第一章 花枯れのファンファーレ

一、目覚め

「……ズ様、ア……様」

 音太い声が僕に話しかけてくる。控えめに、けれど何度も何度も、しつこく。小鳥のさえずりなら気にならないけれど、名前を呼ばれているとなれば、別だ。まだ気怠げな眠気は体から抜けきらなくて、僕は一層毛布の中に包まった。瞼の境から、白にも金色にも見える日の光が滲んで来ているけれど、もう少しは眠っていたい。なんだか怖いような、温かいような、そんな不思議な夢を見ていた。……夢の中でも、起きる時間だよと誰かに言われたような気がするけれど、聞かなかったことにしたい。僕はあまり、寝起きがいい方ではないのだった。ああ、どんな夢だったかも忘れてしまったなあ……。

「……ズ様!」

 声は尚も僕に呼びかけた。煩いなあ……もう少し眠らせてよ、なんて思いながら、僕はきゅっと眉をひそめた。布団の中は温かくて、ぬるま湯につかっているみたいだ。睫毛が見えるほどの僅かな隙間、瞼を開いた。真っ白な明るい景色が見える。ああ、これはきっとシーツだなあ、なんて思って、お日様の香りをすん、と吸い込んで僕は再び瞼を閉じた。日の光に照らされて、瞼の裏側が淡い橙色に見えていた。僕はふふ、と笑いながら布団の中に潜りこんで、口元を覆い隠した。

「アズ様! 公務の時間です!」

「はい!」

 声が、比較的高らかに鳴り響いた。公務、という言葉に血の気が引くような思いがして、僕は思わず飛び起きた。勢いよく起き上がってしまったせいで、まるで金槌で殴られた後のように景色がちかちかと白く瞬いた。朝は低血圧なのに――僕はずきんと疼いた頭を押さえて項垂れた。そんな僕の頭上から深い溜息が降ってきて、僕の寝癖だらけの黒い髪をふわりと撫でる。

「……ようやく起きられましたか……アズ様は本当に朝がお弱い……ああ、つらい」

 しおしおとした声の主を、僕はぼんやりとして見あげた。目の前には、朝の柔らかな逆光を浴びて、すらりとした男が項垂れたまま立ち尽くしている。男の木の肌のような焦げ茶色の髪は、水色のリボンタイで一つに結わえられ、肩にちょこんと乗せられていた。

「えっと……」

 僕が眉根を寄せながら唸ると、男はゆるゆると顔をあげた。切れ長の目の奥で、鮮やかな緑の瞳が滲んだ涙をきらりと瞬かせている。目の下には、消えそうにない隈がくっきりと刻まれていて、とても不健康そうだ。見た目の歳は、十代後半と言ったところだろうか。幼すぎというわけでもないけれど、目の前の男は決して大人とは言えないように僕は思った。男の首筋の左側には、襟に隠れて桜草の紋が見え隠れしていた。

 この男に、見覚えが無い、と思った。だからと言って、恐怖だとかは感じない。僕の心は、目の前の男をすっかり信用しているみたいだった。僕は寝起きのぼんやりとした頭で考えていた。徐に辺りを見渡す。ほとんど白に近い、水色の壁、真っ白な床。淡い紫がかった銀色の窓枠には薄い銀色のカーテンがかかって、窓の隙間から漏れてくる風で揺らめいていた。

 ここは、どこだろう――そんな疑問が、僕の頭の中を魚のようにゆらゆらと泳ぐ。自分の名前でさえ、ぱっとは思い出せない。この場所も、僕の名前らしきものを呼んだ目の前の華奢な男のことも、今何時なのかさえ。

 それなのに、不思議と恐怖はなかった。知らないはずなのに、多分きっと知っているんだ、寝ぼけているだけなんだ、とすら、能天気に考えていた。

 ――『だめだよ。もう、考えないで』

 誰かにそう言われたような気がするのだ。誰に言われたのか、いつのことかも曖昧なのだけれど。

「……あの……あなた、誰?」

 僕は首を傾げて、目の前の男に尋ねてみた。すると男は、目をこれでもかと見開いて、まるでこの世の終わりを見たかのような、絶望的な表情で両の頬を手で挟んだ。……そんな絵なのか、写真なのかを、どこかで見たような気がするけれど、思い出せない……。僕はただ、男の表情を呑気に眺めていた。……なんというか、本人に笑わせる気はないんだろうけど。

「アズ様ぁあああああっ!? どうなされたのですか!? 腹心の部下ウバロをお忘れですか!? ほほほほ本当にどどどどどうなされたのですか!? お休みの前に頭でも打たれたのですか!」

 男は絶叫した。僕は苦笑した。そろそろ眠気も覚めてきた。目を擦ると、睫毛に埃でも積もっていたのか、ざらりとした感触が指を撫でた。指を見つめると、紫色の埃がついていた。……まるで、何かの花粉みたいだ。

「あ、えっと、あれ、その、あなたは僕の部下……なの?」

 僕は気を取り直して、顔をあげた。男は困り眉で今にも泣きそうだった。

「あなたとか呼ぶのやめてくださいよぉおおおおお! いつも通り豚と罵ってくださいっ!」

「いや、それだけは言ってない自信がある」

 僕はすんと冷えた目で彼をじっと見つめた。ウバロ、って言っていたっけ。名前を聞いたら、なんだか聞き覚えがあるような気もしてきた。

「あなた……じゃなかった、君、は僕の部下なの? 僕より年上そうなのに」

「確かにぼくはあなたより背が少しばかり伸びてしまいましたが! 一つ年下です!」

 ウバロはぐっ、と拳を力強く握って見せた。

「嘘でしょ……」

 僕は眉を潜めた。僕は……そう、十四歳くらいのはずだ。少し前に鏡で姿を見たから、間違いない。どこで見たのかは忘れたけれど、でもあの姿は、確かに十四歳の時の僕だった。だとすれば、このウバロは十三歳くらいと言うことになる。……すごく背が高いのに、幼く見えるのはそのせいか、となんとなく納得した。

 眉間を曲げた指の背で撫で始めた僕を、ウバロはキラキラと輝くような眼差しで見つめていた。ウバロ……ウバロ……アズ……そう、僕の名前は、アズだ。苗字は、なんだったっけ……苗字? 苗字なんてものがそもそも存在しただろうか。ああ、そもそも僕は、そう、ここは、王宮で宛がわれた僕の寝室だ。だから見覚えが無いはずはない。昨夜もカーテンを閉めて寝るのを忘れてしまった。そうだ、覚えているじゃないか。

 ああ、なんだろう。じわじわと、知っているはずのことが、たくさんの思い出が、水で溶かした絵の具のように瞼の裏側に滲んで、重なっていく。僕は目を開けた。世界がぱっと光が点る様に鮮やかに色づいたような心地がした。そうだ、このちょっと煩いのは――確かに僕の部下だったかもしれない。まだ子供なのに政府の要職についてしまった僕を、他の皆みたいに羨むでも恨むでもなく、僕のために心を砕いてくれる後輩だ……政府? 政府の、しご、と――。

「うわっ、今何時!?」

 僕はようやくそこで、ばっと顔をあげた。ウバロは肩をすくめた。

紫の刻午前九時を過ぎました……アズ様」

「いけない……! 寝坊した!」

 僕は寝台から飛び降りて慌てて身支度を整えた。そうだ、思い出した。カーテンを閉めないで寝たのは、部屋が暗いままだといつまで経っても起きられないからだ。いつまでも起きてこなかったら、起こしてくれとウバロに頼んだのも、僕だったじゃないか。何をのんびり当たり前のことを不思議に思っていたんだろう。

 白いシャツを着て、黒いリボンタイを首に結んで、鏡台の上に置かれたポッドから水を汲み、ごくごくと飲み干した。その間、ウバロは僕の寝癖を直そうと、髪を梳いてくれていた。その手を振り払って、ばたばたとクローゼットに駆け寄る。黒い半袖のベストと半ズボン、アームカバーをそれぞれきびきびと身に付けた後、けんけん飛びのような恰好で急いで黒いハイソックスを履いた。ウバロは櫛に纏わりついた僕の髪をぶちぶちと引き抜いていた。その仕草を幼いなと思いながら、黒い革靴の中に足を紐も結ばずねじ込んで、最後に白いボーダーラインの引かれた淡いピンクのポンチョを羽織った。枕元に転がっていた、ピンクの蕾が先端に象られた杖をひっつかんで、ついでにウバロの首根っこも掴んだ。ウバロは「あれれれ」と言いながら櫛を鏡台の端っこに辛うじて置いた。

 扉を開けて、嵐のようにエメラルド色の回廊を駆け抜けた。ウバロも走ってついてきた。足が長いから、むしろ追い越されそうになって少しだけムッと来た。エメラルド色の石畳が、僕の足下を後方へびゅんびゅんと駆け抜けていく。耳元で、轟々と風を切るような音がしていた。僕の頭の中でも、色とりどりの記憶の欠片ピースが怒涛の様にばらばら降り積もっていた。万華鏡がかちりと回って、欠片ピース達がぴたりと噛み合い像をなしていくように。どうして忘れた気になっていたのだろう。宝石のような輝く回廊を駆け抜けながら、僕はようやく、夢から覚めた心地で今までのことを思い出していた。


     ✝


 僕が生きるこの世界は、《マグ・メル》と呼ばれる彩りに満ちた世界だ。花は枯れることなく辺り一面に咲き誇り、蕾が花開くと同時に花の中から生まれる蜜蜂が花の世話をする。世界中に、花の甘い香りが絶えず漂っていて、そのせいか、人々の肌や髪もどことなく花の匂いがする。陽の光の下で咲く花もあれば、夜にだけ花開く蕾もある。昼間の情景も色鮮やかで目を見張るものがあるけれど、夜の風景も格別だ。月明かりに照らされた白い花達は暗闇の中でぼう、と蛍のように緑白色に輝いて見える。

 一つ一つの花は、全て王室で厳重に管理されている。だから勝手に摘みとってはいけないし、ましてや枯らしてはいけない。花が枯れないように魔法をかけ続けているのが、【花魔法使い】、あるいは【花魔道士】とも呼ばれる役職ジョブにつく者たちだ。花を管理するための六つの魔法――水、光、風、闇、土、音属性の魔法を、僕達は一まとめに【花魔法】と呼んでいる。もう一つ、魔法には火属性の魔法があるのだけれど、それは花を枯らしうる魔法として、花魔法使いは使っちゃいけないことになっている。魔法使いを目指す子供たちは、王室管理下の魔法学校に数年通って、資格を得る。火属性の魔法が使えるのも才能なのだけれど、それを使いたければ花魔法使いにはなれない。その代り、彼らは暖炉の火をくべ、食べ物を調理し、人々が生きていくための手助けをする。花魔法使いは世界のための魔法使いで、火属性の魔法が使える魔法使いは人のための魔法使いだ。

 逆に、花魔法使いは六つの属性の全てを使いこなせる者でなければならない。けれどそれぞれの花魔法使いの能力によって得意な属性というのは違っているわけで、全ての属性を均一に使える花魔法使いというのは実はそう多くはない。多くはない……のだが。

 僕は幸か不幸か、それら六つの属性魔法を全て均一のレベルで――もっと言うなら人よりも若干上手に使える能力というものがあるらしいのだ。

 そのせいで、僕はまだ十四歳という子供なのだけれど、二年前から王室の政府に高位役人として雇われる羽目になってしまった。おかげで家にまったく帰ることができず、こうして王宮で宛がわれた一室で寝泊まりをする身の上だ。

 僕が花魔法使いになった理由は、世界のためだとか高尚な理由じゃない。とても素朴な動機だ。もしかしたら、そんな理由で花魔法使いを目指す人間なんて、そうは多くないのかもしれない。けれどそれは、僕にとっては大事な願いだった。

 僕は、幼馴染であるニーナを、喜ばせたかった。


 ニーナと出会ったのがいつだったか、実を言うと覚えていない。どうして一緒に暮らしていたのかも定かじゃないのだ。思い出そうとすると、記憶に煙のような靄がかかって、思い出そうとしていたことすら忘れてしまう。だからきっと、本当に幼い時から一緒にいるのだろうと思う。一つだけわかるのは、僕とニーナは血がつながっていないということだ。どうしてそれだけははっきりと確信しているのか、僕自身にもわからない。そして僕達には、この世界に【親】がいない。いついなくなってしまったのか、元からいたのかどうかさえ曖昧だ。僕達は、僕が魔法学校に入るまで、二人で寄り添うように生きてきた。

 僕はきっとずっと昔から、誰に教えられたわけでもないのに、“ニーナは僕の本当の家族ではない”と知っていた。そして、この《マグ・メル》では彼女を何があっても守らなければならないんだと、半ば強迫めいた気持ちを心に抱えていた。ニーナのこと以外、僕の思い出は全て揺らめく煙の向こう側にある。どうしてこの世界は一つしかないのに、≪マグ・メル≫だなんて名前があるのだろう――たとえばそんな、きっと誰も持たないような疑問が時折僕の頭を駆け巡って、心がしんと冷えるのだ。考えても答えが出るものじゃない。それでも空恐ろしさは発作的に僕の心を駆け巡った。幼い頃は、僕はよく怯えて、頭を抱えて床の上で蹲っていた。そんな時、ニーナはいつも何も言わずに僕を抱きしめて、背中を撫でてくれていた。そうしてもらうとなぜか酷く心が凪いだ。学校の寮に入ってからはニーナに背中を撫でてもらうことは無かったけれど、ニーナのためにという願いが僕を支えた。僕の心の中に揺れる、ただ一つの灯が、ニーナだった。

 ニーナは、仄かに赤みを帯びた黄色のチューリップを思わせる濃い金髪に、珍しいバイオレットの瞳を持った女の子だ。足が悪くて、自分の力では歩くことさえできない。一緒に暮らしていたころは僕が彼女を負ぶっていたものだけれど、今は傍に居られないから彼女のために給金で車椅子を買った。

 ……そう言えば、また随分長いこと会っていないけれど……元気にしているだろうか。本当は仕事なんかやめて、ニーナの下へ帰りたい。だけど、そうしたらお金がもらえない。ニーナのためにと言い聞かせて、僕は毎日単調な仕事を続けている。花の管理、品種改良、香りの分析、魔法式の確立――

 僕は、ニーナがいつもどこか悲しそうな目で窓の外を見るのが辛かった。ニーナは花が好きで、殊に瞳の色に似たラベンダーは大のお気に入りだった。あの子がぽつりと呟いた言葉を、忘れることなんてできない。

『ああ、お庭が一面ラベンダー畑だったらなあ』

 僕はその言葉を聞いて、ニーナのためにラベンダーの花畑を作ってあげたいと思った。どうしてニーナがラベンダーにこだわるのかはわからなかったけれど、そう言ったニーナはなんだか泣きそうで、僕はたまらなくなって、花を扱える唯一の仕事である【花魔法使い】になろうと決めたのだ。

 花魔法使いの資格を得て、僕の左頬には花の紋――花魔法使いの証が浮かび上がった。それは三色菫ビオラの模様で、何となく嬉しくなったのを覚えている。紫色のビオラは、ニーナの瞳と同じ色の花だった。

 そうして僕は花を扱う術を身につけたのだけれど、その実態は思っていたものとは全く違っていた。花魔法使いもまた、厳正な法律に縛られているのだ。勝手に種を植えることはできないし、自由に蕾を花開かせることもままならない。花は政府に厳密に管理されるべきものであって、個人の都合でどうこうできるものではないのだ。もしも法を破れば、牢に入れられる。場合によっては一生牢から出られないし、花魔法使いの資格を剥奪されることもある。僕らは僕らの都合で誰かのために花を咲かせることはできない。そうして僕らが規則に縛られながら育てた花の彩りや香りは、世界中の人々を幸せにする。だから、何の問題もない。不満なんて、抱くものではない。

 けれど、そんな世界への違和感は、僕の中で淡雪のようにちらめいて、心の奥底にしんしんと降り積もっていくのだった。まるで歯車の歯が僅かに欠けて、ゆっくりと、確実にかみ合わなくなっていくみたいに、自分が世界とずれていく――そんな予感が、墨が水に混じるようにじわじわと僕を苛んでいる。とても気が重い。今日もまた、与えられた仕事をこなすために開くこの執務室の扉が、僕には酷く重たく感じられる。いつも寝坊をしてしまうから、廊下を渡る時はがむしゃらだけれど、この銀色の扉の前に辿りつくと必ずしばらくは立ちすくんでしまうのだった。

 僕は頭を振った。違和感なんて持っちゃいけない。それが雪のように僕の心を冷やしてしまうのなら、そんなものさっさと溶かしてしまえばいい。家で僕を待つニーナのために、僕はこれからも平穏に毎日を過ごして、仕事をこなさなければいけないんだ。こんな不満、ただ、理想と現実が違うと言って不貞腐れている子供の我儘だ。……そうだ、結局僕は、今の僕の立場に不満たらたらなのだと思う。時間が欲しい、自由に魔法を使いたい、だなんて、幼子みたいな我儘を抱えて、駄々をこねている。けれどそれは許されないことなのだから、不満が顔に出ないように気を付けないと……。透き通った水色水晶のドアノブを回して、重い扉を開いた。部屋の中では、青白い壁に影を作って、茶髪の厳めしい壮年の男が眉間にしわを寄せて佇んでいた。僕は彼に――モルダ室長、僕の直属の上司に今日もにっこりと微笑みかけて、頭を垂れた。

「遅くなってすみません、モルダ室長。お呼びだと聞きましたが」

「遅い。君は優秀だが、その、朝に弱い癖だけは何とかならんのか。もう四半刻も待っていたぞ」

 モルダ室長は床に響くような低い声で唸った。明るい茶色の目が、ぎゅっと釣り上がっている。

「すみません」

 僕は肩をすくめた。僕の寝起きの悪さに関しては、魔法学校の寮に入った時から再三再四叱られていたし、僕自身も危機感は持っているのだけれど、ここまで直った試しがないのだった。多分モルダ室長も、今では半分以上諦めているのだろうと思う。昔は扉を開けた途端に怒鳴られたものだったけれど。

 モルダ室長はふん、と鼻を鳴らして僕を流し見た。胸の前で組んだ腕を解き、手に握っていた書類を、投げるように僕に寄越した。

「火急の案件だ。厄介なことに、今は勲三等以上の魔道士達が出張で出払っている。残っているのは君くらいだ……君が、この罪人を捕えよ」

「勲三等……そんなに深刻な状況なんですか?」

 僕は書類と睨み合いながら尋ねた。

 そこには、異端の魔法――すなわち、花を枯らすと言う禁忌の魔法を扱う大罪人の情報が、やや曖昧に示されていた。どう言った類の魔法を扱うのか、どれくらいの実害が出たのか、大事なことは何も書かれていない。ただ、“勲三等以上の魔道士の出動を要請す”ということだけが、国王のサイン付きで記されている。

 勲等と言うのは魔道士――つまり政府の役人として要職についている魔法使いの序列のようなもので、最下位を八等として数字が少ないほど能力が高い。……有体に言えば、数字が少ないほど立場がえらいということだ。ちなみに僕は勲二等、ウバロは勲四等だ。そもそも勲四等だって、普通は三十歳を過ぎないとなかなか受け取れないわけで、だから、ウバロはもっと自分に自信を持ってもいいはずなのだけれど……。僕は僕から少し離れた後方で背中を丸めて立っているウバロをちらと横目で見やった。ウバロはおろおろしている時のくせで、唇を指でいじりながら目を泳がせていた。僕は目を閉じて、室長に気付かれない程度に小さく嘆息した。

「花を枯らすと言うことですから、火属性の魔法でしょうか? それとも土属性の亜種……いずれにせよ、いつにも増して具体性にかける書面ですね」

「罪人にやられた者達が未だに目を覚まさないのだよ」

 モルダ室長は栗色の顎髭を撫でながら、忌々しげに呟いた。僕は顔をあげて、思わず眉根を寄せた。

「目を覚まさない? それは、どういう……」

「罪人と相対した者が誰一人語る術を持たない今、これ以上の詳細をまとめることは不可能だった。地方に散らばった上位の魔道士には無論出動要請を出してあるが、到着に数時間はかかるだろう……実害を減らすためにも、今は君に行ってほしい」

「わかりました」

 僕は頷いた。

「被害者は、眠っているのですか? それとも、大怪我を?」

「両方だ。一度目を覚ました者は悲鳴をあげて怯えるばかりで、誰が何を言っても正気に戻らない……よほど恐ろしい思いをしたのだろうと、医者は言っている」

「そう、ですか……」

 僕はウバロに視線を寄越した。

「ウバロ、部隊を整えてくれる? 場所は水銀通り三丁目の外れだ。すぐに出発するよ」

「はい!」

 ウバロは弾かれたように返事すると、勢いよく頭を下げた。ばたばたと大きな足音を立てながら落ち着きなく廊下を駆けていく。遠ざかる足音に、「廊下を走るな!」だなんて、子供に言う様な室長の怒鳴り声が響いた。

 僕は書類を見つめながら、じわりと心の臓に滲むような苛立ちを覚えていた。

 あんなにきれいな花たちを、意図的に枯らすなんて。なんて惨いことをするんだろう。どんな理由であれ、花の命を踏みにじる者は赦せないよ――そんなことを考えてしまって、はっと我に返る。

「いけない……」

 僕はこめかみを指ではじいた。

 罪人にだって何か理由があったのかもしれない。与えられた情報に惑わされがちなのは僕の悪い癖だ。

 ――いや、そうじゃないな、僕は多分、羨ましいんだ。

 室長に頭を下げて、僕は執務室を後にして、庭を目指した。溜息が零れる。心にはまたしんしんと雪が降り積もっていく。

 花を枯らすのは悪いことだけれど、そうして罪人のレッテルを貼られてしまうのだけれど、それでも心のままに魔法を使えるのはどんなにか自由だろう。もしかしたら罪人も心が疲れてしまったのかもしれない。僕だって、似たようなものなんだから。罰を受ける覚悟がないだけだ。本当は、勲二等だなんて大層な階級を掲げながらも、心の中では『勝手に花を咲かせたい、ニーナをただ喜ばせたいだけなのに』って、不満を抱えて、雪に隠して見ない振りしている――ああ、罪人に感情移入しちゃうのは僕の悪い癖だけれど。

 僕はもう一度溜息を零した。庭に続く深い緑色の扉を体重をかけて押し開ける。赤や橙色、紫、白――色とりどりの薔薇が咲き誇る庭の前で、ウバロと軍の一部隊が控えていた。杖が汚れていないか確かめた後、僕は杖の足で土の上にさらさらと絵を描いた。移動用の転送魔法の陣だ。花籠を抱えたウバロの、気を付けてくださいね、というか細い声が僕の背中にぽんとぶつかった。振り返ったら、ウバロは捨て置かれた猫みたいな様子で背中を丸めて僕を見ていた。僕は首を傾けて笑った。雪が降り積もる。降り積もって、溶ける間もなく、真っ白に僕の心の臓を覆い隠していく。


 そうして僕の心が真っ白な雪景色を夢見た日、僕は彼に出会った。


 花に愛されたはずの、花の愛し方を忘れた、哀しい少年に。



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