14. 十字架を担ぐ背中
「そのスパーリングが原因で死んだのか?」
「そうだ。直接の原因だ」
ロニーが繰り返した。俺は黙って次の言葉を待った。
「即死だった。もちろん殺すつもりはなかった。でも、運悪くのけぞって倒れた時に、甥はコーナーに強く頭を打って死んだ。スポンジが痛んでいて、金属がむき出しだった。
自首しようと思った僕を、このジムのもともとのオーナーがかばってくれた。オーナー……ムシャラムさんは、エディの死を僕とは関係ない事故だと言い張って、彼の勤め先にも君にも交通事故だと伝えた。けれど、噂が噂を呼んで、結局彼はジムを手放した。僕に後を頼むと言ってね」
リング禍。練習や試合で深刻な負傷や死亡に至る事故をそう呼ぶ。日本で有名なのは赤井英和の事故だ。7ラウンドでKO負けの後、脳挫傷で意識不明の重体となり、生存率半々と言われた開頭手術が行われた。
頭部への打撃が集中するボクシングは、他の格闘技と比べても極めて事故が多い。歴史が長いため批判を跳ね返してはいるが、グラブによる打撃は脳が揺れやすく、蹴りや投げもないため頭部への衝撃が集中する。俺の仲間だった進藤もそれで足が動かなくなった。それでも直接の死に至った話を聞いたのは初めてだった。
「残ったのは僕だけだった。なんの力がどう働いたのかは知らないけれど、僕は罪に問われなかった。他の親戚もエディが通っていたジムなんて知らなかったから、復讐もされなかった。
でも、僕は経営なんてやったことがないし、お金を数えた事だって、ほとんどなかったんだ」
ジムに着き、灰色のペンキで塗られたドアに鍵を差し込んで力を込めた。ロニーは裸電球をつけるとシャツを脱いで、それを鉄の手すりに掛けながら続けた。
「死んだ甥には、4試合目の対戦相手が決まっていた。君だ。僕は栄真ジムに試合が流れたことを伝えた。通訳を通して、一切を包み隠さず、矢上さんに言った」
裸の上半身を濡れたタオルでこすりながら、肩を丸めたまま男は話を続けた。すぐそばにいるはずのこの男が、はるか遠くにいるように思えた。
「甥を殺した日に、僕は全てを失ったと思った。楽しいことも、悲しいことも。でも、他のこともいろいろとやってみたけれど、ボクシングだけは別だった。ボクシングだけが忘れられない。この両手を振るっている時だけが、人間でいられた」
「会長はなんて言った」
「矢上さんは、お爺さんがインドネシアの独立の時に一緒に戦ってくれた人なんだよ。それでインドネシアとのつながりがあったんだ。ムシャラムさんとの間で試合なんかの話もよくしていた。ムシャラムさんが辞めて僕がジムを引き継ぐと話したら、遠く離れていても、きっとどこかで協力すると言ってくれた。
そして、ボクシングをやめるな。階級を一つ上げれば、いい選手と試合をさせてやると言った。その彼は、ボクシングをやめてしまったけれどね」
ロニーが笑った。誰のことを言っているのかは言うまでもなかった。
「矢上さんが君の居場所を知っていたのは、僕が彼と連絡を取っていたからさ」
3年の間、この男がその事実を伏せていたことには何の驚きもなく、怒りもなかった。ただ、毎日この男が見せていた微笑が、深い悲しみを押し殺していたことだけが伝わってきた。
「半年くらいが過ぎて、気持ちにも迷いが生まれた。僕の経営はいい加減だったし、何より疲れていた。
眠れない日も、泣いている日も、だれも相手をしてくれなかった。寂しかった。親戚から逃げ出して適当に生きていても、甥だけは僕の事を慕ってくれていたんだ。考え方が違っても、エディはたった一人の身内だった。誰もいないリングの上で金属がむき出しになったコーナーを直して、血の跡を全部拭き取った夜。初めて彼にはもう会えないとわかった。
その時、たずねてきてくれたのが君だ。最初は君の顔を見てもただ辛かった。けれどすぐに考え直した。僕とボクシングをやってくれたからだ。その時間だけは、人間らしい心を取り戻せた。
それから3年間。僕はいつも君と打ち合ってきた。近所の子供たちも来てくれるようになったし、仕事も始められた。そして、矢上さんもついに試合を組んでくれた。待ちに待った時だ。どれだけ止められても、君とやってきたボクシングに出番を与えたかった」
ロニーは言葉を区切った。俺たちは真っ暗なジムの中、椅子にかけた。静かな時間が過ぎていった。遠くに響く鳥の声が、闇の中に溶けていった。
何を言えばいいのか、よくわからなかった。
やがて口をついて出たのは、俺に一番身近なことだけだった。
「ロニー。俺にはお前のことはわからねえよ。ボクシング以外のことなんて、なに一つ知らねえからな。お前の話はわかった。試合をやる理由もだ。
ただ、一つだけ教えてくれ。お前、甥の事があったから、この試合が決まるまではやる気を出さなかったんだな?」
ロニーが視線をかすかに下げて、濡れたタオルを物干しにかけた。
「それは違うよ。僕は甥のことを思う事はあっても、不真面目にボクシングをやったことはない」
「嘘だ。お前は本当は強いボクサーだったんだ。それなのに、俺は勝手に見下していた。お前の実力を見抜けなかった。それを謝らなきゃいけねえ」
「いいや。それは君の勘違いだ。僕の武器は、もともと右ストレートだけだったんだ。だからランキングに乗ってからは大した戦績を残せなかった。
左の打ち分けも足もタフネスも、全部足りなかった。君のいない場所で身につけたわけでもないし、誰かに習ったわけでもない。
手を抜いてきたわけじゃないよ。僕なりに一生懸命やってきたつもりだ」
「そんなはずはねえ」
語気を強めた。
「嘘は何も言ってない」
「いや、信じられねえよ」
「わからないのか」
突然、ロニーがじっと俺の目を見た。真っ黒な目が、俺から動かなかった。いつも笑みを絶やさないこの男が初めて見せた表情だった。
「アキラ、僕は、君のボクシングの真似をしただけだ。3年前から今日まで。毎日。毎日だ」
しん、と、もう一度静寂が訪れた。
言われるまで全く気がつかなかった。最初に会ったとき、この男の動きは、ちょっと気が利いたボクサーと大差なかった。だが、3年の月日。
ああ。
そうか。
こいつが右ストレートよりも右のアッパーをやろうとしたのも。左と足を使うアウトボクシングに徹底するようになったのも。
それは……
俺たちは向かい合い、そして、どちらとも無く笑い出した。
「ようやく準備ができたのか」
「そうだ」
「立ち直る時が来たってことか」
「その通りだ」
「アリになるのか」
「なる」
「俺には難しい話はわからねえ。政治の話はなんもわからねえし、家族を失ったお前の気持ちだってわからねえ。でも俺とお前にはボクシングがある。それだけが俺たちの言葉だ。最後まで手伝わせてくれ。薮田に勝つまで」
「アキラ。君はいつも僕を支えてくれた。ソムチャイや弓子を紹介してくれたのは君だ。エルミやヨーギや老スミトラとも、君がつなげてくれた。なにより、毎日顔が真っ赤になるまで打ち合ってくれたのは君だけだ。
僕には家族はいない。たった一人の甥にも、もう会うことはできない。僕にとって、君は本当に家族のようだった。たった一人の、でも、本当のともだちなんだ」
ロニーは俺の手を固く握って肩に手を回し、額を俺の額に摺り寄せた。この国の男が深い信頼を寄せている時だけに見せるジェスチャーだった。
自分の部屋に戻って電気を消したときには、もう日が回っていた。湿ったベッドの上にごろりと横になって、海の上に浮かぶ、美しいインドネシアの半月を眺めた。
やるからには最後までやろうと、全力でやろうと、そう思って始めた練習だった。だが、我ながら何でこんなに入れ込むのか、時々わからなくなることもあった。
今日になって、俺はようやくその意味を知った。故郷を離れてはぐれ雲のように生きる能力など、俺にはなかった。一人でもいいから誰かの信頼を勝ち取りたかった。そのために毎日、間抜けな頭をフル回転させ、苦手な人付き合いを繰り返し、あいつに殴られてきた。あのとぼけた気の弱い男と、何とかして真実を分かち合いたいと思っていた。
明日になれば、またトレーニングの日々が始まる。あいつのそばで、あいつと共に、数え切れない多くの思いを抱えに行こう。ジャディラ・アリと叫び続けよう。
アッラーなんざ全く信じちゃいないが、もし神なんてものがいるなら、あいつに会わせてくれたことだけは感謝したい。それがどれだけ俺の心を満たしてくれたかを伝えてやりたい。
涙が頬をつたっていた。インドネシアに来てから、いや、ボクシングを始めてからも、泣いたのは初めてだった。
あいつは俺を。
俺を、友と呼んでくれた。
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