22. 盤面の上の駒

 ざわついた会場の中から、リングアナウンサーがスポットライトの下へ上がっていった。なにを言っているのか、ほとんど聞き取れなかった。最後の大声だけが俺の耳に届いた。


「ロニー・ハスワント選手の入場です!」


 控えめな歓声が上がった。ロニーは小刻みに歩を進めた。白地に赤の斜線をあしらったガウンの中から、ロニーが穏やかな顔で右手を上げた。


 薮田は格上が後から入場するという慣例を破って、まるでアメリカの試合のように、既にリングの上に待ち構えていた。

 誰もがリング上の薮田に目を向けており、ほとんどこちらを注目している様子はなかった。観衆は誰もこいつの実力を知らないのだ。


 アナウンスが何かをひっきりなしにしゃべり続けていたが、また響きすぎてよく聞こえなくなった。天井の照明が、やけにまぶしいと思った。こんな大きな箱での試合は、俺たちは誰も経験したことがない。だが不思議と、4人とも場の空気に呑まれてはいなかった。


 ロニーが滑り止めに使うロージンの箱に足を突っ込み、のそりとリングへあがった。灰色の足跡が一歩だけついた。


「下がりながら左を当てていく。今はそれだけ考えればいい」


 真っ青なキャンバスの中で、老スミトラが最後の指示を与えた。ロニーは両手のグラブを合わせて、それにうなずいた。


 薮田を見た。黙々とシャドーを続ける男の体は完璧に調整されている。ただ、その真剣さはどこか無理をしているようで、自分の中の雑念を振り切るために必死なだけのようにも見えた。


 負けてしまえば全てを失うというプレッシャーを、わざと自分に課しているのだろう。この男はボクシングを楽しんではいない。ただ、それ以外に何もないだけなのだ。痛々しいほどにそれが伝わってきた。


「メインエベント、フェザー級10回戦を行います、赤コーナー……」


 真っ白のタキシードに身をつつんだアナウンサーがベラベラと変なイントネーションをつけて口上を始めた。戦績やら経歴やら、この一瞬と何も関係のない日本語だけの説明に、いちいち拍手や歓声が飛び交った。ここは敵地なのだ。


 リングの中央に2人が向かう。フィリピン人のレフェリーがゆっくりとした英語で反則やらの説明をしたが、薮田もロニーもそちらには目を向けなかった。だが、テレビ映えするような因縁をぶつけ合うという感じもなく、どちらかといえば、お互いに『あの動画で見ていたのは、こういう風貌の人間だったのか』と観察をしているようにも見えた。


 ロニーがコーナーに戻り、セコンドアウトがかかった。リングを降りる時も、ロニーから目を離すことができなかった。


 俺の肩に、ソムチャイが手を当てた。


「そんな顔はやめな。あいつはよくやってきた。右脇も気にするな」

 俺の視線を追ったのか、タイ人がするどく俺をにらみ、弱気を消し飛ばす勢いで俺の両肩をがっしり捕まえて言った。

 ソムチャイの顔を見た。


「信じてねえのか、アキラ。ええ? あれだけ一緒にいたロニーを信じられねえのか」


「いや、そんな事はねえ」

 言い返した。


「じゃあ目を上げろ。あいつを見ろ」

 言われて、リングに目を向けた。その目がロニーと一度だけあった。穏やかな表情が、小さく笑顔を向けていた。すっと、肩の力が抜けていくように感じた。


 リングを降りる。はるかな高い場所に、二人が向かい合っていた。レフェリーが二人をニュートラルコーナーへ戻した。


 始まるまでは、本当にアリとゾウほどの差を感じていた。だが、今の2人に全く差はないように見えた。同じ体重。同じグラブ。同じ闘志。競わなければ、どちらか強いかはわからない。


 ライトが一際強くなった。あとわずかでゴングが鳴る。鮮やかに照らされた2人の違いは肌の色だけだった。対照的な白い肌と黒い肌は、まるでチェスの駒のように見えた。先手を取る白と、反撃を狙う黒の勝負だ。それは奇しくも2人のファイトスタイルを反映していた。


 ロニー・ハスワントは両手を高く、オーソドックスに構えてステップを踏んだ。いつもと同じようにゆったりと、そしてかすかに顎を引いて、相手を見つめていた。

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