16. 破れぬ約束

 疲れきった体でチャンドラジムに入った。


 誰も一言も口を利かなかった。下を向いてじーっとうなだれていた。


 3ヶ月。


 この日のために打ち込んできた。これからどんな思いで過ごせばいいんだ。どんな顔をして、この3ヶ月を清算すればいいんだ。


「畜生が!」

 サンドバックを素手で殴った。鉄の音がほこりを舞い上げた。


 徒労。

 無駄。

 こんなことで。こんなくだらないことで。


「……1日早くしときゃあ良かったんだ」

 ソムチャイがつぶやいた。


「んなこと言ってどうするよ」

 俺が言い返す。


「大体、なんで荷物を持たなかった」

「命が大事だからに決まってるじゃねえか」

「持って走るくらいできたろうが!」

「だったらてめえが持てばよかったじゃねえかよ!」


「やめてくれ」

 ロニーがつぶやいたが、ソムチャイは話すのを止めなかった。


「殴り方だけ考えてもしょうがねえだろ! 試合に出して初めてセコンドなんだぞ、そんなことも知らねえのかよ!」


「なんだとてめえ! 置いてきたくて置いたんじゃないんだぞ! あとからガタガタ抜かすんじゃねえ! 黙れ!」


「お断りだ!」


「黙れ!」

 床を蹴ってソムチャイの前に立った。


「おおなんだ、やんのか?」

 ソムチャイも床を踏んだ。


「やめんか、二人とも!」

 スミトラが俺たちの間に入った。


「ちっ!」

 鋭く息を吐き捨てて、ソムチャイがもう一度腰を下ろした。


 少しの時間が過ぎた。夕日を背に、誰かの姿がジムに見えたが、誰も立ち上がる気にもならなかった。


 エルミが後ろ手にジムへ入ってきた。


「来たのか」

 俺がぼそっと言った。


「バッグ、空港に置いちゃったんだって?」


 なぜか、エルミはやたら機嫌が良かった。にやにやと俺たちの顔を覗き込んでいる。


「そうさ。くだらねえ政治のせいでな」

「もう行けないと思ってる? もう無理ってしょげてたところ?」


「何言ってんだ、てめえは」

 いらだってエルミに言い捨てた。


「そんな怒んないでよ。リングで冷静なアキラが、不機嫌なんてさあ」

「おい、いいかげんに……」


 俺が言いかけたところで、エルミが平手を向けた。


「うそうそ。冗談だって!」

 エルミはひょいと後ろへ下がると、ドアの脇からがらりと何かを引き出した。


「見送りに行ったら、スーツケースだけ残して逃げてくんだもん。ちょうど声をかけようとしたところだったのにさ。空港から出るのが遅れて遅くなっちゃったよ」


 エルミが、後ろに回していた手を前に出した。


「あああっ?」

 俺たちが四人とも立ち上がった。ごとりと、大きなスーツケースが姿を見せた。


「でね」

 エルミが大きくジムの扉を開けた。歩道に乗り上げたRVのドアが大きく開いた。


「さあ乗りな乗りな! タクシー代は今回だけタダにしてやるぞ!」


 ぐふふふふっと、大男が心底嬉しそうに腹から声を出した。


「ヨーギ?」


 ロニーがあっけに取られて口を開けた。


「スマランからマナドへ向かう便がある。そこからシンガポールへ行け。メルパチ・ヌサンタラ航空だ」


 ヨーギが言った。RVの後部座席から、さらにトニーが降りてきた。


「4人分、全部支払いは済んでるぞ。金は会社から借りたよ。勤め先が旅行代理店でこんなに嬉しかったことはないな」

 チケットを扇形に広げ、それをぱちっとロニーに渡した。


「みんな……」

 ロニーがそこまで言いかけたとき。


「ロニーさん!」

 エルミがロニーの両肩をたたいで大声で言った。


「ジャディラ・アリ! がんばってね!」

 少女の満面の笑顔。消えかけた俺たちの火種に、もう一度風が吹いた。


「ヨーギ、飛ばしてくれ!」

「頼まれなくとも!」


 4人でRVに転がり込む。

 窓から親指を立ててエルミへ向けた。象を意味する親指へ向けて、エルミが小指を鋭く叩きつけた。直後、トヨタのエンジンがひび割れた国道を蹴りこんだ。


「きついのはおそらく市内を抜けるところだけだよ。高速に乗ればこちらのものだ」


 道路の両脇に並ぶ石材のすれすれを走らせ、積み上げたレンガを突き落としながら、すし詰めの街路を抜けていった。クラクションを鳴らしていた時間が、鳴らさなかった時間のほうがはるかに少なかった。やがて、上に上がる側道が見えた。


「アキラ」

 ロニーが言った。


「ああ」

 答えながら、遠く広がるハイウェイへ目を向けた。


「アリになる日が来るよ」

「そうだな。そうさ。なれる。絶対にな」

 やがて国道のはるか彼方に街が見えた。


「あれか?」

 俺が声を出した。


「いいことを教えてやろう、あれはカラワンだ。まだ50キロしか走ってないからな」


「くそっ、そうか」

「慌てちゃあいけないよ。高速のまま抜けていくぞ」


 ヨーギの言うとおり、高速の先にも陽炎がゆれる2車線が広がっていた。

 やがて、また別の街が見えた。


「あれか?」

 ソムチャイが身を乗り出した。


「いいことを教えてやろう、あれはチルボンだ。もう少し眼を凝らしたらどうかね」


「タイ語で書いてねえだろうが」

 ソムチャイが目を閉じて、偉そうに答えた。


「一体このチャンプはどうやってジムに来たのかね」

 ぬふふふふ、と、ヨーギが例の笑い声を出した。やがて、また別の街が見えた。


「あれはプカロガンだな。あとどのくらいだ」

 助手席の老スミトラが言った。彼の声にもさすがに焦りが混じっていた。


「もうすぐですよ。大体100キロ。が、プカロガンで一度給油します。ガソリンが危ない」


「老スミトラ、飛行機に間に合いますかね」

 俺が横から口を挟んだ。


「ぎりぎりだな。ヨーギ、どこかで便を遅らせる事はできるかね?」

 チケットを見ながらスミトラが言った。


「残念ながら遅れたら100%アウトです。トニーの話だと1週間は飛ばんそうですよ」


 いつもふざけた話し方しかしないこの男も、今はあふれ出す冷汗を拭きながら答えた。給油を終えてさらに走る。


「そうだ、こんなことになると思わず、すっかり忘れていたよ。そこのカバンに白い封筒があるだろう。開けて読んでもらえんかね」


 中には手書きの手紙が入っていた。アルファベットだが、俺には読むことができなかった。


「ん……なんだこりゃ? インドネシア語じゃねえぞ」

 ロニーに渡す。


 ロニーはそれをじっと見て、それから不意に声を上げた。


「……ヨーギ!」

「そういうことだよ」


「なにが書いてるんだ」

「これは僕が生まれたアチェのガヨ・アラス語だ。チャンドラの前の会長からだよ」


「前のって……」

 ロニーの甥が死んだ時に、責任を背負ってジムを去った奴のことか。


「そうだよ。ムシャラムさんだ。彼もアチェで生まれた人なんだよ。まだジャカルタにいるんだ。警備会社の専務をやりながら。ヨーギとエルミはそこに勤めてたんだ」


「ムシャラムさんは、昔ボクシングをやってると言ったら一発で採用してくれたよ。実は矢上さんの門下生と練習をしたこともある。そんなわけで、入社してから、時々ロニーの話は聞いていたのさ。


 まずエルミが遊びに行くようになった。ジャカルタの試合でロニーが負けた日だ。ムシャラムさんが、ありゃあもうボクシングやめるかもしれんと言って、エルミに様子を見てきてくれといったんだよ。エルミも将来は警察を志望していたから、何か格闘技をやりたいと言っていたしね。その後、本格的な試合が始まると聞いて、俺も行ってみることにしたんだよ。実は俺たちはボランティアじゃないんだ。ごくわずかだが、お駄賃も出てるのさ」


 いきなりいろんな事情が明らかになった。エルミもヨーギも、なんか不自然に俺たちに関わってきたと思ったら、そんなことだったのか。


「なんで黙ってたんだ?」

「僕が断るとわかっていたからだね」

 ロニーが横から言った。


「そういうことだな。だが、ピンチとなれば助けはいくらでも出す。実はこのRVも専務のだ」

 ヨーギがアクセルをふかした。


「老スミトラとのつながりがあったのも、その専務の伝手か」


「そのとおり。俺のような一介の警備員が、こんな大物に人脈があるわけなかろう」


「老スミトラ、あなたもずっと黙っているようにと?」

 ロニーが聞いた。


「私は最初から何もでたらめは言ってないよ。良い選手がいると聞いたから来たんだ。良い選手がいなければ、誰に頼まれても去っていったよ」

 スミトラが笑顔で答えた。


「俺もスマトラの言葉は読めんのだ。なんと書いてあるかね?」

 ヨーギが言った。


「最初はヨーギとエルミについての話だ。あとは……良い仲間に恵まれて嬉しい。日本戦での活躍を祈っている。いつも心は君たちと共に。ジャディラ・アリ。アッラーの護りあらんことを」


「そうか」

「あ、追伸があるね。戻ったらエルミの気持ちをそれとなく伝えてくれ」


「なんだそりゃ?」

 俺が聞く。ヨーギがもう一度笑った。


「そろそろスマランだな」

 老スミトラが高速の先に目をやった。


 だが、そこに待ちかまえていたような渋滞が連なっていた。1キロはある。俺たちと同じような事情の奴らなのは明らかだった。


「く、くそ……ふざけろ……」

 喉を絞るように声を出した。


「おいおいおい、何時って言った?」

 ソムチャイが後ろから運転席に身を乗り出す。


「うーむ、あと2時間だなあ」

 ヨーギが鼻を鳴らし、渋滞の最後尾を忌々しそうに見つめた。


「2時間……2時間じゃ、とても抜けられねえよ」

 俺が言った。


「……そうかね。俺にはそうは思えないがね」

 ヨーギはにやりと笑うと、いきなりハンドルを切った。


「は?」

「まあここまできて、残念、ダメでした、はあり得なかろう」


「お、おい!」


「諸君、大いに喜びたまえ。反対側がガラガラだ」

「や、やめろーっ!」


 俺の声を振り切って、トヨタは分離帯を乗り越え、にゅうっと反対車線へ身を乗り出した。


「ぬふふふふ、行くぞ!」


 対向車を右に左にかわしながら、RVが凄まじいスピードで疾走した。


「よく見えるなあ! ロニーのジャブより全然遅いぞ!」


「て、てめえ、着く前に殺す気か!」


「喋っちゃあいけない、舌を噛むぞ!」

 彼方のゴミのような空港がみるみる巨大になっていく。ヨーギは入り口の歩道を乗り越え、ドアぎりぎりにドリフトでハンドルを切りながら車を止めた。

 何事かと、銃を持った警備員がぞくぞく集まってくる。


「ジャカルタのアリにアッラーの護りあれ!」

「覚えてろ、バカ野郎!」


 叫びながら空港に駆け込んだ。

 掲示板を真っ先に見た。


 マナド行きの機はまだ飛んでいない!

 間に合った!

 セーフだ!


 なだれ込むようにチェックインを終え、飛行機に転がり込むと、たちまち機体が舞い上がった。メルパチ・ヌサンタラ航空114便は、ジャワ島の暑い大地を見下ろしていた。


「もう迷いはないぞ」

 ロニーがぐっと拳を握って俺に見せた。


「そうだな。やるだけだ」

 俺も拳を作ると、その手にぶつけて答えた。


 機体が雲の上に鼻先を突き出し、窓から陽光が流れ込んできた。


 北へ、北へ、全員の意識が、ぴたりと日本へ突きたてられていた。


 どさりと背もたれに体重を預ける。張っていた神経が途切れたのか、すうっと肩が重くなっていった。


 夢の中で、昔のことを思い出した。薮田のスパーリングを受けて、あいつに怒鳴られたことを。

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