エピローグ
「もう1ラウンドできるか?」
俺が聞いたが、すぐに男が首を振った。
「もうやめようよ。明日から仕事だし」
俺は以前と同じように小さく肩を回し、汚れたグローブで頭を掻いた。
リングを降りると、フィロのフォームを直して、ママンのミットを受けてやる。そして近所の子供たちと一緒に外へ出る。
日差しがまぶしかった。秋になろうが冬になろうが、ここはジャカルタなのだ。
「よし、じゃあ海岸まで走るぜ」
「おーう!」
子供たちの数は、今ではもう20人を越えていた。
チャンドラ・ボクシングジムは盛況だった。この前、練習生の名簿を作ったら、ぴったり100人になっていた。
ロニー・ハスワントのボクシングを習おうと、ジャカルタ中から人が集まっていた。本物のボクシングを習いに。フィリピンやタイの模倣ではない、インドネシアのボクシングを習いにだ。
あの対戦から、数ヶ月がすぎていた。あの時間を共にすごした連中はそれぞれの場所へ帰り、それぞれの道で活躍していた。
ソムチャイはライト級の世界王者に挑戦し、すさまじい乱打戦の末、大差の判定で勝利した。今ではWBAの世界チャンピオンだ。連絡はほとんど取っていなかったが、1個だけ小包が来た。真っ白な12オンスに、マジックでタイの文字が書いてあった。タイ語を読めるジム生の話だと、これは『チャイ・スー』と書いてあって、『戦う心』という意味なのだそうだ。ロニーは毎日そのグラブを使っているが、俺にぼこぼこやられている。あの時の『戦う心』はどこへ行ったのか、不思議でしょうがない。
スミトラはシラットの指導に戻っていたが、ボクシングコミッションでも理事を務めることになった。インドネシアボクシングのイメージを払拭しようと、盛んに活動を続けている。インドネシアでは相変わらず総合格闘技やらキックやらのほうが盛んだが、スミトラの功績か、ボクシングへ転向するものも徐々に増えているようだ。チャンドラジムにも、彼の紹介だと言う奴が何人も来た。総合やキックから来た、パンチの技術を習いたいという奴もいた。
ヨーギから聞いた話だが、空港でロニーを襲ったラハイル・ワッハーブはテロ計画の加担で無期懲役が決まり、ロニーの家族に当たる人物も組織的な摘発により活動は妨げられたということだった。これはロニーには言わない事にした。代わりに以前チャンドラのオーナーだったムシャラム・アハメットが深夜にロニーを訪問し、もう何も心配するな、という一言だけを告げて去った。それだけでロニーには十分だった。アチェで育ち、故郷を捨てたハッサン・アブドゥルという男は、もうどこにもいないのだ。
ロニーと対戦した薮田一輝は階級を上げて王座を目指した。マスコミは彼を見放したが、ボクシングは彼を見放しはしなかった。公開スパーリングのビデオを見たが、オールレンジのいいファイトをするようになっていた。つい最近、上の階級でまた東洋太平洋の一位になったそうだ。
京都で会った進藤からもジムへ電話が来た。驚いたことに、車椅子で試合を見ていたのだそうだ。
「お前がラウンドのたびにそわそわそわそわしてんのが最高に笑えたぜ」
「うっせえ、もうかけてくんな!」
大学生の2人組み、フィロとママンは学生ボクシング大会を勝ち抜き、アマチュアの国内大会で優勝を目指している。2人の成長を見守るのは、それはそれで新しい楽しみだった。
弓子も時々やってきてはジムのユニフォームを作ってくれた。人出が足りないこっちとしては大助かりだ。そして、野暮と思って聞いてはいないが、多分ロニーと付き合うことになるようだ。それが予想できたから、ついにおれは居候をやめるとロニーに告げた。
そして、つい先月……
「エルミ、新しい部屋を借りたんだ。合鍵を渡しとくよ。あと、これも受け取ってくれないか」
「なにこれ? あ、指輪か。結婚指輪?」
「そっちはお前が20になったら買うよ」
「ふーん、ま、いっか」
エルミがつま先で立ち、目を閉じる。頭を引き寄せて、ぎこちなくキスをした。
ジムに戻る時、エルミがぼそっと口にした。
「浮気はダメだけど、嘘はついてもいいよ。いい嘘なら」
「嘘なんてついたか?」
「やっぱりケンカも強いんじゃない」
しまったな、見られてたか。子供に教育上よろしくないな。
「好きだよ、アキラ」
「ああ、俺もだ」
2人でジムに戻る最中、他には何も話さなかった。ドアを開けるとヨーギが1人で10発もクラッカーを鳴らしやがったから、思いっきりボディにストレートを入れてやった。
こんな様子で少しずつ変化はあったが、肝心のロニーに訪れた変化だけは、残念なところに落ち着いた。結局右脇は単なる擦り傷、試合のダメージもわずかだったのに、こいつは試合のあと即座に引退して、水道の仕事に戻ってしまったのだ。それも以前のように何かと適当なままだ。日に4時間も働いているのかすら疑わしかった。コーチだけは一応やっているが、ともかく、何もかもが半年前と一緒なのだ。
ランニングから戻ると、今日もロニーはだらけていた。額を押さえながら声をかけた。
「お前がそんなだと、次が育たねえぞ」
俺がハッパをかけても、ロニーはのらりくらりとかわすだけだ。結局今日も、俺が3人も4人も相手することになりそうだ。勘弁してくれ。俺だってそろそろ30が近いってのに。
「このジムはもうプロは出さなくていいよ。アマチュアでオリンピック目指そうよ。また日本に行けるよ」
ロニーがへらへらと笑って答えた。
はあ、とため息をつく。
時折、あの夏を思い出しては物足りなく感じる。このジムで一番まともに動けるのは、また俺になってしまったのだ。
「道楽でやってるうちが華か」
首を回して、俺も伸びをしながら木の椅子にかけた。だったら、こんなに真面目にやってられるか。俺も電気工事は再開したんだ。
肩と首を回しているとジムのドアが開いて、弓子が入ってきた。
「エアメール来てたよ。日本から」
一通の手紙を俺に渡した。
「なんだこりゃ」
見ると、差出人には薮田と書いてあった。
「あー年賀状か。ったく、律儀な奴だぜ」
俺がかったるそうに、手紙を机に置いた。
ぴくりと、ロニーが皮ごと食べていたマンゴーを机に置き、手紙に目を留めた。
「……そうか?」
ロニーが無造作に封筒を破った。俺はバンテージを巻き取りながら足をテーブルに投げ出し、椅子をぐらぐらさせていた。
「まただ!」
ロニーが机を叩いて、俺の目の前に顔を突き出した。
ひっくり返って床に転がった。なんて声を出しやがる。頭でも打ったらどうするつもりだ。
「そんな声は挑戦状が来た時にでもしろよ!」
ふらふらと立ち上がりテーブルの上に手をついた。ロニーは目を丸くして、手紙と俺とを交互に見つめていた。
「そうだよ。アキラ。君の名前だ。君の試合だよ」
「……は?」
ロニーが俺の鼻先へ紙を突き出してくる。さっと目を走らせる。確かに、どこからどう見ても俺の名前だった。
「スーパーフェザー級に上げた東洋太平洋のトップが、君と試合したいと書いてあるよ」
突きつけられた紙に向かって、俺は口を開け、目を丸くした。しばらく2人で向かい合って、何も言えなかった。
やがて、ロニーがくくっと笑った。
俺の口からも笑いが漏れた。
「今度は僕が殴られる番だ」
「スミトラを呼んでくれ」
「ソムチャイにも頼もう」
「ガウンは弓子から買うかな」
「じゃあ、あとは勝つだけだね」
ヨーギとエルミが寄ってきた。
「どうしたのかね?」
「なんか始まるの?」
俺たちは答えなかった。
苦々しく顔を歪めて一枚の紙切れを挟み、声を殺して笑い続けた。
(完)
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