25. 切れない切り札

 ゴングが鳴った。3ラウンドでロニーは何度も右を振った。右のフックもストレートも使えた。大きなプレッシャーを与えられたはずだ。


 だが……


「ここからがきつくなる」

 スミトラが言った。


 ラウンドが進めば進むほど、選手は作戦ではなく、その素地だけで戦うようになっていく。複雑な作戦はここまでが限界だ。薮田はフリッカーを嫌って再び接近戦を挑んでくる。その時、始めのラウンドと同じように迎え撃つことができるか。


 難しいだろう。

 ここで終わってくれれば有難いが、そんな雑な競技はやっていない。10ラウンドまで危なげなく戦い切って、初めてボクシングなのだ。


 幸い、いつも通りロニーはラウンドが進むにつれて気負いがなくなり、集中力が上がってきている。スロースターターのこいつが右カウンターを使えるのは、やはり4ラウンド前後だ。


「すばらしいラウンドだった」

 スミトラが言うと、ロニーがぐっと口の端を持ち上げた。


「次からはいよいよ右だ。腕ずくで来る時がある。そこを狙え」

 盗み見るようにロニーの右脇を見たが、特ににじんだりはしていないようだ。


 4ラウンド目が始まった。薮田も懲りたのか、この回は頭から飛び出した。ロニーのスタイルを崩そうと、それまで控えていた左からのコンビネーションを組み込んでいた。


 やはり薮田は、作られたイメージとは違う選手だ。俺たちがロニーとやってきたのと同じレベルのことを、いや、それ以上のことをやってきている。ラウンドは黙々と進んでいった。1分を切るとロニーの足がもつれはじめた。


 薮田の攻撃パターンは6種類程度に絞っていたが、この左ストレートから入るパターンは含まれていなかった。この試合に向けて古い手を捨てて新手を身につけて来たのだ。いつもとリズムの違う動きで、ロニーの動作に無駄が増え、消耗が早まっている。


 残り30秒。そこで薮田がついにしかけてきた。ロングの左をついて距離を潰し、一気にラッシュをかけた。ロニーは左右連続で突き続けて下がったが、ついに右がロニーの額をかすった。直後に薮田の全身がスピードを上げた。機関銃を思わせる左右がロニーへ襲いかかった。


 まずい、そのスピードのラッシュがあるのか!


 ブロックが破られる。このスピードだと、カウンターを狙うのは無理だ。俺よりもソムチャイよりも速い!


「頭振れ! 回れ回れ!」

 リングのエプロンを殴りながら叫んだ。


 パリーとサークリングをたくみに使ってはいたが、明らかにロニーは押され始めた。このままコーナーに詰められて完全に膠着したらレフェリーストップまである。


「ハイガード左へステップイン、左を使って逃げろ! 逃げろ! 逃げるんだ!」

 スミトラが怒鳴った。この男の大声を初めて聞いた。


「固まるんじゃねえ、暴れろ! あと少しだ、動け!」

 拍子木の音をかき消すような大声でソムチャイが叫んだ。ゴングか、止められるのが先か。


 フィリピン人のレフェリーはじっと薮田のラッシュを見て、止めるべきかを考えている。ロニーはジャブを連打し奇跡的にコーナーから脱出した。薮田が追いに回ったとき、ようやくゴングが鳴った。


 重い空気が俺たちを取り巻いた。

 ラウンドがゴングの向こうに吸い込まれていく。待望の右カウンターは出なかったのだ。


 *


 この試合は王座戦でもないのに公開採点がある。1と3がロニー、2と4が薮田という予想は合っていたが、人員一致ではなかった。何を考えているのか、4ラウンドでフィリピンが10-8で薮田につけた。


 ラウンドマストを採用する今のボクシングは、基本的には各ラウンドで各審判が10-9をつけるが、片方にダウンやそれに匹敵する劣勢があれば10-8がつく。まだ日本とインドネシアの2人はドローと見ているが、このまま進むとその差は開き続けるだろう。


 ロニーを椅子にかけさせ、軽くうがいをさせてやった。ダメージそのものは無いように見えるが、問題は内容だ。


 スミトラは明らかに作戦ミスを感じている。肌でそれが伝わってきた。全員が右を出すなら4ラウンド目を考えていた。これまでのロニーの動きを見て、それが妥当だということになっていたのだ。


 だが、俺たちが決めたのは集中力が高まった時に右カウンターで行くということで、出なかったらどうやって立て直すとか、もっと言えば出なくても勝てるのかとか、そういう相談はしてきていない。


 ロニーはどう考えているのだろう。

 奴はじっと薮田を見つめていたが、意気を失っているのか、それとも次で右を出そうとしているのかはわからない。そんな考えをめぐらせていると、俺はそもそもこの男のことなんて何もわかっていないんじゃないか、という気にすらなった。


 迷うなと言えば、迷っていないと言うかもしれない。その調子だと言っても、この調子では駄目だと思っているかもしれない。それでも何も言わないわけにはいかなかった。

 

「距離の取り方は変えるな。当てて左に動け。奴がそれを追ってきた時を狙え」

「わかった」


 洗ったマウスピースを奴の口に押し当てる。セコンドに下がれと指示が出る。ゴングが鳴った。それまでほとんど気にならなかった、実況の声が耳に飛び込んできた。


「さあ5ラウンドです。いやあ序盤はハスワント行きましたが、ここでやはり高齢の悲しさか、少し疲れが見えてきましたかねえ」


「そうですね。これまで両者かなり動いていますから、薮田、ハスワント、共に体力勝負となってきてますねえ」


 薮田は細かい作戦を控えて正攻法に戻していた。ガゼルパンチと呼ばれる右ジャブで飛び込み、そこから絶え間なく左の連打、そこから右のアッパーまで狙うという戦法を選んでいる。


「ああ、これは行けますよ」

「この形に入ると薮田強いですからね」


 解説の声がやたらとかんさわった。死んでしまえばいいと思った。


「ハスワント選手、デトロイトには構えません」


「そうですね。薮田の攻撃が右のジャブで深く飛び込む動きに変わりましたし、これまでのラウンドよりも積極的に動こうとしていますね。フリッカーでは抑えられないと見たようですね」


「はいハスワント熟練のテクニックでかわしていますが、ここから何か打開策がないと、きついかもしれません」


 そのとおりだ。薮田の右はロニーの左より速い。これが薮田のセコンドの判断だとしたら、実に適切な指示だ。


 ソムチャイとやったときも、スタミナが切れてきてからのロニーは、右ジャブに押しまくられた。そしてその具体的な対策は無い。せいぜい相手の横に回って、こちらもできるだけジャブを出すというくらいだ。


「このまま回りながら狙うのはきついぞ」

 ソムチャイが両手を握り締めてつぶやいた。


「やむをえんな。ロニー、右は出すな! このラウンドで回復しろ!」

 スミトラが声を出した。


「なっ?」

 俺が思わず横を向いた。


「残念だが右は出せん」

 スミトラが断言した。


「右がなきゃ勝てねえ」

 俺が訴えた。


「集中力を欠いているし、踏みとどまる力が出ていない。出すなら次だ」


「くそっ。かもな。足がもつれちまってる。今は手が出せねえよ……危なくなってきたぜ」

 ソムチャイがロニーの両足を見つめて言った。


 5ラウンドが終わり、戻ってくるロニーの顔には明らかな痣が目立ってきた。


 このラウンドも取られたと考えていい。

 薮田の逆転だ。ここで踏みとどまらなければ、判定の勝ちは絶望的になる。


「ロニー、私が見えるか」

 老スミトラがロニーの両頬を押さえた。ロニーは声を出さなかったが、厚く腫れたまぶたの向こうから目で答えた。


「ロニー……」

 俺が不安そうに試合を見守った。


 そこで突然、後ろから女の声が響いた。


「彰!」

 弓子だ。

 泣き出しそうな顔で後ろの空いていた席に掛ける。なぜか携帯電話を握り締めていた。


「お前、来てたのか」

「最初からいたよ! ずっと見てたよ!」

 弓子が携帯を俺に投げつけた。


「何を?」

 携帯を耳に当てる。受話器から、聞きなれた国の言葉が聞こえた。ハンズフリーに切り替えた。


「ロニーさん! がんばって!」

「いい試合だぞ! ここからだ!」

「みんなテレビみてるんだぞ! ロニー、ジャディラ・アリ!」


 ジムの奴らだ。仲間の声だ。エルミの、ヨーギの、数え切れないガキ共の声だ。


「ロニーさん、がんばって!」

 弓子が両手を握り締めて叫んだ。


「アキラ」

 ロニーがつぶやいた。


「はん?」

 目を閉じて上に顔を向けるロニーの顔に、安堵が浮かんでいた。奴が小さく唇をゆがめた。


「海と太陽が見えるよ。君と走ったアンチョールの海岸だ」

 思わず笑った。ロニーもふふっと片目を開けて笑った。


「まだやれるぜ」

 俺が言う。ロニーが、天井に向けた顔を正面に戻した。

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