Prolog 微睡みに揺れる蕾

『……ズ……、……サ、……ズ……、お願い、……て』

『こっちだよ』

『……ズ……、……サ、ねえ、……ズ……、やだ、やだよ……』

『目を覚まさないで。わたしの声だけ聞いていて』

『……い、目を……て』

『夢から覚めないで。そのままで――』

 誰かと誰かの、擦れた声が聞こえる。

 けれど僕には、それが誰の声なのか、よくわからなかった。知っているような気もするし、知らないような気もする。二つの声は、似ているようで、似てはいないようでもあった。ノイズがかかったように途切れていく、誰かの声。その声に、なんだかちくりと胸が痛むのだった。けれど、僕は『夢から覚めなくていい』と、僕に優しく語りかける声だけを信じた。擦れ行く声は、やがてリーン、リーン、と涼やかな音だけを残して消えていった。……この音には、どこか覚えがある。ああ、なんだっけ……そうだ、トライアングルの音みたい。リーン、リーン……音楽の授業で、よく鳴らしていたっけ……音楽? トライアングル……?

 なんのことだろう。

 僕は目を開けた。視界を桜色の花びらが、まるで蝶のようにひらひらと舞って横切った。僕の目の前に、鏡のような紫銀色の円盤があった。そこに映る、自分らしき姿に手を伸ばす。花びらは、僕の瞳から溢れて零れていたのだ。僕はそれを、不思議な気持ちで見つめていた。ひらひら。ひらひら。鏡あわせに映る僕の右頬には、三色菫が押し花のように張り付いていた。不思議そうに僕を見つめてくるその少年鏡像は幼かった。中学生か、小学生のような姿だ。懐かしいなあ、と思う……でも、学生? 学生って、なんだろう。

 考えが、うまくまとまらない。そうか、僕は、まだ子供だったんだっけ、なんて、とりとめのないことを考えていたら、僕の瞳から、ぶわりとが吹き出した。その反動で、僕の体は円盤からゆらゆらと引き離されてしまった。

 花びらは舞い続ける。上へ、上へ。つい先ほどまで、何を考えていたか、何が聞こえていたすら、曖昧になっていくのだった。僕は花びらの行く先を見上げた。水面を象ったような、色の編み目にそれは吸い込まれていく。編み目をくぐる時に、まるでラベンダーのように霧散して、紫色に枯れていった。それを眺めながら、僕はようやく、自分が水のようなものの中に溺れているのだと自覚した。僕の体は、花弁の揺蕩う温かなに包まれて、ふわふわと漂っているのだ。水面の上には、エメラルドグリーンの透明な石畳が浮かんで揺らめいていた。その先には、白銀色の三角屋根のお城が、逆さまにぶら下がっている。

 ――ああ、気持ちがいいなあ。

 僕はそっと瞼を閉じて、開いた。花びらが長い黒色の睫毛を弾いていった。

『目を覚まさないで。わたしが守ってあげる』

 澄んだピアノの音のような、柔らかい声が、辺りのを揺らして降り注いだ。僕は、泡のように昇っていく花びらを惚けたように見つめたまま、口を僅かに開けた。何かを言おうとして、忘れてしまった。少しだけ、何か、引っかかったのだけれど。ピア……? なんの、ことだっけ。

『だから、あなたはわたしを守って』

「うん」

 僕は、吐息とともにそう答えた。その途端、僕の体はふわりと急降下していった。色の雫がびしゃびしゃとしぶきを立てて、僕の体をべとべとに染め上げていく。やがて僕の体は何かにそっとぶつかって、止まった。ぶわりと黄色い花びらが舞い上がる。黄色い花の蕾ばかりが揺れる、花畑に埋もれていたのだった。チューリップの蕾だ。

 黄色――滑らかな質感のその蕾を見ていたら、不意に胸が苦しくなった。こんな色の髪の毛をした、誰かを知っているような気がした。花びらが髪みたいだなんて、おかしな話だ――僕は蕾達に埋もれて、深く息を吐いた。手が無意識に、その蕾をぽんぽんと撫でていた。まるで、誰かの頭を撫でるみたいに。

 そうしたら、蕾達は次々に花開いていった。そこから、クレヨンで書きなぐったようなミツバチが現れて、僕の額をお尻の針でぶすりと刺した。僕の眉間から、まるで絵の具を何色も混ぜて溶かしたような、汚くて、けれどきらきらとした液体がどろりと吹き出した。クレヨンって、なんだっけ、絵の具って、なんだったっけ――そんな考えも全部全部絞り出してしまうみたいに。僕は、空っぽになった。それだけはわかった。僕は掌を見つめた。透けた体には、血も通っていない。ここに浮かんでいるのは、ただ外側だけだ。その事実がどういう意味を持っているのかは、よくわからなかった。考えようにも、僕の考える力も、持っていたものも、全部さっきの液体に溶け出して、無くなってしまったのだから。

 僕を包んでいた、淡い色の水は汚く濁ってしまった。僕は口をぱかりと開けて、濁り水を少しだけ飲み込んだ。せめてもの抵抗だったかもしれない。……何に対する抵抗なのかは、わからない。飲み込んだ途端、咽せて、また吐いてしまった。ラベンダー色。黄色。赤色――僕から逃げていく血の色を見ていたら、絶望にも似た心地になって、僕はまた濁り水を飲み込んだ。飲み込んでは、吐いて、を繰り返した。やがて、濁り水はぐるぐると渦模様を描いた。僕は、半開きの目で上を見上げた。水面の上の、エメラルドグリーンの道と、白銀色のお城。その景色がプロペラの形に切り取られて、グルグルと時計回りに回転しているのだ。濁った汚い色は、瞬く間に上空に吸い込まれ、消えてしまった。お城の窓のステンドグラスからは、長く伸びる光の帯がスポットライトみたいに差し込んでいる。くるくる回って、まるで万華鏡みたいだった。僕の額に、色とりどりのスポットライトが当てられた。やがてプロペラはゆるゆると回転速度を落とし、僕の額にはピンク色のスポットライトが静止した。その色は、光の水となって僕を包み込んだ。

 あまりの眩しさと息苦しさに、僕は思い切り目を瞑った。とても強い引力が、僕を此処から――黄色の花の花畑から引き離そうとしている。僕は怖くなって、一生懸命踏みとどまろうとした。けれど小さな体ではとても抗えはしなかった。僕は敢え無くその光の中に溺れ、プロペラの方へと吸い込まれていく。

 プロペラは、僕の体が近づいていくにつれ、今度は反時計回りに回りだした。

 千切れてしまう、と僕は思った。僕の体は、あのプロペラの餌食となるのだ。

 けれど、抗えなかった。抗おうとする気にもならなかった。僕はすっかり花畑のことなんか忘れて、プロペラの向こうの景色が、綺麗だなあ、楽しそうだなあ、なんて思っていた。カチカチカチカチ、カチカチカチカチ。時計が針を刻むような音がプロペラから聞こえてくる。まるで、時間を急いて巻き戻しているみたいだな、なんて――

 誰かの、笑い声がした。嘲笑う感じでもなく、幼い少女が、無邪気に笑っているような声だ。

 僕の体は、バリバリとプロペラで引き千切られた。ガラスのように散らばった僕の破片は、やがて破れた画用紙の切れ端に姿を変えた。画用紙? 画用紙って、なんだったっけ……けれど、そんなことも考える暇はもうないのだった。画用紙の切れ端は水の奥底へ沈んでいった。僕の指先から紫色の花粉がさらさらと零れていく。痛くはなかった。画用紙の切れ端は、やがて白い鳥の羽になった。――天使の羽みたいだな、と僕は、天使なんて見たこともないくせにそんなことを思った。

 もう、何かを、思い出す必要もない。引き千切られるのも、そんなに苦しくはなかった。生まれ変わるのも、悪くないな、なんて。

 不思議なことに、そんなことを考えていた。僕は瞼を閉じて、また開いた。

 黄色の花畑に落ちていった白い羽は、花に触れて蕾へと姿を変えた。ああ、画用紙が花になったんだ、と僕は考えた。じゃあ、花が枯れると、画用紙になるんだね――残された僕の体は、さらさらと粉になって消えていく。

『だめだよ』

 また、声が聞こえた。僕はそっと目を閉じた。

『もう、考えないで。さあ、じゃあ、もういいよ。目を開けて。ここはあなたの夢だから』

 優しい声とともに、光がぷつりと消えた。真っ暗闇の中で、僕の名前を呼ぶ声が聞こえて、だんだんと近づいて来た。誰か知らない、男の声だ。それを煩いなと思いながら、僕はまどろみの海から次第に浮上して、あたたかな布の中で身じろぎをした。


 朝陽が、僕の睫毛を震わせる。



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