12. 海の向こうの声

 漢方薬が効いたのか休んだのが良かったのかサポーターの出来がいいのかわからないが、とにかくロニーの膝から痛みは消えた。


 エルミも毎日のように来た。機嫌もいいようだ。怖い思いをしたか俺に幻滅したかでもう来ないかと思っていたが、そんな感じもない。何度かそれとなく気にかけてみたが、別にとしか言わない。こちらとしては、助かるよとしか言えなかった。女はわからん。わかることをやろう。


 準備再開だ。ロニーも俺もライセンスはもともと降りているから、あとは契約だけで、いつでもリングに上がることができる。

 そして、本当にいつ上がってもいいんじゃないかと思えるようになってきた。ロニーの体が見違えてきたのだ。張りも無く老いていた皮膚は瑞々しく光り、平坦だった肉付きも、カットがはっきりと目立ってきた。スパーリングをやっても、8割は俺を圧倒した。全ての強打にカウンターの右が入るようになってきていた。ウェイトも順調に落ちていて、フェザー級のリミットまであと1ポンドだ。試合までこのペースでいけば間に合うどころか、余裕をもって臨むことができる。


 そろそろだ。


 薮田との試合の前に、1つだけどうしてもやっておきたいことがあった。スタイルへの対応だ。右利きのサウスポー相手を経験させたかった。今まではロニーの技術が発展途上だったし、呼ぶ金もなかったが、最近は月謝を払う奴らが何人もいるから、いくらか余裕があった。


「もう少し食えるな。やる気の出そうなものを買ってきてもらおう」

「ずいぶん上機嫌だね」


 もちろんだ。あと1ヶ月。来たるべき日の前に差し込みたかった予定が、もう夢ではない。ヨーギにメモを渡してスーパーに行ってもらった。


「貧乏ジムとは思えないほど張り込んだじゃないか」

「ああ、景気づけも大切だと思ってよ」


 まずはロニーが好きなドリアンだ。カロリーが高いから量は食わせられないが、細かく切れば大丈夫だろう。このガソリンみたいな匂いに最初は慣れなかったが、今では俺もかなり食えるようになった。次は少し高いが東南アジアでは定番とされているマンゴスチンだ。見た目は白いミカンのようだが、白濁した果肉はとろけるように甘い。


 丁寧に切って一番いい部分をロニーに食わせ、残りは凍らせた。


「人心地がつくよ。ありがとう、アキラ」

「トレーニングがうまく行ったからさ。このくらいなら食べてもベストウェイトでいける」


「でもこんなに甘いものばっかり食べてたら、本当にアリになったみたいだ」

「試合直前になったらまたこの手のものは食えねえんだ。味わってくれよ」


 笑い合いながらも、待ち構える気持ちは止まらなかった。そろそろだ。おそらく今日だ。


 思った直後に電話がなった。国際電話だ!


「来たぞ!」


 全員が電話へ目を移した。予想通り、コミッションがネットに情報を載せた、このタイミングだ。


「アキラか?」

「よう、ソムチャイ」


 軽い声で電話を受けた。


「ニュースサイトで読んだぜ。ヤブタ・イッキ対ロニー・ハスワント。かませ試合もいいとこだとよ。お前、本当にやらせる気かよ?」


「ソムチャイ。旅費の半額は出してやる。こっちに来な」

「はあ? なんだお前、パンチもらいすぎじゃねえの?」


「今のお前じゃ、ロニーに勝てねえよ」


 受話器の向こうで衝撃音が聞こえた。携帯を投げつけたらしい。


「来るぜ!」


 受話器を置いてジムの全員に言った。

 誰がなんて言わなくていい。

 ソムチャイを知らない奴はここにはいない。


「緊張するね」

 ロニーが言った。


「早くないの?」

 エルミが心配そうに俺の顔を見る。


「今しかないさ。老スミトラ、彼がきます。おそらく2日後です」


「素晴らしい、手厚くもてなしてやろう」


 最初に奴を呼んだ時は、他に当てがなかっただけだった。今回は違う。終点へ向けての明確なレールを引くための招待だった。


 *

 

 土曜の昼に伊達男がドアを開けた。ぐるりとジムを見渡して、出迎えた連中の人数にまず驚き、俺の腫れ上がった顔に驚き、老スミトラがいる事に3度驚き、そしてロニーを見て最後の驚きの声を上げた。


「どのくらい走ってる」


 ソムチャイが目を細めながら、ロニーの筋肉に素早く手を走らせた。若い瞳から失望の色は綺麗に消えていた。


「10キロくらいかな。いい靴も買ったよ」

 ロニーが答えた。実際には海岸までの6キロを、ダッシュを混ぜて往復している。


「痛めたところはないか。年配のボクサーはどこかしらやるもんだ」

「膝がね。でも薬とサポーターで、試合には出られるってさ」

 ロニーが続ける。


「そうか。下手なストレッチはやめろよ」

 ソムチャイがロープを飛び越えた。グラブをつけると、その姿に白い火が灯ったように戦意が立ち昇った。ついにこの風格を持つ人間とやりあえる時がきたのだ。


「それより、知らねえだろうから言っとくぜ。俺はとてつもなく強いぞ」


 ソムチャイがアップを終えてジャブを軽く振った。白いグローブが風を切るのを見て、ヨーギは低いため息をつき、エルミは息を殺してその動きを見た。


 だが、俺とロニーには余裕があった。ロニーがパチッと片目を閉じてリングに上がる。俺が手を出して2人を一歩下げた。頑張れよ。アリになるための大きな一歩だ。


「始めてくれ」


 ソムチャイがすぐに深く踏み込んだ。だが、ロニーもほとんど同じ速さで前に出た。最初の音がリングの上に響いた。ロニーのジャブがソムチャイのジャブに重なったのだ。下から打ち上げたロニーが、ソムチャイのガードをふっとばした。続く鋭い左フックがボディとテンプルへ走った。


 ソムチャイはブロックを使い表情を見せずに下がった。ダメージは無いが、動きにためらいが混じっていた。


「いいぜ」

 俺が手を交差すると、ソムチャイが一度スイッチしてから打ち込んできた。続く左フック。ロニーのダッキングが間に合った。鋭いフックの小指側がかすったが、ロニーは崩れない。ソムチャイの攻撃パターンが、ロニーの頭へ滑り込むように入っていくのがわかった。


「すごいな! 普通に打ち合えてる!」

 ヨーギがリング下から叫び、ひゅうと口笛を鳴らした。


「詰められそうになったら、左手で外側からつぶしに行け。ステップで左へ回って、返しの右を使うんだ」

 スミトラが腕組みをしながら言い、それきり口を閉じた。


 ロニーの調子がいい時、スミトラは全く指示をしない。悪いときにもアドバイスを一言送るだけだ。ぎゃあぎゃあ怒鳴る日本のトレーナーどもとは、全く違っていた。


 ソムチャイが表情を消した。スピードでかき回してロニーを引きずりに行く戦法だ。ロニーはジャブを打ちながら後退したが、その背中がロープに触れるなり、ソムチャイが左のフックを打った。首から上を吹き飛ばす勢いだ。だがロニーのダッキングが間に合った。フックが的を外す。突風が俺の頬にぶち当たった。


 ソムチャイが息を継ぎながら足を引いた。ストップウォッチが鳴った。


「アキラお前、何を食わせたんだよ」

 ソムチャイが俺を見た。

 インターバルを終える。俺が声をかけると同時に、火が吼えた。


「おおらあ!」

 流麗な右のジャブが走った。ロニーはがっちりとブロックで受けたが、ソムチャイはそれをこじ開けにきた。乱戦だ。独特なリズムで右のジャブとフックが跳ね、隙を見つけてボデイまで狙ってくる。


「がんばれ、ロニーさん!」

「ジャディラ・アリ! ロニー! ジャディラ・アリ!」

 リングを囲む奴らが一斉に声を上げた。


 このレベルのボクシングを間近で見られたのは俺にも幸運だった。ソムチャイのボクシングは、ムエタイの長い歴史に裏打ちされているだけではない。独自の研究と研鑽を繰り返した戦術の宝庫だ。ジャブを打ち込むように見せかけ、ストレートがその拳を追い越す時間差のブロー。視線を動かさず姿勢だけを下げて打ち込むボディフック。足を細かくスイッチして首を振りながらダメージを減らすステップ。どれも教本には見られる技術だが、それを実際に使いこなせる奴はこいつしか見たことがない。


 それでもロニーはひるまなかった。防戦から反撃に転じるロニーは、ソムチャイの高度な技法にも惑わされず、確実に左を返していた。時間が来て2人を分ける。ソムチャイはいよいよ感嘆の声を上げた。


「すげえな」

 目を丸くし、ソムチャイがマウスピースを取って言った。


「すげえさ。もう一度やるぜ」

 2人を再び向かい合わせたところで、電話が鳴った。


「そのまま続けてくれ。フィロ、リングに上がれ。危ない時に止めてやってくれ」


 俺はリングを降りると、受話器を取った。


「チャンドラ・ボクシングジム」

 俺が無愛想に答えた。どうせ近所のガキだ。


「梧桐彰さんですね」

 耳に日本語が響いた。それに、どこかで聞いた覚えのある太い声だった。


 いや、どこかでじゃない。

 俺は明らかにこいつの声を知っている。


「誰だ?」

 聞いたときには、もう、答えは半分以上出ていた。


「栄真ジムの矢上です」

 きゅうっと、心臓が締め付けられるような、重い感触が俺を包んだ。


「会長か……」

「ええ。お久しぶりです。梧桐君」


 3年ぶり。実に3年ぶりに、俺はこいつの声を聞いた。


 *


 5年前。薮田がジムに入ったときはまだ若かったから、そのころ、栄真ジムの期待は俺ともう1人の男にかかっていた。そのもう1人も、俺と同じスーパーフェザー級だった。スポーツ少年の俺とは違い、繁華街で毎晩ケンカにあけくれていたタイプだ。進藤という名前だった。


 強い相手を望み、日本チャンピオンに向かって勇敢に突っ込んだ進藤は2ラウンドで強烈な右フックを浴び、頭から倒れた。両足が麻痺して全く動かなくなり、見舞いに言っても、帰れとしか言わなかった。


 そして半年後。当時同級4位だった俺も同じチャンピオンに挑んだ。かたき討ちなんてつもりはさらさらなかった。あのときの光景が目に焼きついていてどうしても踏み込めず、8ラウンド目についにマットへ崩れた。


 今でも鮮明に覚えている。思い出すたびに吐き気のする記憶だ。


 その時のレフェリーのカウントは、地平線よりも遠い場所で数えられているように感じた。右フックに打ち倒されたことは理解できていた。赤いグローブが触れる寸前まで、俺の目は開いていたのだ。倒れてマットに跳ねた瞬間だけが記憶になかった。


 グローブがやたら重く、粘土に手を突っ込んでいるような気分だった。マットから立ち上る死臭のような臭いが嫌で、それだけを理由に立ち上がった。

 太い両腕を浅く曲げたチャンピオンの、お前なんかの出る幕じゃないという無言の侮蔑が、俺の全身を締め上げていた。


 やってきたレフェリーが何かを言っていたが、意味は全く理解できなかった。わかるのは、ただ倒されるために立ち上がったということだった。


 この日。俺はプロボクサーになって、初めて負けを知った。翌日のスポーツ紙で散々叩かれ、『栄真の選手は突っ込んでも逃げても負ける』と書かれた。


 薮田が才能の片鱗を見せるようになったのは、それから半年後だ。入ったときは軽かったが、ボクシングを始めて一気に体格が良くなり、圧倒的な瞬発力と強靭なタフネスを身につけていた。会長が、お前はフェザー級で行け、と藪田に言った。


 俺は練習にも徐々に身が入らなくなっていった。指導の側に回ることにして資格を取ったが、結局なにもかもを投げ出した。一通だけ手紙を書いて、俺はジムを去った。


 *


「契約の話なら、メールに書いた通りなんすけど」

 そのつもりはなかったが、声に苛立ちが混ざっていた。


「そう構えないで下さいよ。いまさらあれこれ言うつもりはないですからね」

「勝手に辞めたのは悪かったと思ってますよ、でも……」


「そうではないんです。君にもう一度会いたいと思っていたので。時間は取れますか。実は、私は来週ジャカルタに行くんです。そこで契約を取りましょう」


「なに?」

 思わず高い声を出した。代理人を立てるんじゃなかったのか。


「久しぶりですし、少しの時間でいいので話もしたいんです。よければそちらの選手と一緒にお会いできませんか」


「それだけのためにこっちへ?」

「ええ」


 妙に覚めた声で、電話が切れた。

 あんな話し方をする奴だったろうか? 3年前の記憶を引っ張り出して再生したが、やはりどうも違和感だけが残っていた。


 なんだかよくわからねえな。

 

 俺の後ろで、フィロの木槌がゴングを叩いた。


「アキラ!」

 リングの中からソムチャイが熱のこもった声を出した。


「薮田は沈むぞ! 俺も日本につれてけ! この目で俺様の予想が正しいって確かめてやるぜ!」

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