3章 大海を越えて
15. 飛び立てぬ翼
スカルノ・ハッタ空港に、ガルーダ・インドネシア80便に搭乗する男たちがバスを降りた。俺、スミトラ、ソムチャイ、そしてロニーの4人はガラス戸を押して暗い空港のロビーへ入った。見送りにはエルミとヨーギも来ると言ったが、渋滞に捕まったらしい。間に合うか微妙ということだった。
ここまで来ても、またあの国へ戻ると思うという実感はまるでなかった。昔のことを思い出そうとしても、すぐにそれはぼやけて、霞がかかったように消えていった。
しかしそれは、集中すべきことではないからのようにも思えた。肝心なのは試合だけだ。
日本に到着したら、弓子の実家に泊めてもらうよう頼んでおいた。
先週初めて知ったが、奴の実家は旧士族がたてた立派な呉服屋なのだそうだ。信じがたいが、奴は令嬢だったらしい。本人が服屋としか言わなかったので、個人営業のブティックみたいなのを想像していた。
ともかくそこに泊まって3日後が試合だ。ほとんど時差はないから、そういう意味での体調は考えなくて済む。
チェックインを終えて、俺たちは空港のロビーで雑談をしながら時間を待った。ばたばたと航空便の時刻表示が切り替わっていった。
「試合が終わったらどこに行きたい? 案内できるぞ」
緊張を解こうと、適当な話題を振った。
「日本はさっぱりわからないなあ」
「アキハバラだろ」
ソムチャイがロニーを突っつきながら言った。ロニーが振り返る。なんのことかわからず、きょとんとしている顔だ。
「東京じゃねえか。大体なんで秋葉なんだよ。アニメとゲームしかねえぞ」
「トイレがあるだろ」
ソムチャイが真顔で答えた。
「トイレ?」
俺が聞き返す。
「オオサカにもニホンバシというブロックに電気街があるだろう。そこで買えるのじゃないかな」
老スミトラが言った。
「いや、だからなんでトイレなんか?」
「暖房にシャワーにドライヤーがついてる便器なんて、日本にしかねえんだぞ」
そうだったのか。それは初耳だ。
俺は思わず、うーんと顔を横へ傾けた。3人が笑った。こんな話題を振られるとは思わなかったが、少しほっとして、ソムチャイの訛りが混じったインドネシア語を聞き続けた。こいつも日本で試合が組みたいらしく、契約金の相場を聞いたりしていた。
俺は気を楽に伸びをして、茶色の内装に包まれたスカルノ・ハッタのロビーを見渡した。やれるべきことはやったのだ。あとはハプニングさえなければ……
後ろから、誰かの姿が見えた。
俺が最初に気がついて振り返った。
「チャンドラ・ボクシングジムの選手ですか」
男は丁寧な言葉で、俺たちの反応を見た。
「なんだ?」
俺はかったるそうに男を一瞥した。どこかの雑誌記者か何かか。それにしても、こんな場所でものを聞かなくてもよさそうに思った。
「そこにいるのは、ハッサン・アブドゥル氏では?」
俺がロニーに目を移した。
「ええっ?」
ロニーが答えた。男を見た。顔立ちに覚えがある。中華街でデモ隊に絡まれたときだ。
そうだ。あの時も、この男はハッサン・アブドゥルという名前を俺に聞いた。
ロニーの目が徐々に開いていった。驚愕の表情とともに、息を呑んで口を開いた。
男を見る。全身の毛が立ち上がった。
手に、黒い鉄の塊が握られている。
不意に、エルミと中華街に行った時に聞いた話を思い出した。
『ロニーさん、ジャワの人じゃないよ。名前も変えてる』
「ラハイル……?」
ロニーがつぶやいた。
「背信者に制裁を。アッラーフ・アクバル」
男の右手が、ロニーの眉間に動いていった。
床を蹴る鋭い音が響いた。老スミトラが動いたのだ。彼は持っていたペットボトルを投げつけて男の視界を奪い、横に跳んで男の右手をつかんだ。
遅れて男が引き金を引いた。
生まれて初めて銃声を聞いた。想像していたよりも数倍大きな音が、鈍く鼓膜を突き刺した。
「なんだてめえは!」
ソムチャイが我に返って立ち上がり、左のフックを男の腹に叩き込んだ。うめき声と同時に男がうずくまった。
スミトラが男の手首をさらにひねり、ぎりぎりと異様な方向に曲げた。男がひざまずき、額を床につけた。バキバキバキと関節が鳴り、続いてブチッと腱が弾ける音が響いた。スミトラは一言も発さずに拳銃を奪い、銃口をつかんでためらわずガラス窓に投げつけた。ガシャンと音を立てて凶器は空港の外へ捨てられ、遅れて男の悲鳴がロビーに響いた。
直後。スカルノ・ハッタ空港に爆発の音が聞こえた。
遠くでマシンガンを持った空港警備隊が、誰かと銃撃戦を始めた。再び爆発音が聞こえた。今度はさっきよりもはるかに近かった。
空港のベルがすさまじい音で響き渡った。俺たちはあらん限りの脚を使って、外へ走り出した。
「ロニー!」
「荷物を!」
「バカ、ほっとけ!」
タクシーが次々に逃げ出している。その一つを強引に止めて転がり込んだ。白タクだがこの際どうだっていい。
「早く乗ってくれ!」
運転手の声とほとんど同時にドアを閉めた。
「出せ!」
白タクのドライバーは、ラジオを馬鹿でかい音に変えて、アクセルを踏み込んで高速へ乗った。我も我もと、あらゆる車が東へ向かっていた。
「なんだ、あいつは!」
「俺が知るか」
ソムチャイがいらだたしげに口を歪めた。
「ジェマー・イスラミアだ」
ロニーが苦しげな声で言った。
「どうしてこんなところに!」
「ネットで試合の記事を読んで、僕のことを知ったんだ。ボクシングの試合なんて、調べ方を知らなければわからないと思っていた」
「だとしても、お前を襲うためにJ・Iが団体様で来るってのか?」
ソムチャイが助手席から言った。
「いや、恐らく原因は最近の選挙だ。ゴルカルが大敗して、また政権が闘争民主党に移った。その中で、ジェマー・イスラミアが活動しているという話を聞いている。空港のテロが目的で、ロニー君を襲ったのはおまけだろう。心配することはない」
老スミトラが言った。
「お前、J・Iの党員だったのかよ?」
ソムチャイがロニーに聞いた。
「僕だけが違う。家族はそうだった。彼は、ラハイルは僕の従兄弟だ……」
「なんだそりゃ……」
ソムチャイが自分の手を見た。その男を殴ったことと、あの時はああするしかなかったこととで、複雑に口をゆがめていた。
「とにかく考えても仕方がない。しかしこの騒ぎでは飛行機は飛ばんだろうな。
ロニー、気を落ち着けろ。まずはハリム空港から振替が出ないか調べよう。それがダメならデンパサールだ。バリからは確実に日本行きの飛行機が出ている。あそこへなら、最悪ボートとバスでいける」
スミトラがスマートフォンを見ながら言った。
「お、お客さん」
タクシーの運転手がびくびくと口を開いた。
「すまんな。とりあえずコタまでやってくれんか」
「ち、ちがいますよ。今のラジオ聞いてなかったんですか。ハリムやデンパサール、バンドゥンでもテロが起こったらしいんです。同時多発テロです。どこの鉄道も止まってますよ……」
「なんだと!」
俺たちが同時に叫んだ。
「ど、どうするんだ」
「う、うーむ……」
さすがのスミトラもうなるしかできなかった。なんて都合の悪い話なんだ。こんな日に、よりによって……
そこで、俺の携帯が鳴った。
「アキラ!」
「トニーか!」
「無事なんだな!」
「4人とも無事だ。ただ、飛行機が……」
「まずはジムに戻ってこい! 車で別の町に行けばなんとかなる!」
「すまん!」
「どうする」
ソムチャイが俺に言った。
「なんとか別のルートで行くしかねえな」
携帯を握ったまま後ろの座席へ言った。
「くそ、面倒くせえ……」
ソムチャイが拳を掌にたたきつけた。
「ロニー、それでいいよな」
「何言ってるんだ」
ロニーが目を閉じ、鼻息を漏らした。
「何って……」
「お金もパスポートも、全部スカルノ・ハッタ空港じゃないか……」
ぎょっとして、全員がお互いの顔を見た。
「お、お前、全部スーツケースに入れてたのか」
「全員分ね。まとめてチェックしたから」
「そんな……」
ぞっと、背筋が凍りつくような気がした。
こんなところで、始まりもしないうちから、俺たちの挑戦は終わっちまうのか。
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