28. 拳闘の本質
これは偶然じゃない。計略だ。
ロニーの練りに練った罠だ。
俺の立てた作戦は薮田には読まれていた。
俺がロニーにレバー打ちをアドバイスするとわかっていた。
だからロニーがレバー打ちに来たとき、薮田は全力をかけてきた。薮田の作戦は『俺が伝授するはずのレバー打ち』を破ることだったはずだ。
奴は見事に俺をはめた。俺の裏をかいた。だが、その予測の命中は、それ以上の慢心を招いていた。
薮田は自信満々、必倒の意気で右フックを打ちにいった。それはこの試合で唯一、慎重な薮田が自分にうぬぼれきった瞬間だった。奴の表情がはっきり語っていた。
『あの強烈な右は出ない。予定通りレバー打ちが来た。俺の右フックを合わせられる!』
しかしそれはロニーが作った巧妙な仕掛けだった。薮田はその中に迷い込んでいるだけだったのだ。ロニーはリングの上で、声を出さずに叫び続け、薮田の洗脳に成功していた。
おそらく俺がレバーで行けと指示をした直後に、ロニーはこの作戦に決めたのだろう。それは俺もソムチャイもスミトラも、誰もが思い描けなかった勝利への最後のルートだった。
はっと、頭の中で電流が走るように繋がっていく感覚があった。このやり方。この、相手が望んでいたパンチを軽く出して、相手がひっかかったところで、次の手でとどめをさすやり方は。
そうだ。これは、俺のボクシングだ……
裏をかいて仕留めようとする敵に対し、自らはさらにその裏をかく。ボクシングの真髄はそこにある。
3ヶ月前を思い出した。あの、背筋が凍りつくような驚愕を感じた。ロニーの深いまなざしが薮田を貫いていた。薮田が繰り出した2発目の右フックをふわりと避け、ロニーの振り上げたフリッカーが鋭く薮田の顔を起こす。薮田がまさかという表情を隠して左フックを振り回した直後、鋭い呼吸と同時に右カウンターが入った。薮田の首がガクッと揺れた。明らかなダメージを示す動きだ。観客の悲鳴。その中をさらに実況の大声が突き抜けた。
「ロープから飛んできた青いグローブのカウンターが飛んできた! だが薮田まだ崩れないぞ命中しても踏みとどまった引かない薮田引かない右を返す薮田倒れない!」
薮田がよろけながら右ジャブを打ちかえした。だが、その時はすでに何もかもにけりがついていた。
薮田は勝利の幻影に酔いしれていた。ロニーは勝利にしがみついていた。二人の違いはたったそれだけだ。しかしそれはこの瞬間には埋まることのない、遠い、遠い隔たりだった。
ロニーはジャブを滑らせながら避け、流れるように左フックのダブルブローを打ち込んだ。追いかけるように甲高い早口が耳を揺さぶった。
「薮田ジャブ返した外れたハスワント老獪なスリッピングからテンプルへダブル、ものすごい読み! 踏ん張れ薮田これで終わるな!」
薮田が揺れる頭を振り回して右アッパーを返そうとした。汗を振りまくその顔は、まるで、カウンターを打ってくれと叫んでいるように見えた。
『僕は、君のボクシングの真似をしていただけだ』
ロニーの腰が敏捷に回転した。完璧な位置から繰り出す、完璧なタイミングの右カウンターだ。
チャンドラジムで。
あの裸電球の下で。
右カウンターが。
蟻の一撃が。
象を。
「薮田アッパーしかしハスワント動いた前に! カウンター! またもカウンター! 赤道からの右カウンター! 薮田耐えろ! 耐えろ! 崩れた! 前に! 前に!」
その右は、まるで棚に置いてある調味入れを取るように、軽く、無造作に薮田の顎を打ち抜いていた。奴の意識が完全に飛んだ。目の動きでそれがはっきりと読み取れた。浅く膝を曲げたまま薮田が倒れていく。それはボクシングに関わる奴なら、誰もが一度は見たことのある倒れ方だった。
全身の汗腺から、経験の無い量の汗が噴きだしていた。ボクシングを始めたのが15歳の時。それからの年月の中で、最も印象的な光景だった。
今起きていることが現実なのか、誰かに聞きたくて仕方がなかった。とてつもなくおめでたい夢を見ていて、今にもそこから覚めるのではないかと、気が気でならなかった。
心臓がものすごい音を立てていた。脳からわけのわからない物質がどくどくと流れ出していた。初めてグローブをつけたときよりも。初めて試合に勝ったときよりも。新人王になって、浴びるほど酒を飲んだときよりも。これから先、どう生きてなにを得てなにを失おうが、この光景だけは脳裏から消えることはないだろう。
観客の声は悲鳴だった。あらゆるガラクタが宙を舞っていた。実況が同じ言葉を繰り返していた。全身を叩き続ける絶叫を、俺はバカのように受け止めていた。
「ダウン! ダウンです! ダウン! ダウン! ダウン! ハスワントの巧みな攻撃でダウン!」
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