27. 取り戻せぬ誤算

 会長が連れてきたその少年はひょろひょろの坊主頭で、俺にぺこりと頭を下げている。頭を上げると、鋭い三白眼が見えた。

 俺とは練習時間が違ったようで、一度も見た事がない顔だった。


「スタイルは」

「ファイターで、右利きのサウスポーだ」

 会長が嬉しそうに言った。すぐに、こいつが期待している選手なのだとわかった。


「へえ、名前はなんて言うの?」

 俺がその選手を見ると、すぐに少年が答えた。


「薮田一輝です」

 彼はアマチュアでも、それほど試合経験はなかった。


「どんなんでやりたいよ?」

「右ガンガン出したいです」

「上がれよ」


 その頃の薮田はとにかく荒かった。右のジャブをひたすらに出して、1発でも届いたら全力で左のスイング気味のフックを振り回すという、それだけだった。ショートの技は一つも知らなかった。


「おう」

 俺は右手で薮田のスイングを落とすと顔をはたいてひるませた。


 ジャブは鋭かったがそれ以外のタイミングが悪く、何度やっても俺にとどかなかった。

 それでも、左がうまく使えるようになれば、上を目指していけそうな選手に感じた。


 数ヶ月もすると、奴はすぐに左のフックとアッパーを覚え、右もジャブだけではなく、アッパーも打てるようになってきていた。パンチの中でも最も高度と言われる前手のアッパーができることに、大きな将来性を感じた。あとはとにかく突っ込んでくるのが速い。覚えのいい奴だった。


 しかし奴にも弱点があった。連打の2発目に合わせてレバーを狙うと、必ず命中するのだ。何度やっても、その防御だけはできなかった。


 そのころ、俺は相手を徹底的に研究して、相手が得意とする技術をわざと引き出し、それをつぶすという作戦を好んで使っていた。薮田の性格は俺のいいカモだった。


「お前、いいかげん狙われてるってわかんないか?」

 何度目かのスパーで、ついに俺が笑いながら言った。


「俺、右で行きたいんです」

「だったらボディをもっと怖がれよ。右が前に出ているってのは、レバーをさらしてるって事なんだぞ」


「ガードなんてしてたら、右が当たらないじゃないすか」

「そりゃあ、そういうタイプもいるけどよ……」


 ため息をついて俺は相手を続けた。奴はとにかく右のジャブにこだわった。

 自分の方法で、自分の努力で勝ちたいのだ。

 孤高の、自尊心に満ちた男だった。


『右ジャブだけじゃ上に行くと辛いぞ……』

『どうしてもこれで行きたいんす……』

 その声がどうしても耳から離れなかった。


 俺の脳裏をその回想が流れ終わる直前に、俺は叫んだ。


「レバーを狙いな! 右のボディを!」


 俺が叫ぶと同時に、ロニーが左のフックで薮田のレバーを打った。効いていないぞとばかりに、薮田が右ジャブを繰り出してきた。薮田の右が、いくつかロニーの顔をかすめていった。


「薮田のジャブ当たり始めましたね」

「いい動きですね。ようやく薮田本来の動きに戻ったといいますか。これまでの試合では早いラウンドで決めてきた薮田ですが、今回はかなりひやっとする事もありました、さあしかし東洋太平洋トップ、薮田一輝。いよいよ真価を発揮します」


 いや。

 と、俺は一人、心の中でつぶやいた。


 あのレバー打ちには何も対策がない。さっきのは、ただ体の頑丈さで耐えただけだ。あいつ、あれだけ言ったのに、レバーは対策してこなかったのか。


「ロニー、レバーだ! 左のレバー打ちだ! 奴の動きを止めろ!」


 肝臓はエンジンにたとえられる。顔面以外をほとんど狙わないボクシングにおける、数少ない胴体の急所だ。撃たれた傷もこの打撃なら開きにくい。不幸中の幸いだ。


 ロニーは左フックとサークリングを組み合わせて必死に薮田のレバーを狙った。それ以外は薮田のジャブに遅れてなんとか下がりながら、左ジャブで牽制を続けた。間合いが近く、薮田の距離になってきている。間に合うか。藪田の動きを止められるか。


 右は出せない。もう左で極めるしかない。レバー打ちしか残っていないのだ。


「ああここでゴング!」

 金属音に、ほっと俺たちは息をついた。


「どちらも倒れません。清々乱れることがなく、ファイターとボクサーの教本のような戦いが続きます。しかし序盤好調だったハスワント選手、薮田も少々攻めあぐねているような場面が見られましたが、いやー、藪田やはりやりますねえ」


「いやこれすごくいい試合ですね。こうも大胆にお互いの特徴が出るとは思っていませんでしたね。ただ私としては、ここで薮田の真骨頂が出てきたような、そんな感じがしますけどねえ」


 やかましい解説も仲間には意味がわからない。不幸中の幸いだ。スミトラはスポンジに水を含ませてロニーの口に当て、俺が椅子を出して座らせた。


 傷は開きそうにない。レバーだ。ボディフックで道が作れる。


 ソムチャイはじっと薮田の陣営を見つめていたが、突然俺の肩をつかんで言った。


「アキラ。薮田はボディ打ちに弱いのか?」

「いや。ただ当たるんだ。ガードが下手なんだよ」


「バカ野郎、なんでそれを早く言わなかった」

「ロニーが順調だったから必要ないと思ってたんだ。それに今思い出したんだ」


「遅えぞ、最初から言え。あいつはタフだ。いまさらボディ打ちじゃあ、効いてくるまで時間がかかりすぎる」

 ソムチャイが言い返した。


「じゃあどうしろってんだよ」

「右で行くしかねえだろ。最高の武器を倉庫行きにしてどうする。右で決着をつける予定だったんじゃねえか」


「怪我がある」

 スミトラが言った。


「勝つためだぜ。右で勝負させろよ。この際皮膚が破れたってしょうがねえ」

 ソムチャイが怒気をはらんで言った。


「迷うところだが……ロニー、どうだ。アキラの方針でいけるか」

 ロニーは素直に首を縦に振った。しかしその目は、今まで見たことのないような表情だった。なんとも言い難い、冷静な無表情だ。何かを考えているのだろうが、読み取れなかった。


「よし、作戦は変更だ。このまま判定を狙う」

 スミトラの言葉にロニーがもう一度うなずいた。薮田へ目を向けていたのでロニーの顔はよく見えなかったが、本人が納得したなら行けるだろう。立て直しだ。


「まあいいか。俺よりスミトラを信じろ」

 ソムチャイも折れた。


「まぶたを少し切っているな」

 スミトラがロニーの額を見た。薮田の右ジャブがかすっている。俺たちのチーフ・セコンドはたちまちロニーの傷をふさぎ、どんとロニーの背中を押した。


「ロニーさん! がんばって! 負けないで!」

 弓子が後ろの座席からインドネシア語で叫んだ。


 たった4人の味方に背中を押されて、老兵の耳がゴングを聞いた。


 リングの中央に二人が出ていった。

 薮田はこれまでのラウンドと同じように、ガードを固めながら、頭をゆすって前に出てきた。両腕も肘もレバーを守ろうとしていない。ロニーは小刻みにステップを踏み、ダッキングのタイミングでボディ打ちを狙うようにスタイルを変えた。


 薮田が打って出た。ロニーがジャブを突き出しながら下がり、ロープ際に詰められるとクリンチを仕掛けた。アッパーが当たったように見えたが、ダメージはなかったようだ。レフェリーが二人を分けた。


「ボックス!」

 声に応じて、二人が進んでいく。


 薮田がフェイントを入れずにフックを振り回してくる。ロニーの左がレバーに命中した。しかし薮田は気にせず右を打ち続けている。


 効いているはずだ。いくらなんでも、ノーガードのボディを打たれて平気なわけがない。

 ロニーは左に回りながら薮田のボディを執拗に狙った。しかし打っても打っても、薮田は近づいてきた。


 効いているはずだ。なんて頑丈な奴だ。この作戦を噛み砕けるだけの体力があるのか。


 ロニーの足が鈍く引きずられ始めている。判定を狙うどころか、次のラウンドまで持つかも定かではなかった。


 今が7ラウンド。あと3ラウンドもある。

 これが限界なんじゃないだろうか。ここまでできれば、もう十分なんじゃないだろうか。


 果てしない打ち合いが続いた。薮田は右ジャブを繰り出し、ロニーは左ジャブとボディフックを返す。それが、それだけが繰り返されていた。


 打ち合い、打ち合い、打ち合う。

 進みながら、下がりながら、回りながら。


 そして1分を過ぎたとき。

 薮田の右。左の返し、さらに右のアッパーがロニーの下顎チンにむかっていった。


 ロニーはスウェイバックでそれをかわしたが、そこにスイッチからの左が来た。リーチを殺され、ロニーはわずかにのけぞった。不利な体制から、それでもレバー打ちの左を繰り出そうとした。


 薮田はこの瞬間に全てをかけ、右のフックでロニーのテンプルを狙った。


 やられる。


 ロニーの負けだ。


 思う間もなかった。ロニーは薮田の右フックを食らってロープに跳ね返り、そのまま両手をだらんと下げた。薮田の目が開いた。倒したという確信を持った目だ。


「しまった……」

 口からその言葉があふれてきた。


 薮田は、レバー打ちをおとりに使っていた。俺の作戦を、奴は承知済みだったのだ。


『この試合を、軽いものとは考えていない』

 会長の声が、頭の中で再生された。


 ロニーを選んだのは、これまでのように、楽なインドネシア人相手に勝ちを増やそういう算段ではなかった。そういうイメージを払うために、本気でボクシングに打ち込んできたという姿勢を見せるためだと言っていた。


 だから、しっかり対策を立てていた。ロニーが十分な練習をしてくることもわかっていた。ロニーには俺がついている。苦手なレバー打ちが来る。来るとわかっているからこそ、それを囮にする作戦を立てていた。


 奴にとって、この試合の目的は、俺に散々指摘されたレバー打ちを破ることだったのだ。それをチャンプを狙う布石にするつもりなのだろう。


 マスコミに踊らされない薮田一輝。

 孤独に、一戦一戦を真摯に戦う薮田一輝。

 それがこいつの正体か。


 レバー打ちをやってはいけなかった。怪我をカバーできるなんていうのは自分を安心させるための言い訳だ。

 窮地に陥り、付け焼き刃に頼ってしまう。そんなド素人が陥るような失敗を、俺はこの大舞台でやってしまったのだ。


 俺のミスだ。

 これで終わりだ。


 結果より努力。

 引退前の記念。

 甥への贖罪。


 嘘っぱちだ。

 どんな理由もこいつの慰めにはならない。

 俺のせいだ。

 失敗するにしても、こんな間抜けな……


 ところが頭をめぐる混乱と恐怖は、次の一瞬で消滅した。


 何かを見間違えているのかと思った。


「なにっ!?」

 スミトラがこの男に似合わない声を出し、そこで理性を取り戻した。


「は……?」

 ソムチャイがぽかんと口を開けていた。


 それまで絶え間なく続いていた声援が、ぴたりと止まった。


 ロニーは左手を下げたまま、右手だけを振り上げて顔の横に持ちあげていた。


 崩れたはずの両足が、マットを軽快に蹴り飛ばしている。


 薮田のフックを喰らって倒れたはずが。


 打てないはずの右が。


 光を失いかけていた、あの漆黒の瞳が。

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