18. 右脇

 スマランからマナド、マナドからシンガポール、そこで一泊して関西空港へ。故郷の風景がどうのという感覚なんか、何ひとつ無かった。関西に住んだことがないのもあって、ただただ移動に神経をすり減らした。日が沈むころ、なんとか京都の呉服屋へ転がり込んだ。


 ばたばたと人が走る音。部屋着のまま飛び出してきた弓子は、ロニーの顔を見るなり、ぼろぼろと涙をこぼした。


「よかった……」

 両手を握ってロニーの胸に当て、弓子が搾り出すような声で言った。


「俺たちはどうにかなる。ロニーだけはまともなところを貸してやってくれ」

「客間に入って。雑魚寝になっちゃうけどね」

 弓子が涙を拭きながら言った。


 和室には分厚く積み上げられた寝具が人数分用意されていた。ぐったりと倒れこみ、喘ぐように浅い呼吸を繰り返した。


「信じられねえ。あと2日しかねえ」

 大の字に寝転びながら言った。


「殴られすぎだ。数も数えられねえのか」

 ソムチャイが吐き捨てた。


「これもアッラーの思し召しだ。やるべきことは全てやった。ロニー、横になれ。マッサージをしてやろう」


 老スミトラが立ち上がると、ロニーを横にしてシャツを脱がせた。肩と背中に素早く指を走らせると、丁寧に筋肉の奥へ指を届かせ、それから脚を担いでゆっくりと伸ばしていった。スミトラの長い経験は、ロニーの筋肉だけでなく、緊張からくる心の疲れまでも回復させているように見えた。


「申し訳ありません。疲れているのに」

 ロニーが言った。


「そういう事を言うな。自分の事を考えろ」

「あなたはすばらしいトレーナーだ」

 ロニーが答えた。


「気が早いな。感謝の言葉は勝ってからだぞ」

 スミトラが言うと、ロニーがもう一度笑った。


「僕は嬉しい。君たちがいてくれる」

「お前はいい選手だ。いい選手にはいい奴が集まる。それだけの事だろうが」

 ソムチャイが顎を上げて言った。ロニーがもう一度笑顔を見せた。


「いい体だ。筋肉がついているのに、こんなに柔らかい」

 老スミトラが足を掴んでそう言った。


「ありがとう……」

 ロニーが疲れて眠ると、俺たちは電気を消した。


 *


 すぐに眠りに落ちると思ったが、寝入る直前に肩が叩かれた。


「アキラくん。すまないが、お手洗いの場所を忘れたんだ。教えてくれないか」

 スミトラの声だ。この家は広いが、そんな事を聞くのは妙だ。すぐに別の用件だとわかった。


 俺たちは家の外に出て、木造の柱に体をあずけだ。

「どうしたんです?」

 腕を組んだままスミトラに向いた。


「銃創が思っていたよりも深い。右脇だ」

「え……?」


 銃創という単語がわからず、俺はしばし目を白黒させた。スミトラの唇は厳しく結ばれたままだ。


「銃弾が当たっていたのだ」


 信じられなかった。今までここに来る事だけに必死で、他の事なんか何も考えていなかった。


「落ち着いて聞いてくれ。肉をえぐりとったわけじゃない。ただ、銃というのは想像以上に威力があるものでな。口径の大きいものだと、かすっただけでもかなりの怪我になる」


「出血は無かった」

 腕を解いてスミトラに詰めよった。


「私が止めたんだ。スカルノ・ハッタを出るタクシーの中でハンカチを当て、スマランへ向かう車の中で止血用のアドレナリンを混ぜたワセリンで傷を塞いだ。ロニーに言わないでくれと頼まれたんだ。


 リングに上がればすぐにわかるが、ただれ始めている。最初に見たときは問題ないと思っていたが……」


「その傷は試合に響くんですか」


「医者に見せなければ正確にはわからん。知る限りでは、皮膚表面をかすめただけなら、皮下組織を伸ばした擦過銃創となるだけだ。それなら血がにじんでも試合前にワセリンで埋めてしまえばいいとは思う。


 しかし、少なくとも有利にはならないだろう。何より、その傷を気にしてしまうというメンタルへの影響が心配だ。

 それと、万が一にも銃弾の破片が入っていたら、試合そのものよりも、その先の人生に影響が出かねない」


 愕然とするような言葉だった。

 自分の記憶を探り出していた今までの時間がバカみたいに思えた。


「ここまで来て……」

「いや、最悪の場合を言っただけだ。

 ひょっとしたら、単なる浅い外傷かもしれん。それで試合を投げたとなれば、それはそれで悔しい話だ。試合場にあげてみなければわからんのだ。今は見守るしかない」


「ソムチャイには」

「これから言う。そして、試合が終わるまで、全員がその事については何も言わないことにしようと思う。ドクターにも見せない。ドクターストップがかかれば、試合は流れる」


 俺はしばらく考えをめぐらせた。もしドクターに見せなかったことで、後遺症が残ったら? 俺たちは一生後悔するかもしれない。

 しかしその逆もありうる。ロニーが自ら痛みを訴えていないということは、つまりやる意思があるということなのだ。


「やらせるってことですか」

「そうだ。やらせる」

「そうですか」

「酷だと思うか」

「いや……」


「若い時。私がチャンプに挑戦したときだ。やはり毎日、ハードなトレーニングをどれだけ積んでも、プレッシャーを振り切れなかった事があった。試合を目前に控えて、重い胃潰瘍に苦しんだ。八百長だらけのインドネシアボクシングでも、やはりチャンプは別格だった。


 だが、私にも仲間がいた。薬とハードトレーニングを繰り返して、2戦目でようやくベルトを奪いとった……あの時の感激は今でも忘れない。


 耐えさせよう。やらせよう。それがボクサーだ。誰もが故障や体調不良を隠して、リングに上がっていくものなのだ」


 老スミトラが金縁の眼鏡に手を当てて言った。ぎりっと奥歯を合わせた。何もかもが俺たちに不利になるように仕組まれているようにさえ思った。


 気持ちが揺らぐ。思いが失速していく。この2日の騒動が、俺たちの丹念に積み上げた3ヶ月を蹴散らしていくのを感じた。


 あと2日。

 たった2日しかない。

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