3. 審査の基準

『この男を目の当たりにするたびに、いつでもショックを感じないわけにはいかない』

『たとえ、彼が追い詰められ、危険に瀕した時でさえ、彼は最も美しく見える』

『女性たちはあからさまなため息を漏らし、男たちはうなだれる。彼らは自分たちが無価値な存在であることをあらためて思い知らされるのだ』


 ノーマン・メイラーとかいうドキュメント作家が、この前死んだ有名なボクサー、モハメド・アリを評して書いた言葉だ。

 正直盛りすぎという気がするが、まあそれでも、アリやらマイク・タイソンやら、世界に名を成したボクサーなら、このくらいまで言われるのもわからんでもない。実力があり、ボクシングの黄金時代で、ヘビー級で、アメリカの話だからだ。


 しかし残念ながら、俺たちはそんな天才ではないどころか、一般人程度の評価も得られないような凡人だった。ばかりかボクシング人気は下り気味だし、体重は60キロだし、アジア人だ。


 俺は一応それを理解しているつもりだったが、俺のスパーリングパートナーに関しては、どうもそうではなかったようだ。


 メールを打つとすぐにエルミが来た。学校からまっすぐ来たらしく制服だ。上は白いワイシャツ。下は赤いスカート。この10年くらいの間でどこかの国のようにやたら短いのが主流になったそうで、どうも目のやりどころに困る。


「悪いな、勉強の邪魔してよ」


 あまり表情を出さないで言ったつもりだが、女の勘というのか、なにか事情があることはわかったらしい。いや、と、気を使ったような態度で、エルミは首を横に振った。


「今日は宿題もないし」


 エルミはジムの脇にあるシャワールームに入ってジャージに着替え、髪をまとめて無言で俺たちのグラブを固める。ストップウォッチとゴングを手にとって、向かい合わせた。


 リングの上で軽くジャンプしながら、ロニーを見た。継ぎを当てて直した灰色のコーナーをじっと見つめ、集中していた。本気で勝つ気でいるらしい。


「ヘッドギアくらいつけろ」

「試合だと思ってやりたいんだ。5ラウンド、本気で」


「本気でやんの?」

 エルミが横から口を挟んだ。


「ああ。エルミのセンスでいいから採点してくれ」


 エルミはいつものような軽口も言わず、ストップウォッチを首から提げ、ゴングを手にとって木槌で叩いた。痛んだ真鍮が、床に落とした鍋みたいな音を立てた。


 俺はぐっと腰を落として、小刻みにステップを踏んだ。ロニーも前後に動きながら、俺の周囲から隙をうかがった。


 俺は細かく体を揺らしながら、ロニーの鼻先に左のジャブを延ばした。ロニーがパリーイングという、グラブで軽くパンチを払う技術で俺のジャブをかわし、思い切りよく打って出た。俺は左を打ちながら後退し、上体を反らすスウェイバックでジャブから逃れた。


 ロニーは再び俺に向かうと、腕を高く掲げて間合いに入り、顔を狙う連打で攻めてきた。俺は再びジャブを打ちながら後退し、まともに打ち合わなかった。1ラウンドはそれだけで終わり、次のラウンドも俺は頭を振りながらジャブをかわし続け、当たるタイミングでだけ軽く打ち返した。


 エルミがゴングを鳴らした。ボクシングは接近を避けたほうが技量の差が明確に出る。それをはっきり示そうと思った。


「アキラ。勝つ気って、そういうことなのかい」

 ロニーが不服そうに言った。俺は試合中と同じように何も答えなかった。


 3ラウンド目になると、ロニーはこのままだと判定負けになると悟り、めちゃくちゃに突っ込んできた。俺はクリンチを使い始めた。ロニーの雑なパンチをかわして懐に入り込んで抱きついた。腰の入っていないパンチがばたばたと俺の背中にぶつかった。


「ブレイク」

 エルミが俺たちの背中を叩き、ニュートラルコーナーに戻した。


「ボックス」

 再開しても、俺は徹底して距離を取るアウトボクシングを崩さなかった。ロニーが焦り始めてきた。焦れば焦るほど、拳は俺から遠ざかっていった。


 そこから先は、もう余裕があった。ロニーのスタミナが切れ始めたのだ。高いガードも俊敏なフットワークも失われ、ただ手を振り回しているだけだ。頭を下げてがむしゃらに突っ込んでくるロニーに、俺は脚を止めて左のフックを打った。最もKO率が高いと言われる横から振り回すパンチが、ぐらっとロニーの体を崩した。それを迎えるように、続く返しの右がロニーのボディを捕らえた。ロニーがダメージの蓄積を避けるため両手を閉じて顔と腹を守る。ガードの上から連打を叩きつけ、コーナーへ押し込んだ。エルミが俺たちを分けた。


「どうする? これダウンにする?」

「ダウンでいいよ。もう少し続けられるだろ」


 俺が答えると、エルミがスタンディングダウンを取った。選手に怪我が残らないよう早めに止めるのが最近の風潮なので、現在は多くの国でこのルールは撤廃され、試合自体を終わりとしてしまう。だが俺たちはガードの状態で固まったらダウンということにしていた。日本などでは今でもこのタイプの膠着が、ロープダウンという呼び方でダウン扱いとなることがあるからだ。


「ワン、ツー、スリー……」


 ロニーは目を伏せて、8カウントまでを聞いた。もう一度ガードを固め、ジャブを打ち込んでくる。


 俺はそれまでのボクサースタイルをやめ、ぐっと深く踏み込むとジャブ、そしてアッパーを打ちあげた。

 日本人の多くは、背筋のつくりがこの技術に向いている。日本人ボクサーと戦うというのは、アッパーと戦うということだ。薮田が得意なのもこの技だった。俺もつぶせないようなら、薮田とまともに勝負する事なんて夢のまた夢だ。


 何度目かの右アッパーがロニーを捕らえた。ロニーはぐっとのけぞりながら、自分からスリップダウンしてロープに頼った。明らかにスタミナ不足だ。4ラウンド目になると、奴の勢いも次第に薄れていったように思えた。


 練習不足だけではない。栄養も足りないし、仕事には夜勤もある。なにより試合に出られる体を作るには、このインドネシア人は年を取りすぎていた。

 頭を下げてガードを固めるロニーに、再び右のアッパーを入れた。休んでろ、ロニー。日本には、旅行か何かで行けばいい。


 その時だった。


 ロニーの息が、小さく俺の耳に届いた。俺の背筋に奇妙な冷や汗が流れた。プロで11戦。アマチュアでは30戦以上。その俺に一度も訪れていない経験だった。


 ロニーと視線が衝突した。蛇のような大きな目。黒い肌の中で煌々と光る二つの目玉が、アッパーを放つ俺の全身を、じっと捕らえていた。


 俺の右が空振りするとほぼ同時に、電光が脳裏を駆け巡った。


「あっ!」


 エルミがあわてて割って入るのがわかった。その頭越しに、ロニーの両目が静かな光を放っていた。俺はたたらを踏んで、尻からマットに倒れた。よろけながら立ち上がる。


 エルミが4本の指を俺の目の前に出しているのが見えて、ようやくカウントを取られているとわかった。


「どうする? まだやるの?」

 エルミが言った。


「大丈夫だ。やらせてくれ……」

 俺が答えた。


「2人とも怪我しないでよね。ボックス!」


 エルミが両手をクロスして、続行を指示した。

 ロニーは下がっていたガードを再び上げた。贅肉をそいだように無駄な動きが消えている。にじり寄るように、俺の懐へ入ってきた。


 俺はもう一度アマチュアの動きに切り替えた。軽く触れるような打撃を繰り返して、円を描いて足を引くサークリングで打撃を逸らし、後退しながら迎え撃った。ダメージは徐々に回復してきた。


 5ラウンド目に、再びロニーのガードは下がってきた。お互いに有効な打撃のないままその時間が終わった。


「アキラの勝ちだと思う。4ラウンドでダウンしてるけど、それ以外は全部アキラじゃないかな」

 ロニーは何も答えず、じっと下を向いていた。


「ロニー」

 俺が先に声をかけた。


「わかってるよ。約束だ」

 ロニーは自分に言い聞かせるように、そう呟いてグローブを外した。


 俺は首を振った。グローブを解いて、バンテージをはずしながら言った。


「3ヶ月だ。根性入れるぞ」

 ロニーの肩を叩く。ロニーがきょとんと俺の顔を見て、それから目を丸くして白い歯を見せた。


「いいのかい?」

「日本へ行こう。それまでの家賃と食事代は心配するな」


「え、なに? なんか始まるの?」

 エルミが目を丸くして聞いてきた。


「どうもそういう事になりそうだぜ」

 エルミの頭を撫でて、リングを降りた。


 さて、こいつは面倒な事になったぞ。

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