右カウンター赤道より

梧桐 彰

プロローグ

 エリシオンアリーナ大阪第2競技場に響いているのは『ヤブタ、ヤブタ』という声ばかりだった。上位選手が後から入る慣例を破り、赤コーナーで相手を待ち受けるそのボクサーは、わずかな時間すら惜しいというように、黙々とシャドーを繰り返していた。


 低迷を続けるボクシングの人気を久々に回復させたのが、このヤブタだった。本名は薮田一輝という。丸坊主の頭に鋭い目つきで、女性受けしそうなマスクではないが、20代前半のボクサーらしい精悍せいかんさがあった。


 真っ白なタキシードのリングアナウンサーがヤブタのやたらに長い紹介を終えると、再びわざとらしい抑揚をつけて、対戦相手の名を叫んだ。青コーナーへ続くドアが開いた。


 ヤブタとは対照的に、青コーナーへ入ってくる選手はほとんど注目されていなかった。

 パンフレットによると、ロニー・ハスワントというそのインドネシア人は国内ランキングで6位。1年以上試合はしていないそうだ。


 ライトなファンはヤブタを見られればそれで良い。だがコアなファンはこのマッチメイクを酷評していた。東洋太平洋の挑戦者ランキング1位に位置するヤブタがすべき試合はタイトルマッチ、つまりチャンピオン決定戦だと考えられていたからだ。


 マスコミがヤブタ人気の引き延ばしにかかっているのだろうという視線が、その外国人へも刺さっていた。なにしろボクシング誌はほぼ全て『次こそ王座に挑戦するから……』という記事を書いており、あるチャンピオンが「えっ、俺に挑戦しないのか」と尋ねたというエピソードまであったのだ。


 スクリーンに浅黒い顔が写しだされ、ハスワントの名前がもう一度読み上げられた。男が軽く右手を振り上げると、お義理のような拍手がばらばらと鳴った。


 33歳だという。鼻はわずかに右に曲がっているが、耳は綺麗で、それはこの年のボクサーとしてはめずらしく、あまり打たれていないことを示している。それでも格闘技に打ち込む人種として、限界を迎え始めているのは明らかだった。そのうえ縮れた若白髪のせいで老けて見え、顔にもしわが多い。マウスピースの奥に並ぶ真っ白な歯だけが、かろうじて活力を主張できる部分だった。やはりかませ犬なのだ。そういうムードが漂った。


 しかし大ホールを埋め尽くした観客は、この夜、そうした前評判からはうかがい知れない質の試合を観ることになる。


 男はガウンを脱ぐと軽い跳躍を始め、グラブを交互に突き出した。何人かがその体に目を奪われ始めた。動きは意外に敏捷で、発達した足腰には脂肪がついていない。そして、その両拳にはりきみのない、静かな闘志が行き渡っていた。


 戦うためにここへ来たのだ。

 老兵の目が、そう語っていた。

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