5. タイの伊達男
タイでは普通のボクシングのことを国際式と呼ぶ。この国にはもう一つ、同名の格闘競技があるからだ。それは、日本ではムエタイと呼ばれている。
この競技で、『火』と呼ばれたライト級のセンサラック・スィーブワーロイが、偶然ジャカルタの試合に出ていた。
いつだったか日本での試合を終えて観光していた時、ふらりとうちのジムを訪れ、俺とスパーリングをしたことがあった。2年前に国際式へ転向して6連勝中、タイの国内チャンプで年は21歳。しかも薮田と同じ右利きのサウスポーだ。
タイの南部、ハジャイで生まれたこいつはマレー語を話すことができて、訛りこそきついがインドネシア語も通じる。すぐに滞在してるというホテルに電話をかけた。
電話をした翌日の昼下がり。ついに本格的なボクサーがジムに足を入れた。
「まだ生きてたのか。それにインドネシアにいたなんてな」
記憶にある子供らしさは完全に消え、やたら派手な容姿になっていた。赤く染めたウルフカット、太い眉毛。じゃらじゃらと大きなメノウとヒスイのネックレスをかけ、三色のランニングの上に、薄い麻のシャツを着流している。
タイ人と言えば襟足の揃った髪に衿つきシャツというイメージがあったのだが、こいつは完全な例外だ。ビルマ人みたいに見えた。
「忙しかったんだろう」
「
ばさっと髪を跳ねさせ、伊達男が椅子に荷物を下ろした。背中に引っ掛けた白いグローブを解き、鮮やかな模様のナップザックと、色とりどりの服を床に落とした。がたついたテーブルにアクセサリーを置く。服の下には、人を殴るためにできているような背筋と腹筋が描かれていた。
「あんたがロニーさんかい」
センサラックがリングに上がると、両手を合わせてロニーに向けた。
「ロニー・ハスワントだ。会えて光栄だよ、センサラック」
「ソムチャイだ。みんなそう呼んでる」
「そうか。よろしく、ソムチャイ」
ロニーが手を出すと、タイ人も軽く手を出した。
「年を食ってるな」
ソムチャイが俺に視線を移した。
「お前よりも10歳以上な」
俺が付け加えた。はっきりした言い方に少し腹が立ったが、俺も同じ事を言っていたし、ここでかばうのも変な話だ。そうだな、と軽く答えた。
「引退試合か」
ソムチャイは、気を使う態度も見せなかった。
「そうかもしれないし、そうならないかもしれない」
ロニーが口を挟んだ。
「頼まれたんだ、相手くらいしてやるよ。なんかリクエストはあるのか」
ソムチャイは目を細めて深呼吸を繰り返した。
「突っ込んでくれ。ロニーはカウンターだ」
「ふーん」
相手をかみ殺す若獅子の目を向け、真っ白のグラブを叩き合わせた。
「強そうだな」
ロニーが言った。隠しているが、目がおびえていた。
3人でリングに上がった。
「俺はものすごく強いぜ。足を使いな」
ソムチャイがロープに背をあずけて、ロニーを見つめた。
「始めな」
言うなり、ソムチャイが俊敏なフットワークでロニーに迫った。ロニーはファーストヒットをいきなり食らった。
「バカ、やめろ!」
俺がソムチャイを止める。
「手加減していいのか」
ソムチャイが皮肉交じりに笑う。
「いいわけないさ」
ロニーはもう一度構えると、ステップを踏んだ。
「ヤブタのパンチはもっと速い」
ソムチャイの笑いが消えた。
タイ人は脇をしめて腰を落とし、口の端からマウスピースを見せた。
「聞こえるように言ったな」
ソムチャイが前に出た。ジャブが2発、一瞬でロニーの左顔面を捉えた。皮膚を打つ乾いた音がジムを反射した。
ボクシングの技術の1つに、手首のスナップを使え、というものがある。相手に命中するタイミングでひねりを入れて握りを強め、打ったらすぐに引けという意味で、ボクシングをやったことがあれば誰でも教わるテクニックだ。
ところがいざリングに立ってみると、このスナップ・ブロウはなかなか出ない。サンドバッグを叩いていた時に百発百中だった技術が、頭から体からザルを通した水のように流れ落ちてしまうものなのだ。
その技術が当たり前のようにロニーに命中していた。相当な激痛のはずだ。ロニーは続くフックこそブロッキングでガードしたが、明らかに顔が揺れている。すぐに押し込まれだした。
「ボディを打ちな! 左のボディを!」
俺の声に反応したか、ロニーはソムチャイのジャブをしゃがんで避けるダッキングでかわし、反撃を試みたが、ボディストレートは届かなかった。
戦慄するほど高度な防御だった。ロニーのスタンスとモーション、リーチから命中点を推測し、懐を拳一個分だけ動かしてかわしたのだ。流れるように反撃の左のアッパーがロニーの顔を起こした。
「逃げろ、ジャブを打ちながら!」
ソムチャイが前進を止めた。ロニーの後退に追いつかなかったからではなく、それでノックアウトしてしまえば練習にならないからだ。
とてつもないレベルの差だ。
タイ人の恐ろしさを見せつけられた。全ての要素においてロニーや俺より上だ。ほとんどの日本人はボクシングを中学か高校あたりから始める。だがタイ人がムエタイやボクシングを始めるのは6歳くらいからだ。兄弟、隣人、同級生、いたるところの練習相手を蹴散らしトップへ上り詰める才能とは、こういうものなのだ。
2ラウンドやったが、ロニーは結局一度もカウンターを出さなかった。ソムチャイがロープに腕を休めて口をすすいだ。
「もう足が手に追いついてねえぞ」
ソムチャイはまるで疲れていない。
「いいんだ。あいつがやめるって言わないうちは続けてくれ」
「わかったよ」
息をついて、同情交じりにソムチャイが答えた。2人は立ち上がると、もう一度中央でグラブを合わせた。
「ロニー、あいつの言うとおりだ。足だ。疲れても足を使え」
俺のアドバイスに、ロニーは小さく首を縦に振ったが、その先もまるでいいところはなかった。がっちりとガードを固めてはいたが、右は一度も出さなかった。
「よした方がいいな」
ラウンドの途中だったが、身を引いてソムチャイが俺に言った。
痛々しくてロニーを見られなかった。ペットボトルを取り出して2人に渡した。レモンをカットしてやったが、ロニーは吐き気がすると言って、手をつけなかった。
「悪かったな」
ソムチャイに顔を向けた。
「走れ。いい靴を買え。俺に勝てねえのは仕方ねえから、できることをやりな」
ソムチャイは舌の上でレモンを絞ると、ナップザックを担いで出て行った。
ロニーは結局、胃液を戻すような事はなかった。ただ、汗を流しながら椅子の上で息をつき、つぶやいた。
「全然だめだ。悔しいな……」
俺はロニーの肩を叩くと、パンチングミットを取った。
「ロニー、休んだらスパーリングだ。それから走るぜ。海岸まで」
「……わかった」
わざと厳しい声を出したのは、ロニーの辛そうな顔を見たくなかったからだ。それまでのもやっとしていた課題を、ソムチャイが鮮明な重圧へ変えた。スタミナがない。もっと走れというのはわかる。ただそれだけではなかった。気迫の差だ。堂々と打ち合う勢いがなければ、技術など役に立たない。
失敗だ。今はまだ、ソムチャイでは釣り合わない時期だった。
外を見るともう夕方にかかっていた。エルミが来た。
「あれ、なんで落ち込んでんの?」
エルミが椅子にへたり込む俺たちに言った。
「いや、ちょっとハードなトレーニングでよ」
「汗もかいてないじゃない」
なにかとこいつは目ざとくて困る。
「試合だからな。強い奴に来てもらったんだが、強すぎたみてえだ」
脚を組み替えてつぶやいた。
「やっぱりロニーさん試合なんだ」
エルミが俺の目のアザを人差し指で撫でながら言った。
「やるからには強いやつと思ったんだけどな」
エルミの手を払いながら答える。
「あたしが初めて来た日みたいな顔してるよ」
「いつだ、それ」
「1年前じゃない。もうわすれちゃった?」
「ああ……」
*
雨季の終わり、3月の末に、ロニーは2ラウンドで惨敗した。
そのさらに3ヶ月前に、ジョグジャカルタで開かれた8
出てみたらバンドゥン出身の相手はまるで動かない右フックの一発狙いで、ロニーの適当に打ったジャブがぱたぱた当たるのだ。相手は勝手にグロッキーになって6ラウンドで手がなくなり、俺は青コーナーから打ちまくれ打ちまくれと叫んだ。
ロニーは相当に疲れていたが、連打を入れたらすぐにレフェリーが止めた。このひどい泥仕合でロニーはインドネシア3位に上がった。後から聞いたら、相手の選手は肺炎から治った直後で減量にも失敗、フラフラだったらしい。それでもロニーなら勝てると思って試合を組んだのだそうだ。何もかもめちゃくちゃだった。
次の日から依頼が殺到した。このインドネシア3位なら倒せるだろうという算段がメールから透けて見えた。コミッションから、試合をしないなら引退しろと勧告が来て、ロニーは真昼間から開かれたジャカルタの試合へ出場。できるだけ弱そうなのを選んだが、結局話にならないレベルで一方的にやられた。一緒にセコンドについていたトニーというビジネスマンボクサーが2ラウンドでタオルを投げ込み、試合は終わった。
雨の夕方。あんまりな内容に2人で肩を落としてジムに戻った。リングのエプロンに腰かけて、当分試合はやめようとロニーに言った。ロニーも力なく、うんと答えた。
そこでジムのドアが、ぎいっと音を立てた。透明なプラスチックの向こうに、小柄な姿が見えた。
「あのー」
「ん?」
目を向ける。雨の中、色とりどりの傘を閉じながらその少女が入ってきた。
「えーと、何かの支払い日かな?」
ロニーが立ち上がった。少女の長い黒髪は少し濡れていて、来ている緑のシャツもスコールで素肌が透けていた。
「あのー、表に貼ってあるボクシングジムの看板見て来たんですけど」
「あ、そうかい。でも今は休みだよ」
ロニーが愛想よく答えた。ジム自体はこのころから常に休みのようなものだった。
「ボクシング、教えてもらえますか?」
少し怖いけど少し気になるという気持ちを、足して2で割ったような顔だった。
「ん、君が? 家は近いの?」
「はい。女子でもできますか」
「別に試合に出ないなら誰でも。出るならその時相談してくれればいいよ。高校生?」
「はい。7月から高校です」
インドネシアの新学期が7月だというのをその時知った。俺が割って入った。
「悪いんだけど、もうこのジム続けるかどうかもわかんねえし、俺たち2人しかいねえんだ。もっといいところがあると思うぜ」
ところが少女はしっかりした表情で、きっと俺に目を合わせてきた。
「ここがいいんです」
「名前は?」
「エルミです」
意気消沈していたのも忘れ、なんとなく気分も癒された。中に入れるとタオルを渡して、体を温めるためホットミルクを飲ませた。それから簡単にジャブとストレートを打ち込ませてみた。素人だったが運動神経は悪くなく、思い切りも良い。少し練習させればアマチュアの大会くらいは出せそうに見えた。1時間ほど、技術を中心に丁寧に教えてやった。
「どうも。シャワー借りますね」
言うと、エルミがシャワールームに入って汗を流した。厚いカーテンが入っているが、電気を点けると体の線がうっすらと見えるので、2人で視線を不自然にそらして出てくるのを待った。少し気まずかったが、ジャワ人は日に何度も風呂に入るのが普通なので、家で入れというのはさすがに気が引けた。
「ありがとうございます。お金、いくらですか」
エルミがバスタオルで汗を拭きながら、丁寧に聞いてきた。
「ロニー、どうする?」
「いいよ。僕たちも仕事してるんだし、こんなところだしね」
「また来てもいいですか」
「うん。夕方になると、時々近くの中学生が来るんだ。その人たちと一緒に練習するとかでいいかな」
ロニーが姿勢をかがめてエルミに言った。
「ありがとうございます。また来ます」
「雨まだ降ってるな。気をつけて帰れよ」
「はい、ありがとうございます」
なんでこんなところへ友達も連れずに来たのか、まったく事情は見えなかったが、気分転換にはなった。ジムを閉める理由も一つ減った。
*
「あの時エルミが来てなかったら、今試合なんてやる気になってなかったかもしれねえな」
「だったらそんな落ち込んでちゃダメじゃん」
「まあなあ。ただ、なかなかいい相手がな」
「ん? ロニーさんのパートナーってこと? 誰でもいいの?」
「いや、ロニーより重くて、そこそこはテクニックもねえとよ」
「そっかあ」
若い、速い、重い、頑丈な男が3人。いや、最初は俺以外にあと1人でもいい。ソムチャイより頻繁にここへ来られる、目の前の男の闘志を受け止めてくれる奴が欲しい。
しかしその程度であっても、外国人の俺にそんな人脈があるわけがなかった。ロニーも業界との付き合いは多くない。エルミに至っては女子高生だ。論外だとしか思えなかった。
少なくとも、俺の目にはそう映っていた。
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