20. 癒えない病気

 京都駅のスタバに駆け込むと、一番手前の席に進藤がいた。真っ赤な逆立った髪にレザーファッション。俺と同じ年のはずだが、まるで高校生みたいな格好だった。


 俺の顔を見るなり、奴が口の右側だけを上げた。古い銀歯が2本並んでいるのが見えた。


「黒くなったな。インドだかどこだかでよ」


「インドネシアな。矢上さんから何を聞いてんだよ」

「へーへー。そりゃあすんませんね」


 声を出さずに肩だけを揺らして進藤が笑った。


「インドはインドネシアより相当西の国だぞ」

「地図の話よりゲンコツの話をしようぜ」


 進藤が握った拳を突きだした。

 固そうな骨を包む傷だらけの皮膚が、日本にいた頃の記憶をたぐりよせた。渋谷のライブハウスで大立ち回りをやらかして警察に捕まり、そんなに人を殴りたいならボクシングでも空手でもやれ、と言われて入会した頃から、こいつの手はこんなだった。


「お前、足は治ったのか」


「いいや」


 言うと、進藤が目を横へ向けた。こいつに会えた事が驚きで全く目に入っていなかったが、視線の先には畳んだ車椅子が置いてあった。


「残念ながら、あれ抜きは一生無理だとよ。根性出せばそこそこ歩けんだけどな」


「そうか……」

「俺から電話が来て驚いたろ。いつ来ても追い返してたからな」


「まあな。気が変わったのは、女でも捕まえたのか」

「いるかそんなもん」

 進藤がまた声を出さずに肩で笑った。


「ブラインド・ボクシング。知ってるか」

「ん?」


「障碍者ボクシングだ」

 ブラインドボクシング自体は知っていた。俺たちの地元、愛知県で盛んな障碍者競技だ。栄真ジムでボランティア協力をしたこともあった。


「ありゃ盲人がやるもんだぜ。足は関係ねえだろ」

「最後まで聞けよ。あれは対人競技じゃねえ、採点競技なのよ。パンチを受けるトレーナーがいて、場所を知らせたり音を出したりして、当てさせる競技なんだ。

 俺の足でも、そのトレーナーならできる。受けるにしてもめくら柔道と違って、直撃でぶっ飛ばされるって事はまずねえからな」


「視覚障碍者柔道とか言いな。その手の言い方は好きじゃねえんだ」

「頭がおかしいのは脚より前からだ。大目に見ろや」

 進藤は話を止めなかった。


「この前、初めてパートナーと試合に出たんだけどな。最初はあさっての空気をぶんなぐってたやつが、あっと言う間に上手くなってよ。3位に入ったんだぜ。35人の中だぜ。すごくね?」


「いや、見てりゃなんか言えるかもしれねえけどよ。正直全然ピンとこねえな」


「いいんだよ。すげえんだよ。これを始めてから、お前が帰って来るって話を矢上のハゲに聞いてよ。絶対に言いたくてな」


「よくやる気になったな」

「俺もそう思うぜ」


「そんなにボクシングが好きか?」

「お前と同じくらいにはな」


 相変わらずやたらに煽ってくる。そもそもこいつの敗戦のせいで俺はボクシングをやめようと思ったのだ。こいつもよく知っているはずだ。


「やめられねえんだ。やめてえのによ」

 進藤がアイスティーを飲みながら言った。俺は何も答えなかった。

 こいつと栄真に通っていたころの記憶が脈絡なく思い出され、消えていった。こいつと殴りあいながら、日本で一番上手く人を殴れるようになるのだと、それを目指していた。


「彰。お前、何のために生きてる?」 

「なんの?」


「何を面白いと思ってる?」

「別に。普通さ」


「じゃあ酒は飲むか。パチはやってるか。風俗は行くのか?」


「そうしなきゃ普通じゃねえのかよ。大体どれもインドネシアにはろくにねえんだ。イスラームでな。酒もあるけど俺の好きな日本酒が売ってねえ。カジノや風俗は全部闇で、どこにあるのか知らねえ。金もねえしな」


「ちげえよ」

「なにがよ?」


「あったま悪いなあ。考えてみろって。飲む打つ買うは、男なら絶対ハマる奴はいるんだよ。インドネシアだろうがどこだろうが、ねえわけねえんだよ。お前の目に見えてねえんだよ」


「知るかよ。それがどうしたよ」

「お前はどこ行ってもボクシングしか選べねえって言ってんだよ。新人王」


 進藤がもう一度ストローに口をつけた。アイスティーの水面がみるみる下がり、ずずずっと音を立ててコップから色が消えた。

 ふと、日本にいてもインドネシアにいても、縁のある奴がこんな奴しかいないことがおかしくなった。スミトラの言うとおり、縁がボクサーを作るというのはあるだろう。しかしその一方で、ボクサーはこんな縁しか作れないのだとも言えるような気がしてきた。


 ボクシングしか選べないか。まあ、その通りだな。


「頭殴られて足まで動かなくなって、それでも金払ってやってる。どうかしてるぜ。ヤクザのカツアゲだってもう少し優しいよ」

 進藤が笑った。


 気の無い相槌をうちながら、そうかもしれないなと思った。まったくボクシングなんてのは重い病のようなものだ。体に悪い。他人にうつる。そして治らない。


「悪いけどよ、もう一杯持ってきてくれ」

 進藤がグラスを弾いた。何を偉そうにと言おうとしてから、足の事を思い出した。昔話をしていたから、こいつが俺といい勝負だった頃のような気分になっていた。


「アイスティーでいいのか」

「砂糖はいい。レモンのシロップだけ頼む」


 砂糖はいい。

 こいつは20のころからずっとそうだ。酒もやらない、コーヒーも飲まない。どこに行っても紅茶だけ、それも砂糖抜きだ。口調も行動もチンピラまがいのくせに、ところどころを切り取ればまるで出家した坊主のようなところがあった。


 2杯目のアイスティーも、進藤は一瞬で飲みきった。


「ハスワントは勝てそうか。薮田に」

 進藤が聞いた。ロニーの事か。


「勝てる要素はあると思ってる」

「バカじゃねえのか。そんな議員の答弁は聞いてねえんだよ。薮田のアッパーをかわしてぶちのめせるかって言ってんだ」


「お前だってあいつと練習したことはあるだろうが」

「勝てねえと」


「そうは言ってねえ」

「勝つと」


「もういいよ。そうさ。あいつは勝つ。あいつはアリになるんだよ」


「どっからカシアス・クレイが出てきたんだよ。キンシャサの奇跡狙いか? 試合してねえのはハスワントじゃなくてお前じゃねえか」

 進藤が笑い飛ばした。いつだったか、俺がヨーギに言ったのと同じようなセリフだった。


「アリってのは、虫のアリのことだ。インドネシアではな、アリがゾウを倒せるっていう言い方があるんだよ。ロニーだって薮田を倒せる。倒せるように練習してきた」


「そいつを聞きたかった」

 進藤が笑った。


「薮田はいいボクサーさ。それにいい奴だ。あれだけマスゴミに担がれてもうぬぼれてねえし、プレッシャーにも潰されてねえ。上等なプロだよ。ただ、どんなのが相手だろうが、胸を借りるだのなんだのと、負けたときの言い訳を用意してる奴はダメだ。勝つ気で殴り倒しに行かなきゃいけねえ」


「そりゃそうだな」


「お前が何をしに戻ったかはわかったよ。もう十分だ」

 進藤が車椅子を引き寄せた。


「押すか」

「いや、今の車椅子は出来がいいからな。それに今日は拝み倒して、親と姉貴にも来てもらってんだ。今は買い物中だ」


「……そうか」

 こいつに家族という単語はとことん似合わなかったが、この足で生きるというのはそういうことなんだろう。


「もう帰んな。インドネシア人が待ってるんだろう。今日は腹一杯食わねえとならねえしな」


「進藤」

「はん?」


「ありがとうよ」

「俺は俺の都合で呼びつけただけだ」

 進藤が目をそらして答えた。


「いいんだ。会えてよかったよ」

「相変わらずお人好しってツラだな」


 進藤がすっと手を出した。思わずその手を握り返した。

 何のつもりか、進藤はぐっと力を込めてきた。にやりとまた2本の銀歯を見せてくる。なにかと煽らないと気がすまないのか。

 負けじと握り返した。力強い進藤の手は、こいつが日本チャンピオンに挑戦した頃から全く衰えていなかった。


 10秒も力を込めると、進藤が手を離して目を細め、最後だけは皮肉を消した笑顔を見せた。


「まだボクサーの手だ」

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