1章 熱気の中で

1. 日本からの手紙

「もう1ラウンドできるか?」


 目の前の男に声をかけた。

 ロープに体重を預け、荒い息で胸を波打たせてから、そいつはのそりと立ち上がった。


「もうやめようよ。明日も仕事があるんだ」


 男が苦い笑いを見せて、ゆっくり首を横に振った。こいつはロニー・ハスワント。俺のスパーリングパートナーだ。


 俺は汚れたグローブで頭を掻くと、終わるか、と答えてロープを潜り抜けた。

 ひやりとした石畳に素足を乗せる。食器洗い用のタワシに洗剤を振り掛け、汲み置きの水に浸した。このタワシで肌をこすると体を洗ったことになり、それからシャツで体を拭いて乾かすと、服を洗って体を乾かしたことになる。水は少し冷たかったが、年中暑いこの国ではかえってありがたかった。


 ここはインドネシア共和国、首都ジャカルタ。裸電球、壊れたサンドバッグ、中央に鎮座しているリングだけはやたら立派な、チャンドラ・ボクシングジムだ。


「ロニーさーん」

 入り口から声が聞こえた。


「んー?」

 ロニーが、首を横に倒しながら表を見た。


「学校終わったよ。ボクシング教えてよー」

 ロニーが入り口に手をかけた。


「ジムは休みだぞ」


 何が休みだ。俺とやって疲れてるだけじゃねえか。


「でも、風邪で授業終わっちゃったんだもん」

 後ろから別の声。いつもの中高生だ。ロニーがろくに月謝を集めないのを知っているから、何かといってはここへ遊びにやってくる。


「風邪なら家で寝てろよ」

 ロニーが苦笑いしながら子供たちに言う。


「僕たち元気だよ。ロニーさんにボクシング習ってるもん」


「明日は水道の仕事があるんだよ」


「えー」

「えー、えー、えー」

 うるせえ奴らだな。


「俺が教えてやるよ。ボクシングもケンカのやり方も」

 俺がドアへ向けて声を出した。


「あー、アキラだー」

 先頭のガキがいきなり表情を変えた。

 くそ。こいつらは正直だから嫌だ。


「アキラは厳しいからやだー。ロニーさんがいいー」

「今日は優しくやってやるって!」


 俺がなれない笑い顔をガキどもに見せたが、どうにも反応が悪い。飛び込んできた子供たちがロニーの腕を引っ張り始める。


「まあまあ、とりあえず並びなよ。今日はミットの受け方を覚えてみよう。ミットが上手な奴はボクシングも上手くなるぞ」


 ロニーがドアを大きく開き、ガキどもを中に招いた。俺は椅子に座ってテレビをつけた。14インチのネットテレビはいつも格闘技のチャンネルになっている。金縁眼鏡をかけた伝統武術の師匠とかいう男が、インドネシアの武道と格闘技を紹介していた。


 対談ばかりで試合のシーンはないようだ。チャンネルを変えて天気を見た。今日も晴れ、明日も晴れ、あさっても晴れ。乾季に入ると毎日が晴れだ。


「左、左、左左。右ストレート!」

 面倒なので子供達には全員左を前に構えさせている。左ジャブで相手を崩し、続く右ストレートの一撃で仕留めるワンツーだ。この技術も今となっては常に試合で使われるとは限らない。しかしどのジムでも、初心者はおまじないのようにこれを練習する。


「左! 右アッパー!」

 ロニーの声とミットの男が響く。アッパーなんかやってるのか。そんな難しい技よりフックを教えてやりゃあいいのに。


 外に目をやった。道路はひしめくオートバイ。人口950万人。都市圏では東京に次いで世界第2位、3000万人だ。赤道直下を生きる無数の人、人、人。活気あふれる社会には貧困や治安の問題があっても悲壮感がない。これからの国なのだ。


「さ、走るぞ! アキラ、来いよ!」

「んー?」


 うたた寝をしかける直前に、後ろから声が来た。体を起こして振りむくと、ロニーがシューズの紐を結びなおしていた。疲れていたはずなのに、ガキが来ると元気だな。


 軽く肩を回すと表に出た。アキレス腱を伸ばしてジャンプを繰り返してから、暑い、暑い、陽炎が揺れる路地を抜けた。


「ワワンの雑貨屋を曲がってアンチョールの海岸に行こう」

 ロニーが道の向こうへ指を伸ばす。晴天の下に太平洋が揺れていて、その中にすれ違う商船と客船が見えた。


 1人が横に並んで、俺にからんできた。今日の中では一番の年上で、ジムに来る紅一点のエルミだ。黒くて長いワンレンを後ろで一つにまとめ、大きな目に健康そうな小麦色の肌。ジャワ人によく見られる顔立ちより少し薄く、涼しげな笑顔がよく似合っていた。俺の真似をしてジャブを振りながら聞いてきた。


「アキラ。アキラって、日本でチャンピオンだったの?」

 エルミの腕は細い。子供の中では姉役だが、まだ高校の2年だ。俺の耳でも、そのインドネシア語が若いのはなんとなくわかった。


「昔な。アマチュアの」

「じゃ、強いんだ?」

「さあな」

「なんでインドネシアに来たの?」

「さあなあ」

「インドネシアは好き?」

「ああ」


 俺は正面に向き直り、黙々とストレートを振りながら走り続けた。

 ここに来て3年か。微かに浮かんだ遠い記憶を打ち消して、俺は左右を交互に出した。


「彼女、インドネシア人?」

「いるかよ。そんなもん」

「なんでいないの?」


「よせよ。アキラは自分の事を聞いて欲しくないんだ」

 ロニーが息を継ぎながら言った。

 ちぇっ、とエルミが舌を出してロニーへ向けた。


「こいつめ」

「おっと」


 ロニーが頭を撫でようとしたが、エルミはひょいっとそれをかわした。もう一度笑顔を向けて、俺の後ろを走り続けた。


 左右の屋台を抜けて海岸へ出た。白い波が細かく砕けて俺たちの足を叩いた。南中を少し回ったジャカルタの太陽が、俺たちの背を追ってきた。

 

 美しい国だ。

 もう日本には戻らないだろう。

 海と太陽と、こいつらといられる限り。


 ✳︎


 ひとしきり走ってから、小さな空地で子供たちにスパーリングの真似事をさせて解散した。夕暮れのジャカルタを、汗を拭きながら帰路に着いた。


「今日も良い日だった」

「今日もカネにならねえ日だった」


「明日は君も僕も仕事じゃないか」

「あったりめえだろ。普通大人なら平日は仕事すんだよ」


「まじめだなあ」

「そうかなあ」


 このとぼけた男と関わるようになったのは、俺が5年前の国体で優勝してプロ転向した時のことだ。当時の俺は23歳だった。


 初戦には3戦無敗、19歳のインドネシア人が選ばれた。芯が強そうな若者の写真がメールに添付されていた。毎日、2階級上の奴らとスパーリングを繰り返して、試合を心待ちにしていた。


 そしてそいつは来日の直前に死んだ。ジャカルタで車に跳ねられ、即死だったそうだ。突然の事で、悔しいとも悲しいとも思わなかった。


 その数日後。次の試合がいつになるかと思いながらジムワークに打ち込んでいた時、鬼籍に入った奴の叔父という男が突然ジムを訪れた。それがこのロニー・ハスワントだ。当時は28歳で、階級は俺より一つ下のフェザー級だった。

 57キロ強を上限とするこの階級は、プロボクシングの全17階級中7番目に軽い階級で、日本でもインドネシアでも人気の階級だ。しかし激戦区をくぐり抜けたという感じはまるでなく、ボクサー特有の覇気も感じられなかった。旅の疲れを、あいまいな笑顔で補っているように見えた。鼻がわずかに右に曲がっていて、それが気になるのか、何度も触っていた。


 通訳を通して予定を反故にして申し訳ないと伝えられたが、何を答えていいかよくわからず、甥の冥福を祈るとだけ告げた。

 ロニーは、なぜか俺と親善のスパーリングを頼むと繰り返した。あまり気分は乗らなかったが、わざわざここまで来ている奴に悪いような気もして、ジムのリングに彼を上げてもらった。


 手を抜くのも悪いと思い、一応真剣に行く事にした。最初の印象よりは巧みな技術を持っていたが、練習に打ち込んでいた俺のジャブは何度もロニーの頬をかすめ、ボディを上手く捕らえることもあった。

 3ラウンドのスパーリングが終わるとロニーは「いい選手だ。甥の相手をさせたかった」と言った。いくらか言葉を交わして彼は帰っていったが、挨拶としか思えない事のために、わざわざ日本まで来た理由はさっぱりわからなかった。


 帰国してからも、ロニーは時々メールをくれた。たまには返事を書くこともあった。たいていはお互いのへたくそな英語でアジアのボクシング情報を適当に書き連ねるのだが、ネットでインドネシア語を調べて書いてこともあった。格変化も時勢もないインドネシア語は世界でも有数の簡単な言語と言われており、英語よりは数段書きやすく思えた。


 それから少したって、俺は全くの別件でジムを抜け出して日本を去った。何冊かのインドネシア語の本を手にして、奴が乗ってきたガルーダ・インドネシアに今度は俺が乗った。スカルノ・ハッタ空港へ迎えに来たロニーは、すぐにジムで寝泊りをしろと言ってくれた。


 それからずっと、こんな共同生活が続いている。3年のうちに、こいつのこともいろいろわかってきた。ロニーはボクシングが好きなんだろうが、最初の印象どおり、あまりこの競技に向いていない性格でもあった。キャリアが長いため技術自体は悪くないのだが、人懐っこく気が優しく、格闘家の野生がないのだ。試合も1年少し前に2試合ほどやったが、1勝1敗。内容も良くなかった。


 最近になると、俺との同居も良くないと思うようになった。もともと宿代はタダという話だったが、最近は食事も作ってもらっている。いくら金を払うと言っても聞かない。いいか悪いかではなく、それがロニーという奴なのだ。

 ずっと甘えてしまっていたが、もう時期なのかもしれない。俺も定職の無い身だが、出ていくくらいはできる。


 今日あたり、言わなきゃならねえな。


 ✳︎


 買い物を終えてジャカルタの外港タンジョンプリオク近くの旧市街へ入り、さらに路地へ。日が暮れるころに、ジムに到着した。


 ドアを開けると、借金取りからの催促がばらばらと床に散らばった。

 心を決めて切り出した。


「お前、本当いいやつだけどよ。もうちょっとまともに稼ぐ事考えたほうがいいんじゃねえか?」


「明日は明日。それなりに働けばそれなりに食べられる。食べる以上に働く必要なんかないよ」

 いつも通りの返事だ。


「今までの飯代を払わせろよ。家賃だってできるだけ出してえんだ」

「いいって、いいって」


 請求書の束を机の上に置いた。


「いや、よくねえだろ。どうすんだこれ」

 指をその上に突き立てる。


 ロニーが笑いながらそれをかき集めると、食い終えた皿を横にどけて目の前に並べ、ゴミ箱に一通ずつ放り込んでいった。


「これは……まだ大丈夫。これも……まだ大丈夫」

 何が大丈夫なんだか全くわからねえ。


「これは知らないとこだな」

 ロニーが最後に残った、一通の白い封筒を手に取った。エアメールだ。この国ではあまり見かけない、いい紙を使っていた。


「おっ、日本からだよ?」

 ロニーが目を丸くした。


「は?」

 手紙に目をやったが、俺の角度からは何が書いてあるのか見えなかった。


「でもアキラ宛じゃないね」

「そりゃそうさ。ここにいるのを知ってる奴はいねえはずだ。それより借金の話をしようぜ」


「まあまあ」

 ロニーがびりびりと封筒を破った。


「なんかの宣伝かな……パソコンか、炊飯器か」

「エアメールで?」


 ロニーが封筒を破った。中に一通、見覚えのある紙が入っていた。


「……おい」


 思わず、ロニーの手首を掴んだ。


「……なんだこれ」


 ロニーがいぶかしげに紙を開く。

 俺はそれをひったくった。間違いない。俺がいたジムのマークだ。


「栄真ジムからだ」

 誰に言うでもなく、勝手に声が出た。


「え? じゃあ、やっぱりアキラのじゃないか」

「違う。おまえの名前だ。おまえの試合だよ」


 その紙をぎゅっと握り締めた。


って書いてあるぜ」

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