26. 重なる障壁

 後半が始まった。

 薮田の目に活力が戻っていた。瞳孔を反射する光が、俺たちに届くのを感じた。


「ロニー、今までと同じだ。左に回りながらカウンターを狙っていけ」

 スミトラの指示を背に、ロニーが構えた。


 薮田はこれまでと同じように、右で上下を打ち分けながらフックを繰り返した。足がついていかなくなっているロニーには、ガードの上からの打撃でもつらそうに見えた。距離を保つためのジャブはすでに封じられていて、体力の差がはっきりと見えてきた。


 1度、クリンチで後ろから腎臓へのパンチを注意された。これも判断が鈍っている証拠だ。奴はキドニー打ちの反則など、一度もやったことはなかったのだ。


 時間は流れていった。スミトラは口を閉じたままだった。ソムチャイの足を使え、頭を振れという指示も、徐々に声が小さくなっていた。


 望みは薄い。

 このまま押し込まれ続ければ勝ちはない。


 ロニーは薮田の周囲を時計の方向へ回りながら、細かく左を出していた。その手は酷使しすぎたせいか、明らかにガードとして保つべき位置よりも低くなっていた。


「イッキ、疲れてる相手疲れてる。右で押し込んで!」


 相手セコンドの日本語が俺だけに聞こえた。薮田は今度は右のフックを使った組み立てに切り替えてきた。後半のラウンドに入っても耳が生きているのだ。大した集中力だ。


 ロニーのジャブが詰められ、左のフックを1つ顔に食らった。観客の低い声が四方から湧き上がった。ロニーのステップに宿る覇気が薄れ始めていた。


 薮田は外側からロニーのテンプルを狙っている。今のところ間に合ってはいたが、いつそれが命中するかと思うと、冷や汗が止まらなかった。


「打ち合うんじゃねえ! ガード上げて回れ!」

 ソムチャイが叫んだ。


 体重差がほとんどないボクシングでは、後半の速さは決定的な要素になる。しかもたとえ命中率が悪くとも、手を出していれば消極的とはみなされない。このまま続けていればいずれ食らってしまう。


 これが限界か。ぐっと姿勢を下げて前に出続ける薮田の右に、距離を保つことができていない。相手を翻弄しながらカウンターへの罠を仕掛けるような余裕は、もうどこにも残っていないように見えた。


「ロニー、動け!」

 ソムチャイが怒鳴った。


「右はどうした、俺に食らわせた右は! 何しに来やがったんだ、てめえは!」

 その声にロニーが再びステップを速め、薮田へ打ち込みに行った。


 ロニーの左が、ガードをすり抜けて薮田をぐらつかせた。薮田が思わずガードをあげる。その直後。ロニーが鋭く右を振った。


「むっ!」

 スミトラが低い声をあげた。


「おっ!」

 俺も思わず拳を握った。


 ロニーの右ストレートはガードの上から命中した。ぐらりと薮田をぐらつかせた。初めてこのラウンドでペースを取った。


 直後、左のフックが藪田の姿勢を崩した。薮田が立て直しにストレートを降る。そこで後退を続けていたロニーがついに前に出た。カウンターが走ったのだ。


「やったか?」

「どうだ……」


 しかし、試合は普通に続いていた。


 薮田は予想外の右に、ひやっと顔を青ざめさせたが、さっきと同じ右ジャブで応戦してきている。ロニーはさらに何度も右をだしたが、薮田はスリッピングとウィービングで逸らしていった。前に出続けるスタイルにも変化はなかった。


 ロニーの右は十分な速度を持っていたし、これまで見せてこなかった。期待していた一撃だ。だが、薮田を止める事はできなかった。ロニーが薮田に体重を乗せた。薮田の背がロープへもたれかかった。クリンチを見てレフェリーがすぐに二人を分けた。


 ロニーの右は不発に終わったのだ。


 全ての希望が絶たれた気分だった。

 もうカウンターは無理なのだ。


 やはり、もっと集中できる早いラウンドに出すべきだった。


 初めて、この試合に勝つ事はできないと感じた。恐怖が、怒涛のように押し寄せてきた。レフェリーは二人を引き剥がしてニュートラルへ戻し、両手を振ろうと中央に立った。

 右腕を上げろとジェスチャーする。ロニーが素直に従った。


 弓子の声が、後ろから聞こえた。

「あっ……血?」


 記憶からすっかり抜け落ちていたが、弓子の声で、初めてそれを意識した。


 ロニーの右脇が、赤くにじんでいた。


「まずい……」

 スミトラが苦い顔で言った。


 右ストレートの時だ。あのカウンターを渾身の力で放ったとき。ロニーの右脇が伸ばされ、塞いでいた傷が開いた。


 レフェリーがドクターを呼んだ。ロニーの右脇を押さえながら、痛むかと聞いている。ロニーは特に痛そうな顔もせず、別に問題ないと言っている。スミトラはタオルをつかんだまま、じっとその様子を見守っていた。次の再開で動きが悪ければ投げ込む目だ。


「さあこれはどうしたんでしょうか。リングドクターは……ハスワント選手の右脇を調べていますね。試合の怪我でしょうか?」


「わかりません。もともと怪我があったんでしょうか」

 俺はロープを伝ってロニーの右脇が見える場所へ移動した。絆創膏がはがれてはいたが、血が流れてはいなかった。


「これは?」

 ドクターが俺に声をかけた。


「この前かすった傷で、もう治っていたと思っていたんだ」

「試合に支障はなさそうだけどね。いけるね。OK?」


 ドクターが声をかけると、ロニーは口をわずかに開いて、唾液に濡れたマウスピースを見せた。その奥の白い歯が、まだやれるという言葉の代わりだった。

 ドクターがレフェリーに何かを告げてリングを降りた。


「あー大丈夫のようですかね……?」


「古い傷がさっきのもつれ合いで開いたのかもしれません。しかし……あ、続行の許可が出ました! 続行です、ドクターストップはありません。藪田相手に大奮戦、インドネシアのロニー・ハスワント、両手を掲げて戦いの意思を示します!」


 薮田もこれに応じてグローブを上げた。お互いがぶつかる。薮田は右に続けて左を出す戦法に切り替えた。低すぎて露骨に怪我を狙ってはいないようだが、右はもう出してこないと読んだらしい。


 薮田はロニーの動きを細かく読んできた。体力をセーブしながら強弱をつけてくる。俺は以前、薮田のあのジャブをどうやって受けていた。受けきれた事なんてなかったんじゃないか。だったら、俺はロニーに言う事なんて何もないんじゃないのか。


 ところが、同時にそれとは全く別の事が、急に俺の頭に駆け上ってきた。数年前の会話。薮田と初めて会った時。俺が新人王を取ったその直後のことだった。

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