2. 釣り合わない試合

 ペンチを車に放りこんで、隣の箱にヘルメットをしばりつける。トラックは舗装が割れた道路を壊れかけのエンジンで走っていった。何かが荷台から落ちたが、見なかったことにした。


 電線工事もそろそろ飽きたな。といっても、他に当てがあるわけじゃないが。右肩と左腕に大きな穴が空いた灰色の作業着を脱ぎながら、チーフのところに行った。


「アキラ。日当」

「ありがとうよ」


 わずかなルピアを受け取り、帰りに不動産のフリーペーパーを拾った。間に挟んだチラシを捨てて、ジャカルタの端あたりで借りられるアパートの相場を見る。バスの停留所へ。トランスジャカルタという専用レーンを走る市民の足だ。今日も自動改札が故障していたから、紙の切符を買ってステップに上がった。眠そうに目をこすっている車掌に促されてバスに乗った。


 端の座席にかけて窓を開けた。この国は煙害に無頓着なので、バスの中でもガラムという紙巻の独特な甘い香りが漂っている。窓の外へ口を突き出し、途切れなく連なる外資企業の看板を眺めながら、ロニーと話すことを考えた。


 昨日の手紙を見て、ロニーがいろいろと考え込んでいた。明らかに出るべきかどうかを迷っている。依頼してきた選手は俺の直接の後輩で、ロニーが出て勝てるような相手ではない。しかしそれはそれとして、これまでのことをはっきり考え直すきっかけになった。


 自分のアパートを探そう。ボクシングジムに住んでボクシングばっかりやってたら、試合への未練が出てきて当たり前だ。普段付き合いのある人間が俺だけだからいけないんだ。1人になれば考えも変わるだろう。

 バスを降り、目星をつけたページだけを破って残りをゴミ箱へ捨てた。


 *


 ジムのドアを開けると、また借金取りからの催促が散らばった。なんでいまどき紙なんだ。メールくらいないのか。


 ロニーは奥の小さな絨毯の上にいた。礼拝の時間らしく、西に向かって頭を下げ、ぶつぶつ何かをつぶやいている。この国の9割はムスリムと呼ばれる、いわゆるイスラーム教徒で、この男も日に5回、必ず創造主アッラーへ祈りを捧げていた。俺にその意味は全く理解できなかったが、来て数ヶ月もした頃には、そういうものなんだろうと受け入れられるようになっていた。


 じっと部屋の隅にうずくまるロニーから目を逸らし、水道で手を洗った。なぜか彼らは礼拝を見られるのが好きではないらしい。ぎちぎちうるさい椅子にかけていると、礼拝を終え、ロニーが冷蔵庫へ向かった。


「食いなよ、アキラ」


 今日はパンゲマシンとかいう雑魚とクズ野菜のカレーだ。ロニーが唐辛子とタマネギとソースをひび割れたミキサーにかけ、その料理に乗せた。豚肉や酒にありつけないのはもう慣れたが、スポーツのプロが食うメシとしてこれはあんまりだ。


「ちょっとパソコン見せてくれ」

 フリーペーパーの切れ端を机に置いて、パソコンを引っ張り不動産屋のサイトを開こうとブラウザを開いた。


 そこで、ぎょっとして目をロニーへ向けた。ネットのタブが全部薮田の試合になっていた。しかもいつの間にかボクシング動画の配信サイトまで登録してある。


「ロニー、なんだこりゃ?」


「もちろん研究だよ。東洋太平洋のトップに駆け上がるための。さあ、アキラ、教えてくれよ。イッキ・ヤブタってのはどんな選手なんだい」


 しまった、遅かったか。


 信じられないことに、こいつは試合に出るつもりなのだ。たしかに昨日、ロニーは好奇心に満ちた顔で同じことを聞いていた。やめとけよとしか答えていなかったが、やる気は消えていなかったようだ。


「試合見たんだろ、だったらわかるだろ」 

 パソコンのタブを次々に移動する。Youtubeで直近2つの試合を見終えたようだ。ロニーに視線を向けると、真っ黒な両目は生き生きと輝いていた。


「もちろん見たさ。ちょっと荒い試合だな。でも、いい足だ。それに難しいはずの前手のアッパーがいい」

 ロニーがうれしそうに言った。


「戦績も見たよ。9戦全勝。8KOだって。すごいな。8KOはすごい」


「その、あのな……」

 ロニーが、中途半端な答えに顔をしかめた。


「どうしたんだい。いや、わかってるぞ。彼は君のジムにいたから、僕の対戦相手に選ばれたのが複雑な気分なんだ。そうだろう?」


「アホか。そんなんじゃねえ」

 吐き捨てるように言い返した。事実、そんな事はなんの問題だとも思っていない。


「彼はいい選手だよ」

「わかってるさ。こいつの相手は何度もやったんだ」


「どうしたんだ。アキラ」

 ロニーが怪訝そうな態度で俺に目を向ける。はっきり言わなきゃ話がまとまらんな。


「ロニー」

「ん?」


「お前、自分の年考えろよ。試合も1年以上やってない。それにお前は13勝10敗だぞ」

「それが?」

「俺が出たほうがまだマシだ」

「僕の試合だ」

「勝てると思ってるのか?」


 しん、と、言葉が消えた。ロニーがモニターを消した。


「なんだ」


 ロニーの目がぎょろりとこちらへ向いた。


「僕が負けるから出るなっていうのか?」

 俺は答えなかった。ロニーが両手を広げて続けた。


「僕はボクシングが好きなんだ」


「わかってるよ。でもインドネシアのボクシングが高いレベルじゃないのは知ってるだろ。ほとんどショービジネスの扱いなんだからな。

 客だって、プロレスとの区別もついてない奴ばっかりじゃないか。タイやフィリピンより八百長試合フェイクマッチだって多い。

 お前に声がかかったのは、売り出し中の選手の名前をあげるためだよ」


「えええ? ちょっと待ってくれ、アキラ。そんな言い方はないよ!」


 不愉快さを顔中に埋め込んで、ロニーが語気を強くした。それでも俺は引かなかった。


「いや落ち着けよ。考えてくれよ。3ラウンド満足にスパーリングもできないお前が勝てるわけねえよ。

 こいつは今、勝ち星をつけるために2、3ラウンドで終わるような相手ばっかり選んでんだよ。お前はそのために使われるだけさ」


 俺は一気にまくし立てた。


 俺に言わせれば、薮田一輝は不幸な選手だった。普通にボクシングをやって、普通に努力をしていれば、普通に上がれる才能がある。そろそろ世界チャンピオンへの挑戦を繰り返していい選手なのだ。


 だが、マスコミは奴の売り込み期間を引き延ばそうと、世界に挑戦させる前に勝ち星をやたら増やしたがっていた。理由は簡単で、父親は事故死、母親は失踪。妹の面倒を見ながら親戚の家から夜学に通い、バイトをしながらボクシングを始めたというストーリーがやたらにウケたのだ。


 ボクシングと何の関係があるのかと言えばそれまでだが、人は時に本質と関係ない要素で一つのジャンルを盛り上げる。マスコミは大喜びでこの薄幸少年に張り付き、視聴率やらページビューやらを稼ぎにきていた。


 ランキングもこいつのために悪用されているように見えた。この東洋太平洋ボクシング連盟という団体は、世界的なボクシングの不人気や新興の地域団体との重なり合いで、権威の低下が叫ばれている。

 日本ではそれなりの箔がつくが、実はほとんどの試合は日本で開催されていて、ランキングも日本、日本、フィリピン、日本、日本、フィリピンみたいな感じになっているのだ。


 それでも日本では東洋太平洋で勝ったと書けば、国内より聞こえがいい。そしてインドネシア側からしても、多少リスキーでも行く理由はある。この国のボクサーはタイが本部のアジアボクシング評議会(ABCO)の試合にも、韓国が本部のパンアジアボクシング協会(PABA)の試合にも出られるが、やはり日本での試合の方が、ファイトマネーが高いのだ。


 こんな感じで突っ込みどころが山ほどあって、そんな事情をこいつに説明するのも面倒だった。


「なんだろうが、いい相手から依頼が来たら受けるのがボクサーだよ。僕は出たい。イッキ・ヤブタとボクシングがやりたいんだ」


「試合をするなってんじゃねえ。こんなのとやったら体をどうかしちまうぞ。ロニー、こんな生活はやめよう。長い目で見りゃ、インドネシアの賃金だって、日本で1回のお祭り興行よりは高いさ。俺は定職に就く。お前もしっかりしろ」


「アキラ、話を聞いてくれ。体がどうこう、お金がどうこうじゃない。僕はプロボクサーなんだ。リングで戦うのが仕事なんだ。君だってボクシングの魅力を知ってるだろう」


「ボクシングが好きなのとボクシングで食うのは全然違うだろ。俺は週に5日仕事してるだろ。お前みたいに、30過ぎて夢の中に生きてるわけじゃねえんだよ」


 ぐっと、ロニーの言葉が詰まった。そして、拳を握って立ち上がろうとしたが、俺が睨むとすぐにまた座りなおした。


 まあ、そうだろうな。


 ため息をついた。根本的に闘争心が欠けているのだ。俺に向かって怒鳴ることもできない。事情もあるが、それ以前だ。33歳、弱気でぐうたら。どこにも勝てる要素がない。


 ううん、と、ロニーが緊張した顔で腕を組んだ。


「試合はまだ3ヵ月後だ」

「そうさ。断ったって全然かまわねえよ」


 俺が肩をすくめて言った。これで黙るかと思ったが、ロニーはひるまなかった。


「アキラ。もし、僕がうんと練習して、10回戦ラウンドを戦うスタミナがあれば? この3ヶ月を一生分がんばることができたら?」


「無理だって言ってるだろ。何度も言ったけど、お前ボクシングに向いてねえよ。いや、ボクシングはともかく、プロでやってける性格じゃねえ。ここも普通のスポーツジムにして、インストラクターでもやったらどうだ? そっちのほうが向いてるよ、確実にな」


 ロニーは口を尖らせてしばらく下を向いていたが、急に何かを思いついたような顔で、はっきりと言った。


「家賃をはらってくれ」

「は?」


 意味がわからなかった。


「3ヶ月だけ、家賃と食費を払ってくれ。そして、もっとスパーリングの相手をしてくれ」

「いやいやいや、家賃なら払うけど、そこじゃねえよ」


「出るんだ。日本に行くんだ。プロのリングで、もう1回戦うんだ」


 珍しく譲らない。こいつのこんな態度は初めてだ。


「わーった、わーった。じゃあこうしようぜ。まず俺に勝ってからだ。俺に勝てたら死ぬ気で協力してやる。でもな、俺にも勝てねえんじゃ薮田には勝てねえ。わかるだろ?」


 半ば呆れて、半ば冗談でロニーに言った。だが、ロニーは小さな声で、自分に言い聞かせるように言った。


「わかったよ、アキラ。人を呼んでリングで決めよう」

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