19. 崩れゆく思い
翌朝の調子を見る限りでは、ロニーの動きには何も問題はなかった。だが、右脇というのが気になった。カウンター、特にロングの距離となると、思いきりよく振れないかもしれない。
それにミットではわからない、細かい故障があるかもしれないのだ。
ソムチャイもミットを代わりながら、複雑な気持ちを抑えて打撃を受けた。
午後、弓子の家族に借りた車を走らせ、最終計量に向かった。
部屋には既に薮田と取り巻きが入っていた。2人は体重計の上に自信を持って乗った。ロニーも薮田も、リミットぴったりだった。ツイッターに次々と記事が流れた。
『前日計量が先程行われ、注目の薮田一輝選手、インドネシアのロニー・ハスワント選手共計量をパスしました。2人とも一発クリア!
ますます磨きをかけていく薮田選手に注目です!
こちらの試合は9月1日 夜9時50分より放送予定!』
なんの意味もない事はわかっていたが、俺も自分の携帯に会場の無線をつなげると、めったに使わない自分のアカウントに結果をツイートした。2秒もしないうちにエルミがリツイートしたが、そこから先は誰も見た形跡がなかった。
栄真の連中が、俺たちに向けて何かをささやいていた。見たことのある顔も薮田以外に数人はいた。皆、俺と目線を合わせないようにはしていたが、こちらを盗み見ては気色の悪い冷笑を混ぜて何かを話している。こういう奴らの顔を見るのが嫌でジャカルタへ行った事を思い出した。
一方で、薮田はほとんどこちらへ目をやらなかった。ジムの連中やテレビの記者に取り巻かれていちいち何かを答えていたが、あきらかに不機嫌そうな態度を取っていた。
考えることが多すぎるのだ。ボクシングというのは他のスポーツと同様、外界を完全に遮断した中で行われるドラマであり、メディアに期待されている選手であってもそれは例外ではない。
薮田が今考えるべきは試合の事だ。勝ったら次はチャンプに挑戦するのか、ファイトマネーで何を買いたいのか、減量は辛くなかったのか、そういう質問は全て、薮田にとっては道端に落ちているタバコの吸い殻以上の価値は無いように見えた。
ただ、その不機嫌は、逆にロニーを相手として認めているという意味にも見えた。それが俺にはかえって気分を落ち着かせてくれた。
もちろんなめてかかってくれた方がロニーの勝率は上がる。まして怪我の事があるのだから、万が一にも気が抜けてくれていたほうがありがたいと考える方が自然かもしれない。しかし、この試合はそういう質のものではないのだというクソ真面目な想いの方が上回った。数限りない障害を乗り越えてここへ来たのだ。そのロニーの試合を、どんな形であれ冒涜することは許せなかった。
薮田と目があった。奴は取り囲む奴らをかきわけ、俺をにらみつけた。
「来られてよかったですね。心配してました」
薮田が三白眼をロニーへ向けた。3年ぶりの声だ。記憶にある声よりもかなり低い声だった。厳しい目をしていたが、口調は丁寧だった。薮田の言葉を、そのままロニーへインドネシア語で伝えた。
「試合を申し込まれて逃げるなら、僕はもうボクサーじゃない」
ロニーが薮田に言う。薮田に伝えた。
「負けるつもりもない」
ロニーが続けた。ぼそりとした淡白な言葉を薮田に伝えた。
俺が言うと、薮田の取り巻きが苦い笑い顔でお互いにささやき合ったが、薮田は落ち着いて首を縦に振った。
「彰さん。俺のこと覚えてますか」
小さな声で、薮田が言った。
「ああ」
俺も小声で答えた。
「昔は尊敬してました。あなたの事」
「そうかい」
短い会話だったが、はっきりとした意思が込められていた。
『俺はこの試合に勝って世界一を目指すんだ。お前と違って』
そう心の中で叫んでいるのがわかった。
*
明日の説明を聞いて弓子の家に戻り、昼過ぎまでロニーを休ませた。ソムチャイは難波に買い物に行くといい、老スミトラはロニーと相談があると言って、部屋に入らせなかった。
リビングのソファでテレビをつける。何も考えたくなかった。
弓子が店の仕事を手伝い終わって、リビングに戻ってきた。なぜか、やたらと腹を立てている。テレビを切った。
「彰。この記事読んだ?」
ばさっと弓子がソファに何かを投げつけた。
「お前、こんなもん読むのかよ」
「初めて買ったよ」
日本のボクシング雑誌だ。読んだも何も、手に取ること自体が3年ぶりだ。弓子が言ったページを開くと、薮田の写真が飛び込んできた。
「薮田、チャンピオンへの挑戦を避けて格下と対戦」
字面をそのまま読んだ。
「ねえ、ロニーさん勝てないの?」
「このくらいには書かれるよ。嘘じゃねえしな」
「にしても失礼じゃないか」
「俺だって、こんなふうに書かれたこともあるさ」
「ロニーさんが倒れるのなんて見たくないよ。彰、答えてよ。ロニーさん、勝てないの?」
弓子がたたみかける。なんとも返答しょうがない。もちろん勝つ気ではいるが、勝てるかどうかと言われると困る。試合というのは、勝敗がわからないからこそ成立するのだ。
俺は黙って腕を組んだ。2日前の騒動。右脇の傷。それに最初から勝算なんかあったのかと言われると、これはもう、どうとも答えようがない。
どんな練習をして、どんな相手をつけて、どんなスケジュールを組んだって、ロニーは33歳で1年以上試合をしていないインドネシアの6位だ。そしてここは、敵地日本なのだ。
日本のフェザー級は層が厚い。その中を戦い勝ちあがってきた薮田を倒すことがどれだけ難しいか。俺もそれは承知していたはずだ。
薮田は間違いなく強い。あいつとスパーリングをやるたびに、こいつは伸びる選手だということはわかっていた。あれから3年。薮田はどう育っていったのだろう。
弓子は俺の答えを待って、じっとソファの上で黙っていた。ぐるぐると頭の中で、いろんな答えが駆け巡っていた。最後に、俺が小さな声で言った。
「怪我をしてるんだ」
「ええっ?」
「スカルノ・ハッタ空港のテロがあった時、銃弾がかすって脇に傷がある」
「嘘でしょ?」
「嘘つく意味があるかよ」
「勝てるわけないじゃない!」
「いや、かすっただけなんだ。まだわからねえ」
弓子がばったりとソファに体を預けて、俺から視線をそらした。
「バカじゃないの?」
泣きそうな声で弓子が言った。
「そうさ。バカなんだよ」
「バカすぎだよ」
「ロニーが一度でもやりたくないといえば、俺たちは全員旅費をドブに捨てたってかまわねえ。でも、あいつはそう言ってねえ」
深くため息をついて、弓子がソファに腕を乗せ、両手で顔を覆った。
長い沈黙がリビングに流れた。それから、弓子がこっちを向いて言った。
「初めてあたしがチャンドラに来たときのこと、覚えてる?」
「俺が日本人会に出て、途中で帰ったときだったか」
「用事を聞いて、ボクシングの練習だって言っててさ。あたし、ボクサーってもっとかっこいい人たちだと思ってたんだ。あんたみたいな髪もろくに切らない服はボロボロってイメージなくてさあ。
でも、裸電球の下であんたたちがリングに上がって、殴りあうだけのために本気で集中してるところ見てさ、一瞬で応援しようって気になったんだ。なんかあれば、きっと手伝おうって」
「そりゃ、悪かったって思ってるさ。サンドバッグも、ガウンも」
「違うよ。そうじゃないよ。自分のためにやったんだもん。ロニーさんを応援したくて、ロニーさんに、気に入ってほしくてさ」
弓子がティッシュで涙を拭いて、ソファに座りなおした。
「バカみたい」
そこまで言われて、ようやく弓子が何を言いたいのか理解できた。
「いつからだったんだ」
「いつだろうね。はっきりわかったのは試合が決まってからかなあ。ロニーさんがそれまでとぜんぜん違う感じになっててさ。迷惑かけたくないと思ってたけど、でもどうしようもなかったんだ。それでしょっちゅう、大して役にも立たないのにジムに行ってさ。試合が終わってから言おうと思ってた。多分気がついてないから」
「そうか……」
人が集まればそれぞれに思いがある。そのくらいの事はあっても不思議じゃない。
「まあ、あんたたちじゃ気がつくわけないよね」
泣き笑いで弓子が言った。
「その手のことに縁がなくてな」
「あるじゃない」
「何言ってんだ、あんな汚ねえとこに引きこもって毎日殴り合ってんだぞ」
「そんなことないでしょ」
「いやあるだろ?」
「まだそんなこと本気で言ってんの?」
弓子の声にわずかに怒りが混じっていた。
「なんの話してんだ、お前」
「鈍感! エルミはあんたのことが好きなのよ!」
クッションを投げつけられた。
ぱさっと俺の顔をはね返って、床に落ちる。
「へ?」
声が裏返った。
しまったという顔で弓子が顔をそむけた。
言うまいとしていたのに、勢いで口を滑らせたのは明らかだった。
「嘘だろ」
「それこそ嘘つく意味ないよ。しまったな。こっちも試合が終わるまで言わないつもりだったのに」
「だとしても、なんでお前が知ってんだ、そんな事」
「ロニーさんも他の人もみんな知ってるよ。知らないのあんただけ」
「エルミは高校生だぞ?」
「それの何がいけないのよ」
「年が10以上違うだろうが」
「それの何がいけないのよ」
「インドネシアじゃ、ガキの女と夜遊んでただけで犯罪になるんだぞ」
「中途半端な知識でしゃべんな。それは17歳未満の話。エルミは17歳。ついでに言うけど、この前17になった誕生日に、あんたらが何もしなかったのも知ってるからね」
自分の気と頭の回らなさにがっかりした。一応誰かしらと付き合う気くらいはあるつもりだったが、女を知らなさすぎたようだ。
「にしても、インドネシアじゃ20まで結婚できないし、考えねえよ、そんなこと」
「待てばいいだけじゃない。だいたい付き合うのは勝手でしょ。もういいよ。それよりごめん。明日。無理だよ。行けない。それにあたしみたいな、ボクシングわかってない人が行ってもさ」
弓子がソファにかけて目を閉じた。深くため息をつく。なんだか訳がわからなくなってきた。
「お前に感謝はしてるよ。すまねえな」
「いいよ、もう。気にしないで」
中身のない言葉を投げ合って客間へ戻った。
廊下を歩きながら、混乱した頭を何とか整理しようとしたが、右フックか何かを食らって目の前の景色が崩れたように、なんの考えもまとまらなかった。
勝てもしないのにここまで来たのか?
弓子やエルミたちの期待をわざわざ裏切るために、ここまできたのか?
何度もそれを頭の中で繰り返した。薮田の体を思い出した。あの頑強な若者相手に、ロニーの実力で本当に勝てるのか、その算段が幻想の産物だったのかを一から考え直したくなった。
エルミの事も思い出した。中華街に行ったとき。いや、それよりも前からか。すまない。あんなに自分を押し殺して手伝ってくれたのに、お前の期待に答えられるような事は何もしていなかった。
部屋に戻ると、計量会場で預かった携帯電話に着信履歴が入っていた。会長が連絡のために一週間だけ使ってくれと言われた奴だ。
5分前にかかった電話は、登録されていない番号だった。かけなおすと、すぐに相手は出た。
「彰か」
日本語だ。
「梧桐ですが?」
「なに言ってんだ、俺だよ」
人を小馬鹿にしたような口調だった。
「は? 誰だあんた?」
「京都ってのは矢上のハゲから聞いたぜ。出てこれるか? JR京都駅の新幹線出口だ。歩けんだけど、ダルくてよ」
跳び起きて財布を掴むと、靴のかかとを踏み潰して玄関を開けた。目の前に弓子がいた。
「もう一度車貸してくれ!」
「なんなのあんた?」
「頼む!」
「いや、いいけど?」
ちゃりんと俺の手にキーを乗せる。プレマシーに飛び乗ってエンジンをかけた。
電話をかけてきたのは進藤だ。
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