17. オレンジ色の過去
「どうしてですか」
薮田は口を尖らせ、不満を顔中で語っていた。
「この程度だってことさ。楽なもんだろ、新人王なんて」
タオルをつかみながらリングを降り、笑いながら言った。
「言っていいですか」
俺が手を差し出すと、薮田は目を逸らしながら口を開いた。
「4回戦のころのほうが良かったですよ。先輩」
「かもな」
「何が怖いんですか」
「別に何も」
俺は怒りもせずに、そう答えた。
「事故が怖いなら、ボクサーなんてやんなきゃいいじゃないですか。電気屋でもガス屋でもやればいいじゃないですか。そのほうが、ずっと世の中の役に立ってますよ。俺たちは人に見せることをやってるんですよ。逃げ腰なんて、プロでやることじゃないんじゃないですか」
「かもな」
「もう、あなたには頼みません」
吐き捨てるように言うと、薮田はスパーリング用のグローブをカゴへ投げ捨ててシャワールームへ向かった。俺は青いプラスチックのベンチに座ったまま、じっと汗が流れ切るのを待っていた。
のろのろとグローブをはずしてから、薮田と入れ替わりでシャワールームに入り、やたらゆっくり髪を洗った。更衣室に戻ったときには、薮田はもういなかった。
ランニングシャツにジーンズ。ジムを出た足で病院へ向かった。日本チャンピオンに挑戦して両足麻痺になった、進藤の見舞いだ。何度行っても帰れとしか言わなかったが、どこにも行きたくならないときには、自然とここへ足が向くことがあった。
*
進藤は病室にはいなかった。看護師にリハビリルームの場所を教えられた。病院の外周を回り、別棟にあるこぢんまりとした部屋を外から見た。カーテンのかかっていないその部屋は、中の電気で明るかった。
奴は平行棒のような二本の柱に捕まり、一歩、一歩、脂汗を流しながら前に進んでいた。治るか治らないかは五分。しかし五分もあるならやって当然だと、奴は一歩、一歩、気が遠くなるような痛みと戦いながら歩いていた。
ぐっと体重を落として左手で棒を握り、右手を顔の横につけた。足を踏ん張りながら、腰をゆっくりと回し、肩を入れて拳を前に出した。
本格的なボクシングの打ち方だ。足を踏みしめて腰を入れない限り、それはパンチではない。腕の力だけで打っても相手は倒れない。だから、そいつは動かない足に鞭打って、蝿も殺せないほどゆっくりとしたストレートを突き出していた。
背を向けて帰路についた。
無理だ。
あんな生き方は無理だ。
まっぴらごめんだ。
何がボクシングだ。俺は自分の身がかわいい。クズでいい。
進藤のところにはもう行くまいと思った。ジムにももう行けないと思った。俺は落ちこぼれたのだ。
俺の戦いは、これで終了だ。この先は、死ぬまでの消化試合だ。ゴングは鳴り終え、俺の判定負けが決まったのだ。
ゴミのように生きよう。ただ働いて食べて寝て、生きているのか死んでいるのかもわからないように生きよう。バカにされて、へらへら笑って生きよう。
どうせどこに行っても同じだ。
いっそこの国から離れてしまってもいい。
逃げたかった。
現実から。
自分が裏切ったボクシングから。
夢から目が覚めると、3時間のフライトは中ほどまで進んでおり、機は順調に北スラウェシの州都マナドヘ向かっていた。周りを見回すと、ロニーもソムチャイもいびきをかいて座席でねむりこけていた。
戻るのか。と俺の中の声が言っていた。
恥ずかしくないのか、とも言っていた。
結局、俺は今でもボクシングを続けている。
ロニーのためという理由をつけて。だが、いざ行くときになると、自分を覚えている人間にもう一度会うという事実に耐えられるか、不安も膨らんでいった。
周囲を見回した。自分の考えが誰かに伝わってしまっているのではないかという、子供みたいな考えが浮かんでは消えた。
視線の先に止まったのはスミトラだった。彼は目を覚まし、厚い老眼鏡をかけて本を読んでいた。俺は席を立つとスミトラの隣に座った。
「目が覚めたのか」
スミトラは本を読みながら言った。
「ええ、まあ」
「気を立てるな。今休んでおかなければ響くぞ」
男は俺の考えなど知るはずもなく、静かな話し方で俺を諭した。
「空港では助かりました」
「いや、あの時はそうすべきとしか思えなかっただけだ。しかし殺すべきか迷ったが、腕だけにして良かった。ロニーにわだかまりを作りたくない」
「さらりと言いますね」
「何を……」
「俺は何もできなかった。まして殺すことはできません」
「私だって他人の人生を壊したくはない。スポーツに留めておけるなら、その方が良いだろう。他人の人生を作る方が好きだ」
こちらとしては動けなかったことを恥ずかしいと言っているのだが、この男はロニーに銃を向けた男の心配をしているのだ。器の差につくづく驚かされた。今更ながらの疑問が頭に浮かんだ。
「老スミトラ。あなたはどうしてこの試合のトレーニングを引き受けようと思ったんですか」
「ん?」
きょとんと男は俺の顔を見て本を閉じると、俺に向かって何度か目を上げてから答えた。
「今までも話してきたとおりだよ。私はいい選手がいるとわかれば、そのために努力したいと思っている」
「俺たちには金もないし無名です。あなたは違う。自分の仕事だってある。それも誰もがうらやむ仕事だ」
「それはどうかわからんが、少なくともこの試合は大きな試合だ。それに」
「それに?」
「私が引き受けたのは、君がいることも大きいのだよ。アキラ君」
スミトラが、大きな手を俺の肩に置いた。
「俺が?」
「そうさ。意外かね」
「考えていませんでしたが……」
「君はボクシングをやる上で、一番必要なものはなんだと思っている?」
スミトラは少し面白そうな顔をして、俺に問いかけを与えた。
「え……なんでしょうね。テクニックですね、俺は」
「なるほど。さすがの優等生らしい回答だな」
「あとフィジカルも重要だと思います」
「君はいい先生に習ったのだろうな。それもまたいい答えだ。だが私の考えは少し違う」
「フィジカルやテクニック以上にあるとすれば……たとえば、スピリッツですか」
「いいや。私の意見だが、スピリッツというのは一時期しか役に立たん。人気取りのショーマンならそれでもいい。しかし、ボクシングの実力を伸ばすという根本的なところでは、あまり意味がないように思う。私は、選手生命が長いほうがいいと考えている」
老スミトラはオレンジの機内灯の下で、穏やかに話を続けた。
「日本人は、戦いにはスピリッツ、テクニック、フィジカルが必要だというそうだな。カラテの本にはそう書いていた。
だが、私はあまりそういう事は見ない。その3つが優れていても、それだけでは試合に勝つことは難しいものだ」
「ほかにありますか?」
「縁だよ」
「はあ。人とのつながりですか」
「そうだ。結局のところ、私は格闘技というのは、誰との縁があるかということだと思っている。
私はロニー君を初めて見たとき、これは私がぜひ手を貸してみたいと思う選手に思えた。その理由は君たちがいたからだ。
君たちが打ち合ってきた選手であれば、私も協力できるだろうと、そう考えたのさ」
なんとも言えず、口をつぐんだ。
「ロニー君はなぜ試合に出られたのかね。君がいたからだ。君がいなければ、彼はボクシングを続けていただろうか? 続けていたとしても、覇気や練習量が維持できたろうか?
私にはそうは思えない。君がいるのを知ったとき。ソムチャイがロニー君と打ち合い、日本に行くと言った時。私は確信した。彼はきっと、いい結果を出してくれるだろうとね」
「はあ……」
「不安かね」
「いえ。でも不思議だったんですよ。あなたが協力してくれると知って、確かに俺はうれしかった。でも、返す礼がありません」
「勝ってくれれば、私も認められる。交通費まで出してもらったのだから、これ以上を頼んだりせんよ。それに」
「それに?」
「彼はやはり手伝いたくなるような選手なんだよ。彼はバイク・ブディ・バハサニャだ。縁を運んでくる相がある」
バイク・ブディ・バハサニャ。それはインドネシア人の理想的な姿を指す褒め言葉だ。言葉も心も健康な人というような訳になる。
良いインドネシア人は穏やかな微笑をたたえて常に落ち着いて話し、感情にまかせた強い表現を避ける。饒舌になったり怒りや悲しみをそのまま言葉に乗せるのは、全て悪い心から来るものなのだ。
「そうですけど、リングの上でもそれじゃ困りますよ」
「そうだな。そこでは予定どおり、アリになってもらおう。心配ない。縁が作った道は、情熱を添えて歩けるものだ」
スミトラが笑い、俺も笑った。俺はスミトラの席のとなりに座り、もう一度毛布をかぶった。
ロニーが話し声に目を覚ましたのか、ちいさく寝返りをうつと、薄く目を開いた。小さく微笑み、もう一度目を閉じる。
俺は静かに天井を見上げた。
薮田ともう一度会う日が来たのも縁なのだろうか。あんな別れ方をした。再会は楽しいことではない。だが、俺は過去の自分が残してきたものを精算したい。
栄真ジムは俺にとってなんだったのか。どういう縁があったのか。その答えを出しておきたい。
これまでの3年間とは違う。空気を吸って吐いていただけの能なしはもういない。栄真ジムの負け犬、梧桐彰ではなく、チャンドラジムのセコンド、梧桐彰。
その事実に自信を持てるよう、俺は日本へ行こう。これが、俺の縁だったのなら。
機は北へ向かう。日没が雲の向こうに見えた。
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