第五章 少年よ花に帰れ
二十八、紫と種
最初に感じたのは、身が凍るような焦り。そして指先がじんとしびれ、胸の奥がぎゅっと強く締め付けられて、頭にかっと血が上った。視界が真っ白になって、次には赤くなったかのような錯覚。僕は、
僕となら、この世界を壊せる? 何の絵か? アズに何を言われたのか、理解したくなかった。僕は今、この瞬間、アズへの信頼を、アズを好きになった気持ちのすべてを、否定されたような心地がした。まるで僕がいることが、アズにとっての災厄みたいだ。いや、僕は、花枯らしの自分なんて災厄でしかないこと、嫌って程わかってる。アズが、そうじゃない、自分を責めなくていいんだよと本心から僕を気遣ってくれた気持ちにも、感謝していた。でもそのアズの気持ちが、あくまでアズにとっては一番ではなかったこともわかっているんだ。だってアズの一番はニーナだ。もしも僕が、ニーナに害を及ぼす存在だったら、アズは僕と友達になってくれただろうか? ……絶対、なってはくれなかった。同情はしてくれたかもしれないけれど、僕が罪に問われたところで淡々と処理しただろうと思う。アズは多分自分で思っている以上に冷たい所がある。そして自分で思っている以上に――情が深くて、重い。
僕には、何が何やらわからなかった。自分たちが実は【絵】なんだよ、と言われたところで、ふうん、そうなんだ、以外のどんな感想を持てばいいって言うんだ。何にもわからないよ。画集を見せられて、そんな風に取り乱すアズの気持ちだってわからない。それを痛ましそうに見るカイヤにもイライラする。梓梓梓。ばかみたいにそればっかり繰り返して、勝手に取り乱しているアズはすごく変だ。僕を仲間はずれにするの? 別にいいけど、ちゃんと説明もなくて、その目つきってなんだよ。なんで、僕、そんな目で見られてるの。アズ、まるで僕を責めてるみたいだ。僕に自分を投影して、一緒くたに責めてる。なんでそんなに自分を責めてるんだよ。わかんねえよ。カイヤもカイヤだ。一人で勝手に自己完結してんなよ!
「なんの絵か……? それ、今僕が言わなきゃいけないこと?」
僕の喉から、無計画に言葉が零れて落ちた。体ががくがく震えていた。この感覚は知っている。アイオが実は死んでたとプレナに聞かされたとき、同じように体が言うことを聞かなくなった。僕は今、本当に本当に、怒っていた。自分で制御なんかできないし、する必要なんてある? あるなんて思わない。理不尽だ。理不尽じゃないか!
アズは目を見開いた。心細そうな色がその黒目によぎる。僕は余計にかっとなった。カイヤも、少しだけ驚いたように僕を見ていた。多分、僕がアズに噛みつくなんて意外だったんだろうな。うん、僕だって意外だよ。でもさあ。僕、アズの下僕じゃないんだよ。下僕になってもいいとは思ったよ。でも、まだ違うだろ。僕がどんな気持ちで、アイオのこと話したと思ってんの。どんな気持ちで、アイオのお墓の周りに花を咲かせてって頼んだか。
「あのさ、アズもカイヤも、二人して状況を把握してるみたいだけどさ、僕には全然わからないってこと、わかんないの? 勝手に自己完結して、それで勝手に絶望して、それでなんでそんな目で僕を見たの。それって勝手じゃないか? 僕はいつからあんたらの敵になったの。何もしてねえのに!」
「あ、ユーク……」
アズは、我に返ったように、瞳が零れそうなほどに目を見開いて、震える声を落とした。僕は、そのアズの幼い表情にカチンと来た。続けて聞こえた、「ごめん」というかすれ声にも、無性に腹が立った。
僕はアズの手から、画集を取った。そして思い切り投げつけた。画集は、奥の台所まで飛んで、がしゃん、と大きな音を立てて、食器を巻き添えにして落ちた。そこに立っていたはずのアメジの姿を不意に思い出して、たった少しの間しか関わらなかった、ほとんど顔も声もはっきりとは思い出せないようなその子に、僕は叫びだしたくなった。アメジがいたはずの場所に、画用紙とやらの破片が散らばっていた意味を理解した。よくわからないけれど、僕らは誰かの描いた絵で、本当はこんな
「……この世界のほかに、別の世界がある。【現実】っていう世界があるんだ」
カイヤが、散らかった台所をぼんやりと見つめて、声を零す。
「その【現実】には、俺たちと同じような姿をした、本物の【人間】がいる。その人間の、梓というやつが、絵描きだった。そいつはたくさん絵を描いた。少しの人の絵と、たくさんの花の絵を描いた。俺たちは、そいつの精神とか、魂とか、そういうものの中に生きる存在で、梓の描いた絵そのものだ。梓は、自殺した。生きていることが苦しかったから。自分で自分を殺した――俺たちにはない発想だろ? 自分から死ぬなんて。でもそうした。そして、その魂を、俺たち【絵】がまだ【現実】につなぎとめてる」
カイヤは、僕を静かな眼差しで見つめ直した。
「……梓は芸術家で、芸術家の天才ってやつは、自分の魂を削って自分の作品にこめてしまうんだよな。意図してもしなくても。俺たちはみんな、この花咲き誇る世界で――梓がたくさんの花を描いたからできあがった世界で、梓の魂の欠片を持って、命を得た。だからこの世界で生きていられる。この世界がある限り、多分【現実】の梓も死に切らない。本当はそれでもいいんだ。芸術家の残した作品っていうのは、芸術家が死んでも生き続けて、後世に残っていくものだからさ。でも、梓の作ったこの世界だけは、それじゃダメみたいだって話なんだよ。ニーナが紛れ込んじゃったから」
僕は、眉根を寄せながら、カイヤを睨み付けた。カイヤは、へらりと笑った。その笑い方がアズに似ていて、僕は無性にかちんと来た。
「ニーナは【現実】で死んでない。死んでないのに、死にゆく梓の世界に、こっちに魂を紛れ込ませてしまった。そしたらニーナはきっとあっちで目が覚めないし、いつかは死んでしまうと思う。それがアズは嫌だって言ってるんだ。アズは、梓の魂を一番持ってる絵だから。だから、ニーナへの執着が強い――そういうことなんだと、俺は思う」
「なんで、あんたはそんなことわかるんだよ。僕と同じ、あんたも絵なんだろ。僕と一緒で、さっき初めてあの本を読んだはずだろ。なのに、なんで」
僕は唸った。自分が、狼だとか、野生の獣になった気分だった。自分よりも知能の高い、何をしてくるかわからない恐ろしい相手と向かい合っている、四つ足の動物になった気分だった。
「……わかんねえけど、でも俺が、赤司
カイヤは、自信なさげに、頼りない声でそう零して、目をわずかに伏せた。
「梓が、絵哉を絵に描いた。その時、意図してか知らずか、絵哉の魂も削り取って、……お前も見ただろ、『赤髪の少年』って、あの絵に閉じ込めてしまったんだ。だから、絵哉が【現実】で死んじまっても、そいつの魂が俺の中に生きてる。俺は、あの絵だから。焼けてしまったその絵だから。俺、さっきの画集見て、色々蘇って、こみ上げてくる気持ちがあったんだ。ああ、俺がこの絵なんだなってすとんと腑に落ちた。そういうことない? ユークは、なかったかよ」
「………あったとして、言いたくない」
お前とは違う、と僕は唸った。カイヤが言うように、僕も少しだけ、思い当たるところはあった。『夏を殺して』という絵を見た時、僕は僕自身を取り戻したような心地がした。乾いた喉に、冷たい水を流したような感覚を、満足感を、全身に沁み渡らせたような、そんな錯覚に陥ったのだ。僕にはそれがなんなのかわからなかった。でもカイヤが言うのが本当なら、それが【僕がその絵である】とわかったという感覚なんだろうな。
僕は、どの絵を見ても、あまりよくわからなった。そこから何を感じたらいいのかもわからなかったし、なんでアズとカイヤがそこまで取り乱して、苦し気に顔を歪めるのかもわからなかった。だって、知らない他人の、絵描きの話じゃないか。実感なんて沸かないし、ふうん、くらいのものだ。どの絵もきれいだなと思ったけれど、心に深く感じ入るものがあったわけでもない。ただ僕は、『夏を殺して』にはそういう実感を得たのだし、二つの絵にだけは、心を掴まれた。掻き毟られた。一つは、タイトルすらない、ただ勿忘草の花を描いただけの習作。懐かしいと思ったし、「もう戻らない」というなぜだか何かを取り戻せないような心地になって、泣きたくなった。画集を開いていて、その絵だけは指先で撫でたくなったから、そっと撫でた。多分、そういうことなんだろう。あれがきっと、【アイオの絵】だった。
そして、もう一つが、一番最後の頁の絵だ。ラベンダー畑の絵は他にもたくさんあったのに、その絵だけに目を奪われて、呆然とした。ニーナらしき女の子が、顔もよくわからないほど小さく描かれた、一面の紫。『ニーナへ』だなんて、名前までついている。見て、喉が枯れるくらい叫びたくなった。胸が張り裂けそうになった。多分少しは裂けたと思う。どうしてだろう。不思議だよね。僕は、僕はね、あの子とさ、アメジと、ほとんど話してないじゃん。水を飲むかお茶を飲むかくらいのことで、つっかかってきて、僕の汚い食べ方をじろじろとぶしつけに見てきて、頭を木べらでたたいてくる可愛げのない子で、赤ん坊扱いして頼んでもないのによだれかけなんかつけてきて、その後もずっと僕を見張っててさ。理由聞いたら、可哀想だからとか、腹立つことなんか言うほんとに可愛くない子だったんだ。だからなんの印象も持たないようにしてたんだ。好感なんかあったはずもないし、でも煎れてくれたお茶は確かに冷めてもおいしかった。せっかく煎れてくれたのに、冷めたら意味ないよな、って皮肉で言ったのを、冷めてもおいしいのがお茶だから、後で飲んでくれるだけでうれしいって、なんか変なこと言ったんだよあの子は。そういう、なんか変な子だったんだよ。僕はアメジが何が嬉しくて何を喜ぶのかしらないまま終わって、でもそういう変なことを嬉しいとか言うものだから、その時だけはなんだか心臓がうるさくなってしまって、疲れて、つっぷして。そんな僕の側でさ、本なんか読み始めて、一向に側離れないで。たまたまかもしれないけど。離れる理由もなかったからかもしれないけど。ニーナの家に向かう間も、帰る時も、僕は一回もアメジのことなんか思い出さなかった。なのに、あの紙切れを見て、お茶の中に残った花の種見たら、ああ、ほんと、喉が枯れるまで、声がつぶれるまで叫びたい。我慢したのに。僕は、僕はさあ、アズ。
初めて、アイオ以外の子を好きになったんだよ。君のことももちろん好きだけどさ、そうじゃなくて、抱きしめたいって意味で、好きになったんだよ。でももうその子いないんだよ。紙切れなんだよ。花の種しか残ってないんだよ。その気持ちわかる? 君はいいじゃんか。ニーナまだいるじゃん。それで、僕らを作ったその【
ふっっっざけんなよ。
なかったことになったら、僕も、アイオも、プレナも、アメジも、アメジの兄さんも、どうなるんだよ。いなかったことになるんだよね? 僕らが生きてたことが間違いだったとでもいうの。僕らは確かに人で、笑って泣いて食事もして、寝て起きて喧嘩もして、ちゃんと生きてたのに。ここで生まれてここで生きてきたんだ。僕らはそうなんだ。絵画だ本物だ偽物だ現実がどうだ、知ったことかよ。僕にとってはここが僕たちの生きる現実なんだよ。
……自分の顔に、嫌な笑みが浮かんでいるのはわかっていた。僕は掌に握ったままの花の種を見つめた。お茶で濡れていたのが、少し乾いていた。多分これはラベンダーの種なのだと推測する。ああ、花を枯らすって、こういうことなんだろうか。僕と関わったから、アメジは紙切れに戻って、枯れて種を残したの? 僕がいたから、僕が傍から離れたから、アイオも絵に戻って、死んじゃったの。アズとカイヤだけが僕の側にいてくれるのは、い続けられるのは、君たちが花の絵ではないから?
僕は、アズのために、梓とかいうやつのために、梓の描いた【花の絵】を枯らすためだけにいるのかよ。僕、もうこのラベンダーの種だって、咲かせることができないじゃんか。なんのために僕いるんだよ。そんなことのために僕はいるのかよ。僕は、この世界好きなんだよ。苦しかったけど、楽しくないこともあったけど、でも生まれてきてよかったんだよ。生きてること嬉しいんだよ。なのに、僕は世界を壊す力なんて持っちゃってるの。枯らすのは花だけじゃなかった、というか、この世界が花だから、僕が壊すの。
なんで。
僕は、こぶしを握り締めて、種はポケットの底に入れた。絶対になくしたくなかった。
「……そうか。でもさ、俺にはあったよ。アズにもあったから、こんなに混乱してんだよな。アズは梓自身の魂の大部分を持っているから、そうなるんだと思う。仕方ねえよ」
カイヤが、穏やかに笑う。うるせえよ。何が仕方ないんだよ。勝手な事ばかり言いやがって。
「多分、俺たちは【人物画】だから、この世界が偽物だって実感が湧きやすいのかもな。お前は多分違うから、ぴんとこないのかも」
「花の絵だからって言いたいの」
「ああ、うん。そうだけど……ユーク?」
「はあ、あんたらはそうなんだね。ふうん。あんたらもおんなじ、僕らとおんなじただの【絵】のくせに、あんたらにとって大事なのはそっちの世界ってわけ。へえ、ふうん、よくわかったよ」
「ユーク……? お前、どうした」
「どうした、はあんたらの方なんだよ!」
僕は叫んだ。カイヤは目を見開いて、アズはびくりと肩を揺らした。その二人の眼差しが、ますます腹立だしかった。僕は今、敵を見るような目つきで、二人を睨み付けていた。
「あんたらの本物って何? なんでこっちじゃねえの? 同じ絵のくせに、本物ぶるのもいい加減にしろよ。大体偽物とか本物ってなんだよ。あんたらはなあ、その本物様の魂とやらを持ってるから、この世界が消えたところで何ともないんだろうけどなあ、僕はここで生まれ育って妹もいたんだよ、妹はこの世界で生まれて死んだんだよ! 僕はそうやって生きてきたんだよ! 簡単に世界を壊すとか言うんじゃねえよ! なんであんたのために、あんたの好きな女のために生まれ育った大事な世界を壊さなきゃいけないんだよ! 何当然のことみたいに言ってんだよ! ふざけんじゃねえよ。あんたに妹のことなんか話さなきゃよかった!」
僕の目が熱くなって、ぶわりと涙があふれて、零れた。頬を流れて、顎を伝って、ぼたぼた雫が皮膚を離れて落ちていく。でもそんなのどうでも良かった。僕は心の底から、嫌になるくらい、アズに妹やプレナのことを話したことも、アズにビオラを咲かせてもらったことも、後悔していた。僕の気持ち知ってるくせに。僕がどれだけ妹が大切か知ってるくせに、自分の都合で、勝手な被害妄想と悲観で、僕に平気でそんなこと言えるんだな。僕がそれでどう思うかなんて、思いやる余裕もなかったんだろ。いいよな、余裕がない理由を持ってて。梓の魂に振り回されたなんて、ただの絵である僕が、批判もできないような高尚な理由を持ってて羨ましい。僕の傷をわかってくれるやつなんて、今、この場にいないということが僕には嫌ってくらいわかっていた。カイヤはこっち側じゃない。あっち側だ。カイヤは梓の味方で、だからアズの味方なんだ。カイヤには花の気持ちなんてわからない。多分アズにだって、わからない。
「ゆ、ユーク、ごめん」
アズが、蒼白な顔で、さっきよりもずっとしっかりとした光を取り戻した目で僕を見つめて、そう言った。僕は、アズが正気を取り戻したことを嬉しいと思ってしまった。そんな自分に、泣けてきた。馬鹿みたいだ。アズを好きな自分ってほんと馬鹿みたいだ。
「うるさい、触るな、近寄るなよ」
僕は、伸ばされたアズの手を振り払った。
「ユーク! お願いだから話を聞いてよ!」
「うるさい! うるさいうるさいうるさい! 馬鹿!」
僕は、袖で涙を拭って、駆けだした。「ユーク!」とアズの声が追いかけてくるけれど、知ったことじゃない。僕は全力で駆けた。外に飛び出して、家々の壁と屋根を蹴って、とにかく走った。行くあてなんてないけれど、アイオのお墓を目指した。アズの咲かせた花なんか枯らしてやりたい気持ちだった。墓石に抱き着いて、懺悔して、謝りたかった。それは僕のただの自己満足でしかないけれど。僕は、僕は、どうしたらいいの。ねえ、なんで種になったのアメジ。教えてよ。知ってたんじゃないの。自分がどうなるかほんとは知ってたんだろ。なんで、教えてくれなかったんだよ。僕じゃ種なんか拾っても、もう咲かせることが、できないんだよ。
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