4. のび太君の目

「アキラ、日当」


 リーダーが俺の目を見ながらボロボロの札を渡した。いや、正確には俺の目というより、その周りのアザを見ていた。


「明日から休みくれ」


 リーダーは黙って頷いた。

「3ヶ月な」


 リーダーがもう一度目を上げたが、やっぱり何も言わなかった。


 本格的な試合向けのトレーニングを初めて3日。まずはロニーのスタイルを改めて確認するために、滅多打ちにやられてやった。どういう攻撃ならロニーがうまく試合を運べるかを調べるところから始めた。特に昨晩はバカスカバカスカ、脳みそが抜けるくらい殴られた。


 おかげでバスに乗ると誰もがこの不気味な外国人を避けてくれるし、まるで混雑を気にせず街を歩くことができた。我ながらバカみたいだが、殴られすぎて、そんなことすら考えなくても良くなっていた。


 ジムに戻ると、ロニーがびっくりして駆け寄ってきた。


「なんだい、この目は!」

「出るのが早かったから見てねえだろうけど、朝からこうだぜ」


「こんなにひどくなるんだね。まるでジャイアンJai-anに殴られたのび太君nobita-kunだよ」


 思わず笑った。


「知ってんのか、そんなもん」

「日本から来たものの中じゃ、トヨタより有名さ。ずっと放送されてる」


 ロニーが軟膏を薬箱から取り出し、眉の下にそれを塗りたくった。


「知らなかったな」

「格闘技番組と天気予報しか見てなかったものね。とにかく座ってくれ」

 ロニーが薬を机に置いて椅子にかけた。


「子供の頃は、なんの道具が欲しいとか話したな」

「今はお医者さんカバンが欲しいね。アキラはなんか欲しいものはあった?」


「なんだろうな。どこでもドアかな。まあついた嘘が全部本当になるとか、めちゃくちゃなのもあったけどな」


 サイダーを飲んで一息つく。久々に口の中が切れて激痛が走った。ロニーが思い出したように指を立てた。


「お返しハンドっての覚えてるかい」

 記憶になかった。


「どんなんだ?」

「肩に手の形のおもちゃをつけとくと、相手に殴られたら3倍にして返すんだよ。あれが欲しかったな」


「あれだけ便利なもんがあるのにそれかよ!」

「そうさ。僕はボクサーだからね」

 なんだその理屈は。


「肩につけるんじゃ反則じゃねえか。だったら、あいこグローブのほうがいいぜ」

「そっちは知らないな」


「そのグラブで勝負すると、実力関係なしで互角に戦えるのさ。根性で勝負が決まるんだ」


「そんなのあったっけ。でもそれ弱い人にはいいけど、毎日練習する意味はなくなっちゃうね」


 それもそうだなと笑いあってから、椅子を立って柔軟体操を始めた。今までとは少し違う雰囲気が、俺たちの間に流れつつあった。


 *


 晩にジムへ電話がかかってきた。日雇い先の事務所からだ。その日初めて、リーダーの声を聞いた。


「人手が足りなくなったら、こっちから言うよ」

 どうもクビになったらしい。


「ロニー、いいか!」

 両手のミットを叩き合わせて言った。


「武器を絞るぞ。とにかく、お前の得手不得手はわかってるんだ」


 スタイルを再確認したら、今度はミット打ちだ。得意な武器を確実に当てられるよう作り直しにかかる必要があった。


「サウスポーに構えてプレッシャーをかけるから、とにかくジャブを返せ。そして、左を振ったらそれより速く打ち返せ。カウンターの右ストレートだ」


「ストレートは嫌いなんだ。威力が出ないよ」

 ロニーが即座に言った。


「いや、最初の1ヶ月はスタミナ作りと右カウンターだ。それ以外は考えるな」


「うーん……そうかい?」


 ロニーはロープに一度身をあずけてから構えなおした。


「いいか、お前は左前のオーソドックス、薮田は右を前にするサウスポーなんだ。お前にとっては、遠くから打つ左は怖くないだろう。向こうも同じように考える。お前の右は見えるから怖くないと。そこが狙いだ。体をもう少し正面に向けて、距離を縮めるぜ」


 姿勢を直してもう一度前に出る。ロニーは左ジャブを連打し、重い圧力が俺のミットに響いた。ころあいと見るや、俺が左を降った。

 ロニーの右は中心をわずかに外した。ミットは俺の指を外れてすっとんでいった。


「タイミングはいい。狙いをつけろ」

 リングを降りて、落ちたミットを拾い上げる。


「右でいけるかな」

 ロニーが俺に声をかける。


「右しかねえ」


「右か」

「そうだ、右だ。右だ、右だ、右なんだ。

 


 ロープをくぐって、再びミットをつけた。


「アッパーが好きなのは知ってるけどよ。かすりもしねえお気に入りなんか捨てちまえ。それがプロだ。もう一回、慎重に行きな」

「よし」


 ロニーが左のジャブを返し始めた。リズムに乗った左が重く感じられてくる。俺が左を振った。ほとんど同時に、重い衝撃がミットに響いた。ロニーの右ストレートが、今度こそ完璧なタイミングで命中した。


「いいぞ!」

「やっとか」


「まずはここまでだ。明日、もっとやろう。明日はもっと良くなる。明後日はそれよりも良くなる。そして試合の日には」


 俺が右を振った。


「顔のど真ん中に命中だ」

 明らかに、ロニーはオーソドックスのカウンターだ。やるにはこれを突き詰めるしか手はない。


 もちろん、敵地日本で試合があるのだ。審判が何をするかはわからない。例えば南米の審判のように手数を取るならかなり苦しい。だが威力で判定を取るヨーロッパタイプの審判がつけば、判定勝ちならあり得るようには思う。日本側は強打の薮田を勝たせるため威力を取る審判をつけたがるはずだ。それはきっと相手にとっても諸刃の剣になる。


 しかし、『勝つ』か……


 リングを降りて、座って休んだ。急に肩に重いものがのしかかってきた。


 ロニーにはトレーナーがいない。俺しかいない。ロニーの年齢、テクニック、スピード、それに性格。それを全て把握し、合理的な作戦を立てて、こいつを勝利に導かなければならない。


 俺はそんな都合のいい有能な人間じゃない。どうすれば今の状況を良くできる?

 電球の周りを飛ぶなんだかよくわからない南国の虫を眺めながら考えた。ぐるぐる回ってから今度は俺の顔へ近づいてきた。手を叩いた直後に、頭の後ろで羽音が聞こえた。うるさい上に殴られまくってるのもあって、まるで考えがまとまらない。頭より手足を使おう。


「ロニー、明日からランニングは一人でやってくれ。俺は手伝いを当たってみる」

「君以外に?」


「俺が5人くらいいりゃいいが、そうもいかねえ」


 *


 翌日からジャカルタ中のジムを回ってみたが、全くの無駄が続いた。ドアのない列車に乗り、ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗り、2本の足を棒にしたが、どいつもこいつも昼間から立ったまま寝てるような奴ばかりだ。俺たち以上の奴らはおろか、技術だけならエルミのほうがマシというのも珍しくなかった。


 候補をなめつくしたら、次は総合格闘技やキックボクシング、散打という中国武術の道場も回ってみた。ジャカルタではそっちのほうが人気競技で、良い選手が集まるのだ。しかし、そうした選手はパンチが上手くてもボクシングのルールに明るくないし、技術は蹴りや投げの補助として組み立てられている。2、3当たってみたが、どこからも断られた。良さそうなのがいてもたいていはかなり上位のプロで、金の話になると終わりだった。


 次に試合の情報を探しまくった。出てるのはどんな奴らだ。

 スタジアムに上っている選手の名前でググってみたが、地元出身が全くいない。インドネシアで強いのはスマトラやカリマンタン、ジャワ島でもバンドゥンやスラバヤの選手だ。遠すぎる。恐ろしいことに、何百万人が住んでいるはずのこのジャカルタ最高のジムは、2人しかいないチャンドラ・ボクシングジムかもしれないという有様だった。


「どういう街なんだ。少しはボクシングに興味を持てよ!」


 聞く奴が聞けば頭がおかしいと思われそうな独り言を繰り返し、パソコンに向き合った。


 ロニーは俺の後ろでサンドバックを叩いていた。後ろでエルミが支えている。テレビにニュースが流れている。アナウンサーがジャカルタの選挙の予想をベラベラと喋っていた。イスラーム色の強いゴルカルという政党と、中道左派の闘争民主党というのが争っているらしいが、選挙権のない俺には関係ない。関係あるのはボクサーだけだ。


「つまんないでしょ。格闘技チャンネルにしようよ」

 ロニーがパンチングミットに移ると手持ち無沙汰になったか、エルミが隣に座ってリモコンを手に取った。いつもテレビが格闘技チャンネルになっているのはこいつのせいか。政治だろうが格闘技だろうが、画面の向こうはどうでも……

 

 と思った途中で、あっと声を上げた。


 おなじみの金縁メガネがジャカルタで開かれたタイトルマッチの紹介をしていたのだが、知ったスペルが並んでいた。


 タイ人の名前だった。

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