24. 2の手3の手

 後ろを見渡した。パンフレットを開いている奴は一人もいなかった。ポップコーンを抱えていることも忘れたみたいに目を見張って、リングを見つめていた。


「信じられねえ。被弾ゼロだ」

 ロニーの顔をくまなく見つめてソムチャイが言った。


 1発もパンチをもらわないで3分を戦った。これがあと9回続けば、それだけで勝てる。雑誌の予想も相手の予想も、俺たちの予想もひっくり返した。


「いいペースだ。そのリズムだ」

 スミトラがロニーの肩を軽く叩いた。


 次のラウンドのゴングが鳴った。

 ロニーがまた両手を挙げて、薮田の突進をかわし、打ち返した。


 ところが、10秒も過ぎてから。薮田は攻めるのをやめ、リングの中央でロニーの動きを待った。

 観客がブーイングを始めた。


「薮田どしたあ!」

「おら、いけや薮田!」


 その声も届かないかのように、2人はにらみ合って動かなかった。

 張り詰めた緊張感が、二人の間を行き来していた。薮田は動かなかった。頭を振り体を入れ替え、足を前後に動かしながら隙を探してはいたが、積極的な1ラウンドのスタイルをごっそり捨ててきた。


 レフェリーのフィリピン人が手を前に出した。それでも2人は動かない。


「なんやなんや、動けや!」

「なんか今日の薮田チキンやなあ」


 後ろから甲高い悪態が続いた。


「来ねえな」

 俺が言う。


「攻め方考えてねえのかよ」

 ソムチャイがコーナーを外側から叩いて苦い声を出した。


「ほとんどやってねえんだよ。慎重になるって思ってなかったからな」

「4までに1度は勝負させろ。このままじゃただ疲れるだけだぞ。あいつのスタミナがどれだけか知らねえけど、ロニーよりはあるだろ」


「まあな」

 俺が口を歪めながら吐き捨てるように答えた。


 俺ならどうする。俺が薮田で、今のロニーが相手なら。

 もちろん、攻めて攻めて攻め倒すだけだ。カウンターもない右利きのサウスポーが、前に出ないわけがない。だからこそこっちは今まで、ロニーに待ち方を教え込んできた。


 まさか薮田は、ロニーが攻める練習をしていないと見切ったのか。だとしたら、たしかに当たってはいる。なんて慎重な奴だ。ここまで露骨に警戒するのか。何か手はないか、何か……


 ゴングが鳴った。2ラウンドはほとんどイーブンだ。強引に差をつけるとすれば、最初に攻め気を見せてリングの中央を取るゼネラルシップを見せた分だけ、薮田かもしれない。1ラウンドのリードを取り返された。


 どうする……

 スミトラは落ち着いた顔でロニーの体をほぐしながらうがいをさせていた。


「スミトラ、どうする」

 ソムチャイが問いかけた。スミトラはロニーの手に目を落としてからソムチャイを見て、首を縦に振った。何か策があるという顔だ。白い髭の奥から、落ち着いた声を出した。


「手はある。予定通り行くだけだ。さっきのラウンドでわかった。おそらくだが、薮田は次も攻めてこない。それに彼のディフェンスは思っていた以上に甘い」

 スミトラがロニーの汗をぬぐいながら言った。


「なんか手があるのか」

 ソムチャイがスミトラに声をかけた。


「あの待ち姿勢は付け焼刃だ。どうも向こうのセコンドは、ロニーのアウトボクシングをかなり重く考えている。前に出るのもいいかもしれん。ロニー。薮田が1ラウンドと同じように出てきたら1ラウンドと同じように。2ラウンドのように待ちにはいったら仕掛けていけ。

 必ず当たると信じるんだ。ロニー、このラウンドでテクニックの違いを見せつけろ。ヤブタにないものがこちらにあると、はっきりわからせてやれ」

「はい」


 ゴングが鳴る。俺たちはリングを降りた。3ラウンドが始まった。


 薮田は前と同じように太い腕をがっちりと折り曲げて、リングの中央に入るやその場でロニーを待った。ロニーはジャブを打ちながら徐々に近づいたが、距離に入ると見るや、薮田はすばやく左右のフック、そしてアッパーまで打ち返しながら前に出てきた。


 薮田はロニーの動きを読み解き、コンビネーション・ブローでロニーの手を弾いてから3撃目、4撃目でこめかみを狙う攻撃に切り替えてきた。上下も打ち分けるようにみせている。だが、それはレフェリーに対する印象付けだ。まともに攻めるつもりはない。ロニーにもそれはわかっているはずだ。奴の目があれば、薮田のパンチが到着することはないと見抜ける。


 ロニーが肩を狙う動きに合わせてクリンチをしかけ、レフェリーが2人を分けた。薮田はこれでポイントを得、いよいよ待ちに入るだろう。


 しかし、2人が仕切りなおしたとき。


 ざわっと会場が異様な雰囲気に包まれた。ロニーは左の腕を徐々に下げ、そして体を横に向けると、突如、軽快にステップを踏み出した。


 薮田があっけにとられていた。


 左手を下に落とすその動きは目とリーチとスピード、そしてスタミナによほどの自信がないとできない、あのスタイルだ。


「デトロイトや!」

 観客の一人が叫んだ。


「おおデトロイトや! フリッカーやで!」

 薮田はまだぽかんとしたような顔で、下げた左手を横に振るロニーを見つめていたが、突然、顔色を真っ赤に変えた。


「おい!」

 ソムチャイが俺の肩をゆすった。


「まさか使うことになるなんてな」

「大丈夫か?」


 ロニーはステップを踏んだまま、大きく目を開いていた。

 薮田が猛然と右のジャブを振りだした。ガードを下げられては面子が立たないと思ったのだろう。顎を砕きにきた。


「うわ、キレたぜ」

 ソムチャイが身を乗り出した。


「そこが狙いだ。見ていろ」

 スミトラがリングをにらんだままつぶやいた。


 ロニーはじっと目を見開いていた。細めることすらせず、落ち着いて薮田の一撃を避けた。スウェイバックだ。さらに薮田がジャブを繰り出した。2発目も空を切った。ロニーは薮田の右手を軽く押さえたまま、サイドステップで薮田の右に回りこんでいた。


 薮田が振り返り、ロニーに構えなおそうと右を引き戻した。


 その時だった。

 ロニーの左拳が閃いた。


「よしっ!」

 思わず声が出た。


「おおっ?」

 ソムチャイも首を突き出した。


 ロニーのフリッカージャブに、薮田のぐっと引いた顎が起きたのだ。その正面から右ストレートが入った。薮田は耐えたが、反撃はスウェーバックで避けきれた。


 80年代のアメリカ、黄金のミドル級時代。この技術で5階級を制覇したトーマス・ハーンズの全盛期ならともかく、いまどきのボクサーでフリッカーを見たことがない奴はまずいないだろう。だが、アジアの選手で、このジャブをまともに使える人間はほとんどいないと言っていい。


 明らかに薮田は、バカにされたという屈辱だけを理由に突っ込んできた。こちらの狙いはそこだ。ロニーも当然、ハーンズのようなフリッカー特化のボクサーではない。フリッカーをやれば突っ込んでくるだろうと、そのためだけに用意したのだ。

 右ストレートが命中してから、初めてロニーのコンビネーションが入った。フリッカージャブ自体はスリッピングで避けられたが、続く返しの右フックがガードを越えてあごに当たった。


 薮田はダッキングで追撃をかわし、ボディを狙いにいった。だが、デトロイトはボディを守りやすい姿勢だ。薮田のブローはロニーの左手に阻まれた。薮田が顔を上げる。


「右出せ!」

 俺が叫んだ。


 瞬間、再度ロニーの右ストレートが薮田の顔を正面からひっぱたいた。このラウンドで2度目の明確な命中だ。カウンターではないが右ストレートだ。わき腹はなんともないようだ。ついにあのロニーが、東洋太平洋のトップを真っ向からぶん殴ったのだ。


 薮田が姿勢を直してステップを踏みなおす。ロニーは再び左手を下げて、相手のジャブを誘いながら、軽快なステップで左右に跳んでいる。ムチのようにしなやかな打撃が、再度薮田の顔に迫った。


 観客の声の中に、ハスワントという単語が入っていた。ハスワントという声だけが聞こえてきた。薮田のための客がほとんどだったはずだ。今、客が見つめているのはテレビで大人気の、若い無敗のボクサーじゃない。無名な、非力な、インドネシアの老ボクサー、ロニー・ハスワントだった。


 3ラウンドが終わったときにはもう、会場の熱気は最高潮に達していた。


 このまま行けば勝てる。

 勝てる。

 勝てる!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る