミが割って入って男に言った。
「先生? なんの先生だ」
「ボクシングよ」
「ボクシング?」
目の前の男が、鼻で笑い飛ばした。
「ボクシングなんかできそうに見えないな」
男が長い棒を持って、俺の鼻先に突き出した。
まずいな。買春じゃないと言ってくれたのは助かったが、ボクサーと言うとどうも珍しさが先に立ってしまう。日本語の先生とでも言ってくれりゃありがたいが、そんな機転を高校生に求めても仕方がないか。
なんにしても、ここで揉めて薬でも取られたらロニーに申し訳が立たないし、エルミも絶対に怪我はさせられない。エルミはロニーと俺のためにここまでついてきてくれた。何かあれば責任は俺にある。
「俺はジャカルタに来て3年だ。ボクシングを教えながら日雇いで生活してるんだ。君たちの邪魔はしないし、人に迷惑もかけてないよ。どうか見逃してくれ」
「ボクシング……」
突然、1人が横から口を出した。
「ハッサン・アブドゥルを知ってるか?」
他の連中が薄ら笑いを浮かべるなか、こいつだけは真剣な顔で聞いてきた。顔立ちが、少し他の奴らと違うように見えた。
「知らないよ。誰だい」
「いや、知らなければいい」
アラビア人のようなヒゲをたてた男は、品定めをするような眼で俺を見つめたが、それ以上何も言わなかった。
「どうせボクシングなんてお遊びだろう。ちょっと俺にも教えてくれよ」
横から出てきた男を下げて、最初の男が詰め寄ってきた。
おかしいな。どんどんまずい方向に向かってきた。6人。まともにケンカができそうな体格が3人。しかも何人かは棒を持っている。刃物も持っているかもしれない。いや、間違いなく持っているだろう。警官ともみあいになったりするのだろうし、腹にも雑誌をはさんだりしていると思ったほうがいい。
俺は無造作に薬と財布をエルミに渡した。エルミが細い手でそれを受け取る。こいつらの理屈ではエルミは被害者のはずだが、イスラーム圏では女性が性被害者にも関わらず罪に問われるとか聞いたこともある。ジャカルタでそんな話は知らないが、こいつらの理屈がどうなっているかは、外国人の俺には判断できなかった。
駅へ目をやると、タクシーが見えた。コタで降りた奴を乗せるために並んでいる。
「エルミ、大回りして駅のタクシーを捕まえたらチャンドラに行け。ロニーから金を払ってもらうんだ」
エルミにだけ聞こえる声で囁いた。
「アキラ?」
「黙って走れ!」
エルミがびっくりしたような顔をしたが、一度頷くと振り返ってエルミが全力で走っていった。
「あっ、あいつ!」
男の一人が叫んだが、俺が割り込んだ。3秒差をつければ十分だ。エルミの足は速い。これであいつは無事だし薬も届く。
「もう金は無いよ。ケンカは嫌なんだ。許してくれよ」
同じことを繰り返して、へらへらと卑屈に笑った。男たちの表情が緩んできて、バカにするような目になってきた。
「証拠ももうありませんってのか?」
俺の肩を掴んで男がさげすむように笑った。
「いやあ、だって悪い事は何もしてないし」
おどおどと内股になって開いた手を向ける。ちらっと振り返ると、エルミはもう見えなかった。
「おい、あんまりふざけてんじゃねえぞ」
胸倉をつかんで拳骨を見せてきた。
これじゃあ話しても無駄だな。よし、俺も逃げよう。前と違って知っている顔は無いから後の心配はいらない。強そうなのは目の前のこいつと、その後ろの2人だ。
運はこっちに味方していた。目の前の男は棒を地面に立て直している。口を開けて棒立ち。俺の肩に手を乗せて威嚇。ケンカでは絶対やるなと言われそうな条件がフルコースだった。
「悪いな、ふざけててよ!」
一瞬で表情と覚悟を切り替え、腰を落として渾身の右アッパーを振り上げた。威勢よく俺を脅していた男が、舌をかみ口から血をまき散らして集団に突っ込む。マウスピースを入れてない口を素手でぶんなぐったせいで、とてつもなく嫌な感触が拳の中に走った。
「うわあっ!」
後ろの2人も巻き込み仰向けに倒れた。狙い通りだ。
「はあ?」
隣の男が目を見開く。その鼻っ柱へ左のフックを食らわした。何も言わずにばったり倒れ、アスファルトに頭をガツンとぶつける。その顔を踏みつけながら飛び越えた。
「てめえ、なに……」
言いかけた隣の男の袖をつかみ、ひきつけながら首の後ろにストレートを叩き込んだ。試合ならラビットパンチで一発退場だが、リングの外だしどうでもいい。運良く一撃で意識が飛んだようだ。そいつの胴体を蹴り込んで集団に叩き込み、振り返って走った。
5人まとめて3秒、上出来だ。何人かが立ち上がって追いかけてきた。久々に鬼ごっこが始まったが、今回は自信がある。モナスのそばでヨーギに追いつかれてから走り込みを再開したのだ。100メートル11秒4の健脚が戻っていた。拳銃か投げナイフでも持っていなければなんとかなるはずだ。
問題は道がまったくわからない事だった。路地に入るのはアウトだ。行き止まりにでもなったら殺される。がらがらの大通りを走って走って走りまくった。10分くらい死に物狂いで走った。
幸い撃たれも追いつかれもされなかった。3キロも走ったらさすがに連中も根を上げたようで、1人の姿も見えない。はあはあと息も絶え絶えにオート三輪を停めた。
「病気かい? うつさないでくれよ」
「大丈夫だ。そんじょそこらの奴よりはるかに健康だよ」
バジャイに飛び乗る。普通の汗と冷や汗が滝のように流れ始めた。やれやれ助かった。もうあとはどうとでもなれだ。
政治は嫌いだ。ケンカもまっぴらだ。またアリみたいにジムに引きこもってる奴と、薮田の殴り方でも考えよう。
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