13. 契約の裏側
契約はワヒド・ハシム・ストリートのホテルで取り交わすことになった。俺たちは夕方に少し早めの練習を切り上げるとジムを施錠し、ジョギングでホテルへ向かった。
これまでフェザーと言う階級は、ロニーにとっては普段の体重から3キロ落とすだけで十分な制限だったので、サウナに入ったりして直前の極端な水抜きをする必要はなかった。しかし今回の試合では練習量が多かったため、それは必然的な筋肥大をもたらしていた。その分を減らすために少し走らせようと思ったのだ。
そして4時をまわったころに、それが大失敗だったとわかった。通りは帰宅する自動車とオートバイですさまじい排ガスがあふれていた。息苦しくうるさい悪臭が漂い、車粉が霧のように舞い上がっていた。慌ててスピードを上げ、指定の場所まで着いた。日本か中国かどこかから何も考えずに運んできたような、中途半端に立派な門を潜る。咳こむ俺たちを、変な顔でボーイが出迎えた。
ロビーのソファに、あの男が掛けていた。隣にもう一人、ジャワ人と思われる男が座っていた。
「どーもっす……」
ぎこちなく言うと、男は何も表情を見せずに軽く右手を上げて、続いて会議室へ指を向けた。四角い白い顔。太っていて背が高い。髪が薄くなったな、と思った。顔の皺も記憶より多い。3年とはそういう長さなのだ。
4人が入った部屋はホテルにしては殺風景で、ジャカルタ芸大の学生が書いたという前衛的な絵画だけが、唯一それらしい雰囲気を出そうとしていた。椅子の背もたれを引き寄せた。
「また会えて嬉しいですよ。まあどうぞ」
男がコーヒーのポットを傾けて無造作に言った。
「俺はどんな顔をすりゃいいんだか、いまいちな気分ですけどね」
「契約自体はなんにも難しくないですよ」
白いテーブルを挟んで、インドネシアのコミッション協会員が、調印を取り仕切った。
「郵送でいいのかと思ってたんですけど」
「それでもいいんですけどね。記者会見もないし。まずはこちらにサインを。こちらが翻訳」
どことなく浮ついた気持ちのまま、約款の羅列に目を通し、中身を確認してからロニーにもサインをさせた。
「なにかありますか。うちの選手に」
矢上が言った。
「はあ」
「いや、ハスワント氏が」
「あ、すんません」
もっともだ。俺が言ってどうする。
会長の言葉をインドネシア語に変えた。ロニーは目を大きく開き、話しながら両手を前に出して何か壺でももつような、白人のプレゼンテーションみたいな仕草を添えて話し始めた。真剣に何かを伝えようとしているようだった。
「ヤブタサンは調子がいいかもしれないし、そうでないかもしれない」
ロニーの声は落ち着いていた。
「だから、勝つか勝たないかは気にしない。でも、悔いのないように、十分な練習をしてきた。インドネシアに知られる言葉には、アリがゾウに勝つという話がある。ヤブタサンがどれだけ強くても、絶対はない。僕はアリになってみせる」
いくらか言葉を補い、会長に伝わるように話した。一応話は通っているようではあった。
「僕は負けるためには行かない。それが約束を守ることだと思っている。僕の中の時間は再び動き出した。それを試合でははっきりと伝えてみせる」
意味がよく取れない部分があったが、俺はロニーの言葉を、一つもはしょらず会長に伝えた。会長は俺の一言、一言を聞くたび、黙って首を縦に振った。
「僕のことを知っていて、試合を組んでくれた。矢上さんには感謝している。強い相手を選んでくれたことも」
会長は俺の通訳に、深く息をついてから答えた。
「誤解のないよう、二人に言っておきます。私も薮田も、この試合を軽く考えてはいません」
妙だな、と思った。
こいつはこんな謙虚な奴だったか。ジム生に対する態度とは違う外面があるのか。いや、違うな。なんだか知らないが、変にロニーに気をつかっているようだ。
「会長。いや、矢上さんって呼ぶよ。どうして俺がここにいるって知った?」
「ふむ」
と、矢上は思い出したように俺の顔を見た。それからまた複雑そうな顔をして、ゆっくりと立ち上がってロニーの顔を見た。何度か口に手を当てた。
「なんすか」
この二人の間に、何か俺の知らない事があるのが、どういうわけか気に入らなかった。
「梧桐君。私のジムから君が去っていってしまったのは実に残念なことでしたよ。私は、君にチャンピオンになってほしかったんです」
「何はぐらかしてんですか。言いたい事があるなら言やあいいんですよ」
「ハスワント氏に聞いてください。彼に昔、何があったのか」
「は?」
俺の質問に答えず、矢上が背を向け、コミッションの協会員を連れて外に出た。車を待たせてあるらしく、ドアをあけると、すぐに矢上の姿は消えた。
「出て、少し話そう」
ロニーが俺の背を叩いて言った。
*
ワヒド・ハシム・ストリートからはもう車が減り始めていて、喉はあまり痛くならなかった。走りながら、ロニーは訥々と話し出した。
「僕の甥も、僕と同じムスリムだった」
「ああ、そうなんだろうな」
この国に来てから知ったが、家族の宗教は普通、一緒のものを選ぶらしい。
「僕はスマトラ島の北、アチェ州のガヨにある小さな街で生まれた。甥もそうだ。中学を出てから、僕はジャカルタに行った。
ボクシングを始めたのはガヨにいたころだけど、本格的にはこっちに来てからだ。ワワンの雑貨屋でアルバイトをしながら、チャンドラジムに通った。ジムのオーナーもアチェの出身で、安い家賃で僕をジムに住ませてくれた」
「へえ」
ランニングを続けながら、昔話に適当な相槌を打った。なんの話が続くのか、まるで予想ができなかった。
「アキラは、ジェマー・イスラミアと言っても知らないだろうな」
「ああ、知らん」
正直なところ、あまり興味も持てない話題だったので、ぶっきらぼうな態度で言った。
「ジェマー・イスラミアは……テロ組織だ」
「は?」
俺は思わず足を止めかけたが、ロニーは走り続けた。追いついてからも、奴は俺には目を向けず、足も止めなかった。
「インドネシアの中でも、アチェ地方には熱心なムスリムが多くて、オランダの殖民時代から、争いごとが耐えなかった。その中に、GAMという組織ができた。アチェで生まれた民兵組織だ」
「は、はあ……」
「GAM自体は2005年に独立運動をやめた。でも、彼らの一部はISISとの接触もあるジェマ・イスラミアと組んで、インドネシア各地への活動を展開していった。君と戦うはずだった僕の甥、エディ・ワッハーブはその後、ジェマ・イスラミアのメンバーになった」
「エディ・ワッハーブ?」
ずっと忘れていた名前だ。俺がプロの初戦で対戦する予定だった、ロニーと出会うきっかけとなった男だ。自動車事故で死んだと聞いていた。テロリスト組織のメンバーだったのか。
「エディだけじゃない。家族全員だ。一人、僕だけがアチェを離れた。ただ、僕の兄はエディに教育を受けさせたくて、ジャカルタの高校に行かせた。そして、こっそり僕とも再会した」
細かくジャブを打ちながら、ロニーは走り続けた。俺は相槌を打つのを止め、黙々と走りながらロニーの話を聞き続けた。
「そして僕にボクシングを習った。当時クジ運が良くて僕は連戦連勝。僕と一緒に練習していたエディはみるみる上達した。ジムには活気があって、エディもチャンドラが出す2人目のプロになって、3連勝した。
けれど、彼が18の誕生日にアチェに帰省し、チャンドラへ戻った時。彼はついにジェマ・イスラミアのメンバーになると言った。
僕は止めた。家族として、それはやってはいけないことだと思った。ジャカルタにいる限り、選ばなければ仕事はあると言った。でも、エディはあと何度か試合をしたら、ISISへ忠誠を誓い、軍事訓練を受けると言った。
許せなかった。人殺しになってほしくなかった。だから甥に言った。故郷を捨てた負け犬の僕に勝てなければ、テロリストになっても犬死するだけだと。甥は怒り狂って僕を罵倒し、実力で決着をつけろと言った。
ジムのリングで、深夜に僕たちは打ち合った。真剣勝負だった。ボクシングのルールだったけれど、グローブは6オンスだったし、レフェリーもいなかった」
ロニーの顔を見た。彼はかすかに右に曲がった鼻へ、右手を添えていた。
初めてこの男に会った時、つまりエディ・ワッハーブが亡くなった直後。こいつが練習で鼻の軟骨が欠けたという話をしていたのを思い出した。
旧市街に入り、オートバイの音が遠くなり、日が暮れて俺たち2人の足音しか響かなくなった。闇の中を反射する靴の音を消すように、ロニーが言った。
「甥を殺したのは、僕の右だ」
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