4章 白光の下で
23. 研鑽の報酬
真鍮の音が高く響いた。
空気がそれまでと全く異質になり、キャンパスの上に立つ二つの姿だけが、この世界を支配した。薮田は両手をこめかみの横につけるピーカーブでがっちりとガードを固め、頭を揺らしながらリングの中央へ向かった。ロニーはニュートラルコーナーから少し出ただけで、間合いに入らなかった。ロニーの魂の底に潜めていた闘志が本当にリングの中央へ向かっているのか、今はまだわからなかった。
薮田が鋭い初弾をロニーの額へ向けて打ち込んだ。ロニーはサイドステップでそれをかわし、サークリングで薮田の側面に回った。
歯をぎらつかせる獣のように、薮田がロニーへ近づいた。ロニーは手を出さない。わずかにジャブを出すような姿勢を見せたが、すぐに高めのオーソドックスに姿勢を戻した。薮田がリングの中央を取った。前に出る薮田を、ロニーは左で慎重に牽制しながらレンジの外で戦った。
薮田が歓声を会場から受け取り、気合を入れ直したように見えた。ロニーは左手をぐっと伸ばしながら、薮田を牽制した。
「まずいな」
俺がつぶやいたが、ソムチャイがすぐに言い返した。
「あれでいい。疲れさせるんだろ」
「右をかばってるんじゃねえか」
「あいつはいつもあんな感じだ」
もう一度藪田が動いたが、ロニーは強襲にひるまなかった。薮田のフックに冷静に左ジャブを返した。やがてロニーの左は変化が加わり、正面だけではなく、薮田の顔をさまざまな角度から打ち込んでいった。
薮田は全ての打撃にブロッキングで応戦し、隙あらば強烈な左フックを返した。俺の記憶にある薮田よりもかなり速かった。
「ロニー、自分から行くな。今は相手を見るんだ」
スミトラが初めて指示を出した。ロニーは高いガードを戻しながら、ステップで自分の間合いを取った。
薮田が突っ込んできた。鋭い右のジャブから飛び込み、そこから左右のフックで攻める昔からの手段だ。
薮田がこの手で様子を見て、ロニーの実力を測りに来るのはわかっていた。ソムチャイとさんざん対策してきたパターンだ。練習どおりに、ロニーは左のジャブを突き伸ばしながら後退した。ロープ際まで詰められたら今度はガードを固めて抱きつき、審判の声がかかるまでは決して動かなかった。
「ブレイク!」
初めてレフェリーが割って入った。
「それでいい」
スミトラが言った。ロニーが薮田を見たまま小さくうなずいた。
いい展開だ。
薮田が持っていた最初の勢いを完全にそいでいる。薮田のすべての攻撃に、確実な応戦ができた。
再開する。ロニーがステップを細かく踏み、薮田が足を引く動きを読んで距離を潰す。だが薮田が慌てて応戦しようと前に出るよりも早く、ロニーはジャブを飛ばしながら横へ移動してしまう。
考えている事は何もかもが伝わっているぞと、ロニーの全身が叫んでいた。薮田が使い込んできたコンピュータにウィルスを仕込む事ができたのだ。読みが深いだけではない。相手が読んだ思考を混乱させる事までできる。俺もソムチャイも、試合が近づけば近づくほど、ロニーの巧みなディフェンスにてこずったものだが、それはロニーのスピードやスタミナのためにではない。心を読み通し、相手の出したい手をつぶし、相手が出されたくない手を出すという巧さだ。
レフェリーの手が交差し、再び二人が前に進んだ。
次も、さっきと全く同じ展開だった。
ロニーは落ち着いて相手の重心を読み取り、薮田の動きを全て不発に終わらせた。ロニーの感覚が、すでにわずかなリーチの差を把握できていた。ロニーの左ジャブが命中し始めた。変化のある左に薮田は攻めあぐね、ロープまで圧力で追い詰めてもロニーのクリンチに防がれ、ほとんど命中していなかった。
ソムチャイが薮田を見つめながらつぶやいた。
「あいつ、思ったより出入りが遅いな。立ち上がりが悪いのか?」
「いや、そんなことはないんだがな……」
少し間を置いて、ソムチャイが続けた。
「逆だな」
「なに?」
「ヤブタは動画で見た通りだ。変わったのはロニーの方だ」
薮田は力強くジャブを繰り出していたが、ロニーはそれを危なげなく制していた。さらに鋭く出した左の体重を乗せたジャブが、薮田の顔を正面から捕らえて起こした。
信じられないという表情だ。薮田の自信が崩れていくのが、俺の目にもわかった。
ロニーの左はさらに突進する薮田の額に打ち込まれ、接近を阻み続けた。かすかに外側からアゴへ抜ける、ブロックしていても確実に脳を揺らすパンチだ。しかも拳を痛めないよう、強さも抑えられている。
「体軸がぐらついてねえ。いい滑り出しだ。予想よりずっと上等だ」
ソムチャイが言った。
薮田はそれまでの突進をやめて出方を伺ってきた。ロニーは冷静だった。薮田が動かないと見ると、左を目いっぱいに伸ばして牽制し、軽い空振りを繰り返した。
この時点で薮田は打たれすぎている。ジャッジは日本、フィリピン、インドネシア。おそらく日本は薮田好みの威力を取る審判だろうが、それでもこのラウンドはまずロニーにつけるだろう。
十分に戦えている。ロニーの技術がある限り、いくらでも行けそうに見える。ジャディラ・アリ。拳を重ねろ。タイミングを合わせろ。
「ずいぶん静かだな。日本の観客はこんなものなのか?」
スミトラがつぶやいたが、そんなことはない。度肝を抜かれているのだ。この会場に集まった奴らは、こんな展開を考えてもいなかったのだろう。
1ラウンドを終えるゴングが響いた。
ロニーは汗に包まれた褐色の体をこちらに向け、左腕を振り上げて爽快な笑顔を見せた。どんなジャッジでも10-9をつける3分だった。
盗むように薮田を見た。忌々しそうに口をゆがめている。努力は無駄ではなかったのだ。
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