21. 敵地への進軍
試合当日の朝は、全員が予定していた30分前に目が覚めた。スミトラと俺で台所を借り、あらかじめ送っておいた食材を料理してたっぷり食わせた。十分に休みを取ってから、午後、プレマシーに乗り込みハンドルを握った。弓子は用事があるといって見送りには来なかった。
静かな時間だった。思っていたよりも車は少なく、会場の前についてから、ようやく人混みが見えた。昨日、進藤に会ってから、不思議と気持ちは落ち着いていた。不安は消えていなかったが、過去、何度も観戦し出場したボクシングに今日も行くのだという気分にはなっていた。
報道はほとんどが薮田に殺到していたが、俺たちが到着のときにも、ばらばらと何人かが集まってきた。
「ロニー・ハスワント選手の到着です。インドネシアのテロ事件は、みなさんご存知かと思います。
ハスワントはこの事件のため、ジャカルタから同じくインドネシアのスラウェシ島へ向かい、そこからシンガポール経由で到着しました。
試合から逃げず、堂々と姿を見せたのです……」
戦うときが来たのだ。怪我のことも弓子の話も、今は忘れるしかない。進藤のいう通り、俺たちにはボクシングしかない。もうそれを貫くだけだ。
こういう時には、いつもソムチャイを見た。21歳の青年は犬歯をむき出してこの試合へ集中している。弱気を押し殺してドアを開けた。
ソムチャイが小うるさい連中をにらみつけながら先頭に立った。その後ろにロニーが続く。フードのついたパーカーを着て、肩を揺らしてジャブを軽く突き出しながら、アスファルトを踏みしめていった。
「先頭を歩くのはスパーリングパートナーでしょうか。鮮やかな服を身にまとっています……」
言いかけて、そのレポーターが目を開いた。同時に、周囲の野次馬がぐっと身を乗り出した。
「おい、あれ『タイの火』だぜ」
「センサラック・スィーブワーロイだよ……」
ざわっ、と、周囲が色めきだった。だがソムチャイが鋭く周囲を見回すと、カメラを抱えた集団はびくっと射すくめられたように下がった。
「ハスワント選手は黙々と歩いております。集中するためでしょうか。どこか不気味な雰囲気を漂わせております。テロの影響は少ないかと思われます……」
続いてスミトラがドアを開けた。
「続きましてチーフセコンド、かつてのインドネシア国内チャンピオン、スミトラ氏が姿を見せました。地元ではインドネシアの伝統国技である、シラットでも名を知られています。今車から降りました……」
野次馬たちが再びざわめきだす。俺は最後に車を降りた。
「そして、さらにかつての栄真ジム所属。スーパーフェザー級新人王、梧桐彰が降り立ちました。かつての自分のホームを相手に、どのような戦術をハスワントに授けたのか。気になるところです」
一人、マイクを持った男が、俺のそばに近寄ってきた。
「テロ騒ぎで、来日が遅れると言われていましたが……」
俺は前を向いたまま答えなかった。
「一説によるとですね、ハスワント選手と薮田選手との間にはなにかしらの取引があって……」
「うるせえよ」
「いや、しかしですね……」
「俺はうるせえって言ったんだ」
記者だかなんだか知らないそいつは、渋った顔で引っ込んだ。
裏手から係の誘導で入った。真っ白な壁が囲む控え室は、葬式のように静かだった。冷房がろくに効いてもいないのに、うなり声のような、気持ちの悪い機械音が響いていた。
ロニーの膝が小刻みに震え始めた。あらゆる競技者がかかる病気だ。この瞬間だけは、どんな人間でもこうなる。それにロニーにとっては長いブランクの後の試合だ。
チャンドラジムを思い出した。あのむき出しの床とぼろぼろの天井が懐かしかった。美しい太平洋を見ながら過ごした日々が心の中を駆けた。エルミやヨーギや、この会場まで来られない連中の応援が聞こえてきた。
『ロニーさん、がんばってるね』
『ロニーさん、見違えたね』
そう言ってくれた仲間たちは、今は何千キロも離れた場所にいる。
俺はベンチにかけるロニーの正面に立って、肩を叩いて言った。
「ロニー、心配するな。ゴングが鳴る。飛び出す。適当に逃げて、目が慣れて来たら右カウンター。それで終わりだ」
ロニーが小さく首を縦に振った。
こいつと過ごしてきた3年間が、嘘のように短く思えた。怖くてロニーの顔を見ることができなかった。息が止まりそうな程に辛い時間だった。
「アキラ」
ロニーが、微笑して声を出した。
「ああ」
と、俺が答えた。できるだけ冷静な声をだそうとしたが、それでも上ずっていた。
「君と一緒に考えたことだ。全部覚えてるよ」
ロニーの膝を見た。震えはまだ続いていた。
前座の試合は驚くほどつまらなかった。消極的な試合にブーイングが飛びかい、レフェリーも打ち合いをうながす顔が不機嫌そうだった。モニターから目を離したころ。スミトラとロニーは西への礼拝を終え、向かい合ってパイプ椅子に座りなおした。
老スミトラが、まずは右脇の傷を見た。俺とソムチャイは目をそらしてまたモニターへ目を向けたが、確かに
老スミトラはロニーの額に手を当て、もう一度ワセリンを手に取り、それを顔と体に半紙のように薄く丁寧に塗り上げた。
コミッションの係員というフィリピン人が来た。俺が試合用のテーピングと包帯を渡すと、すぐに笑顔で返して来た。スミトラがそれを両手で受け取り、ピッと剥がした。真新しい真っ白な布へ向けて、ロニーが手を差し出した。
「
この五体に慈悲深きアッラーの護りあらんことを」
聖句を唱えながらテーピングを手に取り、素早い動きでロニーの手を固定する。さらに医療用の包帯を重ね、均質に面を取ったサイコロのように拳を仕上げていった。恐れも迷いも何するものぞという、いつも通りのスミトラの態度が頼もしかった。
「しっかり握れそうかね」
「完璧です」
ロニーの震えを抑えた声が控え室に響いた。
「オーケーです。では、時間まで」
時計を指差してゆっくりとした英語でそう伝え、フィリピン人が隅のパイプ椅子に掛けた。
「私には自信がある。うまく言えないが、君が勝つ確信がある。相手の右に左を重ねていけ」
「はい」
「自分のリズムを大事に、今までのことをそのままやれ。ジャディラ・アリとはそういうことだ」
「はい」
シューズの紐をガッチリと結び、ファウルカップやらをつけて、ロニーがアップを始めた。俺が構えたミットに向けて、ロニーは全てのパンチを正確に中央めがけて叩き込んだ。
控え室のモニターで前座の判定結果が映っていた。少したって、ドアが開いた。
「ハスワント選手、時間です!」
スポンサーの青いTシャツを着た男が、甲高い声でロニーを呼んだ。
「行くよ」
ロニーが練習用のグローブをカバンに投げ捨て、一言だけ答えた。止血の綿棒と血液凝固剤をまとめて、その後に続いた。
長い廊下だった。
ギラギラとわざとらしくリングだけを狙って落ちるスポットライトが、遠くに光っている。
一歩。
一歩。
弓子の作ってくれたやたら派手なガウンに身を包み、ロニーは静かにリノリウムを踏みしめていった。
ジャディラ・アリ。
ジャディラ・アリ。
ロニーの背を飛翔する金色のガルーダに、何度も同じ言葉を投げかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます