二、花枯らしの少年
最初は逆三角形。重ねるように三角形。そうしてできた六芒星の頂点を結んで、円を描く。六芒星の谷と中点を結んで、放射状に線を伸ばす。
――十四人連れて行くから、大きさは……これくらい。
あたりをつけて、六本の線を等長に伸ばした。それぞれの線の終点を、同じ角度で繋いでいくと、最初の六芒星をぐるりと閉じ込めた大きな六角形の図ができる。その後は、六角形の角のそれぞれにも、小さな正三角形を二つ描く。この三角形は、六芒星の中に作られた十二個の小さな三角形と等しい大きさにする。二つの三角形の一辺を半径にして、六角形内に収まるように円弧を描く。出来上がった大きな六角形の陣は、まるで万華鏡の一角を見つめたかのような模様になっている。僕は陣に歪みがないかを確認して、ふう、と小さく息を吐いた。
魔法の全てに魔方陣が要るわけじゃない。普通、僕らは簡単な詠唱だけで魔法を発動させる。けれど、空間を移動するような魔法は、術者の能力だけでは支えきれないのだ。だから魔方陣の力を借りる。いわば、魔方陣は術者の力を増幅させるために使われる洗脳的記号だ。僕達は魔法を使う時、魔法でどんな結果をもたらすか、イメージする。どの属性の魔法を、どれだけ使って、どれほど形を歪ませるか。それぞれの属性の魔力を、色とりどりの
魔力の破片ピースを組み合わせるための視覚的イメージとして、最も重宝されるのが万華鏡だ。バラバラの欠片が、万華鏡の筒をくるりと回転させるだけで、かちりと組み合わさって視界に花を咲かせる。だから僕達が魔法学校で最初にさせられるのは、ひたすら万華鏡を覗きこむこと、実際に自分でも万華鏡を作ってみること、観察された対称性を持つ色とりどりの花を、スケッチすることなのだ。そうして幾何学的な想像力を育て上げる。魔法使いに一番必要な能力は、それが天賦の才であれ、努力で勝ち取ったものであれ、想像力に他ならない。
自分のためだけに使う魔法なら、脳内のイメージだけで事足りる。けれど今回みたいに、十数人で同じ場所、同じ時間に揃って転移するためには、術者が転移させる人間全員の体格を頭に刻み込んだ上で、それらが空間でどのように動くかまで脳内で詳細にシミュレーションしなければならない。そしてそれは、恐らく普通の人間には無理だ。少なくとも、僕にはできないし、僕より下位の勲等の者達も誰もできない。だからこうして、万華鏡模様の魔方陣を描いて、目に焼き付けることで想像力を増幅させるのだ。魔法学校で万華鏡の筒の中身を見続けた時のように、陣という切り取られた
と言っても、僕は本当は陣を他の人よりも少しだけ早く描きあげることができる。だから、僕に関して言えば、一回一回簡単な陣を描いてもそこまで大きな違いはないのだった。現に、大きなコンパスを使って一時間近くの時間をかけて描く人もいるようなこの陣形を、僕は今も十分足らずで描き上げることができた。昔から、絵や図を描くのはなんとなく得意だった。僕がそれを積極的にしないでいるのは、幾何学的な図形を描くのがなんとなくつまらないからだ。
どうせ描くなら、幾何学的でもなく、写実的でもなく、歪みと揺らぎが共存した、魂を閉じ込めたような抽象的な絵を描きたい――そんな気持ちが、陣を描く度むくむくと胸の内に湧き上がる。なぜそんな心地になるのか、自分でも説明がつかない。写実画だろうが、抽象画だろうが、僕はこの世界で一度も描いたはずはないのに。だから、未練なんてないはずなのに。
……この世界で? 何を言っているんだろう、僕は。よくわからない。ああ、今はそれどころじゃない。まだやるべきことはあるのだから。
僕は振り返って、ウバロの傍に歩み寄った。ウバロは僕に花籠を手渡した。その中には、几帳面なウバロが色ごとに分けて摘んだ薔薇の花が、零れんばかりに詰められていた。僕は花を確認するふりをしながら、ちら、とウバロを見上げた。ウバロは得意げな、幼い笑顔を満面に浮かべている。僕は気づかれないように小さく嘆息した。……こんなにたくさんの花はいらない。少しでいいといつも言っているのになあ。
花を摘み取ることは規制されているけれど、例外はいくつか存在する。たとえば、こんな時。
遠い場所を即座に移動するための転移魔法、あるいは物資を運ぶための転送魔法、厳重な鍵をかけるための封印魔法、その解除魔法――そういった、高度な技術と複雑な術式の組み合わせが必要な大がかりの魔法を使う時は、魔方陣に加え、更に花弁を媒介にする。各属性を花の色で請け負って、術者への負担を減らすのだ。水魔法は青い花、光魔法は黄色の花、風魔法は白い花、闇魔法は紫の花、土魔法は橙色の花、音魔法は桃色の花。ぴったりなイメージの色の花がなければ、似たもので代用するけれど、ここは王宮なのでもちろん花は各種揃っている。僕は籠の中の花たちの品質を確認しながら、呟いた。
「ちゃんと記帳した?」
「はい!」
ウバロは深緑色の帳簿を僕に手渡した。ページを開いて、そこに書かれた線の細いウバロの綺麗な字を目で追う。そこには、どの花をどれだけ摘み取ったのかという詳細な数字が記されている。僕は頷いて、帳簿をウバロに渡した。あとでモルダ室長に小言を言われるかもしれない。花を摘みすぎだって。部下のやったことの責任は大体上司である僕にあるわけで。多分ウバロは、少しでも僕の負担が減るように――なんて一心で、花を過分に摘んだのだろう……いつものことだ。実際のところ、僕は数輪の花で十分転移魔法をまかなえるのだけれどなあ。
僕は籠を抱えたまま、先刻描いた六角形の陣の脇に立った。籠の中の花を無造作に掴んで、六角形の頂点を覆うようにばらばらと撒いた。一隅、二隅……六角形の頂点それぞれに色違いの花の山を作り、更にそれらを繋ぐようにはらはらと花を落としていく。六角形の周りに更に花の円を作るのだ。青から初めて紫へ、紫から桃色へ、橙色、黄色、白……そして青の頂点へ再び帰る。
出来上がった大きな花のサークルの中央に佇み、僕は杖を握りしめて詠唱を始めた。僕の足下の六芒星の中に描かれた小さな十二個の三角形から、赤い光の花弁がぶわりと湧水のように吹きだして、蝶々のようにひらひらとサークルの中を飛び回り始めた。赤の色は、それが転移魔法の核である証だ。額に滲んだ汗を手の甲で拭って、僕は振り返り、待機していた兵士たちとウバロに笑いかけた。ウバロはほっとしたように肩をなでおろした。
「花を踏まないように、花の内側へおいで」
僕の言葉を合図に、兵士たちが花のサークルの内側へと恐る恐る足を踏み入れた。こんな兵士を王宮で雇う羽目になったのは、〈メメントモリ〉という名の反乱組織が王室と対立して、活動範囲を広げているからだ。近頃は、その対立関係はまずます激化の一途を辿っている。しがない研究員の一人である僕なんかにも、こうして直属の一部隊が任されてしまうくらいには。
全員がサークルの中に入ったのを確認して、僕は再び詠唱を続けた。詠唱が終わって目を開けたら、赤い光の向こう側でウバロが心配そうに僕を見つめているのが見えた。僕は、輝きを増した光に目が眩む直前、彼に大丈夫だよと笑った。
✝
この世界の存在意義は花を咲かせ栄えさせること、ただそれだけなのだ、それ以外には何もないんだ――なんて言ったのは、誰だったろうか。
僕達人間の存在意義は、花を枯らさないための魔法を繋げていくことだ。花を愛で続け、美しいねと笑いあう。そのためだけに僕らは存在している。小鳥も蝶も蜜蜂も、花の彩りに煌めきを添える
彼らの目的が何であるのか、ただの政府への反抗なのか、それとももっと違う目的があるのか、僕達にはわからない。僕達にわかっているのはただ、彼らの行いを許してはならないと言うことだ。厳重に取り締まり、法に反したものは捕えて罰せよ――なぜなら、“そう決まっているから”。
花を枯らす集団――〈メメントモリ〉と呼ばれる彼らの活動は、主に火魔法を扱い、花を枯らすアイテムを用いることで、世界中に咲き誇る花畑を無残に枯らしていくだ。彼らの扱っている薬品がどのようなものであるのか調べるのも、僕達勲二等級の花魔法使いの仕事なのだ。その組成の変化について、僕には少しだけ引っかかることがあった。
薬品の中身は、数年前までは明らかに草花や土への毒性を持つ物質だった。それがここ最近、とある界隈で撒かれる薬だけは土に害のないものに変わっていたのだ。正しく言うならば、害を持つ物質が検出されない。それを他の魔道士は何らかの魔法によるものだと言って、魔力の構造式の解読に躍起になっているけれど、僕は違うと思う。ちなみに、構造式と言うのは、魔力の
僕が引っかかっているのは、その薬品が撒かれたと考えられる花枯れの場所の土が、触れると温いということだ。
僕ら花魔法使いが火属性魔法を学ばず、また使わない一番の理由は、花はお湯を与えると育たず枯れてしまうからだ。もしも火魔法の欠片ピースが誤って水魔法の塑像の中に不純物として紛れ込んだら、花に注ぐ水は温まって、花を枯らしてしまう。だから僕達は最初から火魔法の魔力を削ぎ落としているのだ。けれど、それを逆手に取っていたとしたら? わざと熱湯をかけているなら、いともたやすく花を枯らすことも可能だし、発動後の魔法の破片は人々の生活を支えるための暖として、空気に紛れてしまうだろう。頭がいい、と思った。初歩的な魔法で、術者に負担を強いることもなく僕達の目を欺くことができる――かと言って、確証もない。だから僕は、この考えを胸の内だけに留めていた。本当は、せめてモルダ室長にくらいは話しておいた方がいいのかもしれない。けれど僕は、なんとなくそれがはっきりと世界の害だとわかるまで、口に出したくはないのだった。それが、僕の浅ましい心のせいだとはわかっている。僕は僕自身の世界への反抗心を、その秘密を胸の内でくすぶらせることで、慰めていた。
それに、そんな初歩的な火魔法で花を枯らすことができるなんて安易に知れ渡れば、火魔法の使用自体が今以上に制限されかねない。極端に、火魔法の習得を禁止する動きも出てくるかもしれないのだ。この世界の夜は酷く冷える。暖炉の火がなければ人々はすぐに凍えて死んでしまうだろう。火を通さなければ食べられないものもある。僕の浅はかな予想で、人々の生活を脅かすわけにはいかない。……いくら花が世界にとって大事だからと言ったって。
けれど、それをわかっていながら、彼らが火魔法を花枯らしのために使っているなら話は別だ。善悪の区別もつかない幼子よりも、知恵のある愉快犯の方がずっと性質は悪い。僕は、僕が捉えるべき件の罪人は火属性の魔法を用いる〈メメントモリ〉の一員なのだろうとどこかで思い込んでいた。花枯らしを行う人間なんて、結局は悪者なのだとどこかで信じたかったから。
✝
《マグ・メル》は、その全体を王城を最北として南北八本、東西六本の、互いに直交する道によって区切られていて、まるで歪んだ方眼のような町並みをしている。南北の通りは東から順に
つまり僕の目的地である
その、三丁目、路地裏。
世界中で、花の咲く場所は例えば畑や野原、花壇など様々だ。水銀通りの三丁目は、人々の家や店が建ち並ぶ区画で、水色と淡紫色、乳白色のタイルが石畳状に敷き詰められ、その上に白い壁、赤煉瓦の屋根の家々が所狭しと林立している。屋根の煉瓦には雨の跡である白い染みが点々と落ちて、模様を作っているのだった。この区画にある花は、花壇の
花壇といったって小さいものばかりで、大した広さはないし、当然、咲いている花の数も微々たるものだ。そんな場所で、花を枯らして誰かが暴れ回っているだなんて、俄には信じられないような話だった。〈メメントモリ〉ならもっと広い場所から攻めると思っていたから。
僕達は無事に、目的とされるポイントから少しだけずらした家と家の間の
「あの……アズ様? 目的地とはいささか違うようですが……」
僕の肩口で、部隊長が遠慮がちに聞いてきた。僕は振り返らずにそこから見える街の様子を眺めながら答えた。
「相手がどういう攻撃を仕掛けてくるのかわからないのに、いきなりど真ん中に降りてもいらぬ怪我を負うだけだろ? まずは様子を見ないと」
「はっ」
部隊長は敬礼をする。子供である僕にそんなことしなくてもいいのにな、と思いながら僕は肩をすくめた。
家々の窓には、淡い黄色のカーテンが揺れている。そのカーテンの隙間から、街の人は通りのある一角を怯えたような眼差しで見つめていた。みんな、自分の家や店の中に避難しているらしい。
とりあえずは、被害を最小限に抑えられそうだと僕は小さく息を吐いた。壁に肩をもたせかけ、彼らの視線の先を覗き込む。先に到着していた別の部隊が、件の罪人達と戦っているのだろう。誰かが殴られているような鈍い音が何度も響く――その音を聞きながら、僕は少しだけ具合悪くなった。僕は頭を振った。……責務を全うしなければいけないんだ。
心の中で自分に喝を入れて、更に詳しい様子を見ようと僕は首を伸ばして壁から身を乗り出した。
視界の先に広がっていたのは、予想すらしていなかった光景だった。僕は目をゆるゆると見開いた。僕の後方でも、誰かが息を飲む音が微かに響いた。
その景色の鮮烈さを、僕はきっと生涯忘れられないだろう。
僕が、いや、きっと僕だけでなく、誰もが『≪メメントモリ≫の一軍であろう』と予想していた敵――それは、ただ一人の少年だった。恐らく、僕と年端はそう違わない。
プラチナブロンドの短い髪を獣のように逆立て、獣のように走り回る。身長よりも長く、幅は細いが厚みのある重たそうな金の大剣を振り回し、細い体のどこから出ているのかわからない異常な腕力で、自分よりも倍ほど大きい男達をただ一人で薙ぎ払う。少年は重力をものともせず、住宅街の白煉瓦の壁を駆けていく。壁を蹴り飛ばしては、空で器用に体を回転させ、怯えた表情の兵士たちに襲いかかる。少年の振り下ろした剣と、兵士達の剣が鈍い音を立ててかち合い、兵士の方が後ずさってよろめくのだ。少年はそのままくるりと宙で回転して着地し、その隙を逃さず再び地を蹴って兵士の鋼鉄の兜と、鎧を流れるように弾き飛ばす。兵士は腰を抜かして地面に仰向けになるけれど、少年は次の瞬間には彼に対して興味をなくしている。流れるような動きで剣を構える他の兵士を狙い、再び地を蹴り、壁を蹴る。剣と一緒にぐるんと空で回旋しながら、三人の男達を薙ぎ倒した。飛んで外れた誰かの兜を握りしめて、四方から降り注ぐ矢の連弾を弾き落とす。折れた矢が勢いづいて、僕の足下に落ちた。少年の青い目は瞳孔が針の穴ほどに狭まり、作り物の人形の目のようだった。その氷のような眼差しが、兵士達をじろりと見渡す。力なく飛んでくる矢を再び兜で弾いて、少年は再び壁を蹴った。また、誰かが倒れて鎧が地面に転がった。少年が身に纏う水色のサロペットの釣り紐は、千切れんばかりに空に揺れていた。
僕の背中で、兵士たちが息を飲む。政府の兵士とはいえ争い慣れしていない彼らと比べたら、その少年の動きと太刀筋の正確さが段違いに研ぎ澄まされているということが僕にでもわかった。
綺麗だ。
場違いにも、僕はそんなことを考えていた。肌がびりびりと震えている。僕は思わず口の端をつり上げた。
「あ、あのままでは皆やられてしまいます。救援を――」
部隊長が、切羽詰まったような声で僕に囁いた。僕は手を上げて、それを制した。
「待って」
「アズ様」
僕は、弧を描く少年の白羽のような動きに魅入りながら、少年の視線の先を追った。表情を読み取るのは難しい。少年の束のような髪の切っ先から、砕いた水晶のように汗がキラキラと輝いて空に舞う。少年は肩で息をしていた。その姿は、むしろ手負いの獣のようで。
怯えて牙を向ける、子供の狼のようで。
僕は、地面に転がる人の群れをぼんやりと見下ろした。銀色の剣。折れた剣。持ち主から離れて、ただの鉄塊に戻っただけの、もの言わぬ兜。少年の燃えるような青い目を、青ざめた表情で見上げるしか出来ない大人達。それを見下ろして、剣を構え続ける子供。僕は、少年の横顔を静かに見つめた。
あれは、狂っているんじゃない、と思った。少年を纏う、僕らの恐怖と悪意にただ怯えて、逃げ惑うようにがむしゃらに剣を振り回しているのだ。がむしゃらというには太刀筋が正確すぎるけれど、それでも、彼は誰一人傷つけてはいない。誰一人、血を流してはいないのだ。報告書とは大違いだ……室長の話と違うじゃないか。相対したものは悲鳴をあげて怯えた? 怪我と言っても骨を多少折られているだけだ。刺されたり四肢を切られたり殺されたり――そんな屍はどこにも転がってはいない。あの獣のような眼差しと動きに、恐怖が上増しされているだけではないのか――
「あの子は多分、本当は傷つけたくないんだ」
僕は呟いた。
「は?」
部隊長が不思議そうに聞き返した。僕は腕を上げて、少年を指差した。
「見てご覧よ。彼は誰も殺していないし、誰の血も流してはいない。あの子はきっと、皆があの子を襲おうとするから怯えて自分を守りすぎてるだけなんだ。きっと、敵意に敏感になってる」
僕は振り返って、戸惑いに揺れる部隊長の褐色の瞳を見つめた。
「だから、刺激しないで。君たちはできるだけ、あの子から手負いを受けないように気を付けながら、怪我人の救護に勤めて。彼には僕が応対する。いい?」
兵士たちはゆるゆると顔を見合わせた。一瞬の逡巡の後、彼らはきりっと顔を引き締めて僕に向き直った。
「了解しました!」
僕は兵士たちと共に混乱の最中へと飛び出し、駆けた。少年は即座に新たな敵を認めて、ぎらぎらとした敵意を向けてきた。その激しさに僕もまた一瞬足がすくんだ。僕は笑った。心臓はどくどくと脈打っていたし、杖を持つ手も僅かに震えている。それなのに目はらんらんとして少年を見つめていた。少年の極度の興奮に、僕も少し中てられてしまっていたのかもしれない。
少年のガラス玉のような蒼の瞳は獰猛な狼そのもので、僕らをじっと捉えていた。少年は音一つ立てず地を蹴り、壁に飛び移って屋根を駆けあがった。杖を構えた僕を敵と見なしたのだろう。屋根の上から、体を斜めに傾け、踊り子のようにぐるぐると回転し、僕めがけて剣を振り下ろして来たのだ。
少年の動きは恐らくは俊敏なものだったのだろう。僕の耳の奥で、カラカラと妙な音が響いた。まるで、古い映画のフィルムをゆっくりと回しているような――映画ってなんだったろう。ああ、こんなこと考えてる場合じゃないな、これは、やられちゃう。
少年の蹴った屋根瓦が外れて、くだけてばらばらになった。僕の顔にばらばら、ばらばらと赤い粉が振ってくる。まるで、花の種をばら撒いているみたい――なぜだか、そんなことを思った。
僕はどうしようもなく、見惚れていた。
針金のような細い身体が振り上げる細い剣は、日の光を浴びてキラキラと輝いている。青い目は炎のようにコウコウと燃えて瞬いていた。僕はもしかしたら、身に迫った恐怖に頭が麻痺していたのかもしれない。生来ぼんやりとしているせいで、自分がどれだけ危ない状況かにあるのかさえ、よくわからない。ただ、綺麗だな、と思うだけ。
青い目が降ってくる。その青を見ていたら、吸い込まれそうになった。僕の瞼の裏に白い靄がかった景色が広がった。足下ほどしかない、小さな勿忘草の花の群れ。その中央で、誰かが一輪の勿忘草を摘んでいた。すだれのように風に揺れる黒い髪、伏せられた目の奥で揺れている、暗い瞳。僕よりもずっと大人びた、儚い人。
――あなたは、誰?
走馬灯の靄なんか見ている場合じゃないと思うのに、僕はぼんやりとしたまま彼から目を離せなかった。彼の骨張った白く細い手につままれた勿忘草が、青と白の陽炎の奥でゆらゆらと揺れている。まるで消え入る蝋燭の火のように。
僕ははっとして、至近距離まで近づいた少年の青い目を見据えた。少年の右の額には、勿忘草の紋が浮かび上がっている――彼もまた、花魔法使いなのだ。
金の剣の切っ先が、僕の額をかすめる瞬間。
少年は、はっと小さな吐息を漏らして、僕から身を離し、タイルの上をざりざりと滑って後ずさった。僕の髪の毛が、その衝撃で後ろに吹かれて揺れた。
「ビ、オラ……」
少年は、僕をギラギラと睨みつけたまま、擦れた声で呟いた。
僕は微かに震えていた手で自分の左の頬を撫でた。頬はほんのりと温かかった。その熱に幾分ほっとして、僕は少年に笑いかけた。
「ああ、うん。そう、これ、僕の花の紋」
少年はしばらく呆然としたように唇を僅かに開いて、静かな息を吐いていた。やがて首を振ると、再びキッとした眼差しで僕と兵士たちを睨みつけた。
「……僕を捕えるの」
少年は低い声で唸った。
「さあ……」
僕はなんとも間抜けな声を出してしまった。少年は激高した。
「さあってなんだよ!」
「アズ様!?」
部隊長の素っ頓狂な声も、僕を追いかけて来た。
僕は微笑んだまま、ようやく動きを止めてくれた少年を刺激しないように少しずつ少しずつ歩みを進めた。その間、絶対に少年から目を反らさなかった。少年は訝しみ、警戒するように剣を真っすぐに構え直した。
「あんた、何者だよ」
少年は唸った。僕は肩をすくめた。
「一応……政府の役人だよ。君をなんとかしてくれって泣きつかれたんだ、上司に。上司に言われたら、嫌でも足を運ばないわけにはいかないでしょ」
「はっ」
少年は荒んだような眼差しで目を細めて、吐き捨てた。
「それで、僕を捕まえるって? やだよ。牢屋に入ったら一生出られないんだろ? そこで死ぬんだろ! 嫌だよ!」
「どうして嫌なの?」
少年はぎっと僕を睨みつけた。
「牢屋に入りたい人間がいるか!」
「入りたくないわけでもあるの?」
僕が続けて尋ねたら、少年は押し黙ってしまった。僕は、少しの音も立てないように、静かに細く息を吐いて、吸った。心臓はどくどくと鼓動を打っていた。少しでも油断すると、ぶわりと汗が噴き出しそうになる……それくらい、少年の警戒は僕の肌に痛かった。
「君が法を犯したのなら、僕は君を捕えなければいけない。魔法を使ってでも君を拘束するよ。君だけを特別待遇するわけにはいかないからさ。でも、誤解があるなら解かなきゃいけない。僕ね、すごくわかりづらい書類の一文だけで、君を捕まえるためにはるばるここまで来させられたんだよね。君が一体どういう罪を犯したのかも僕は分かってないってわけ。それってフェアじゃないよね? 君がどういう罪を犯したのか、君の何が罪だったのか、よかったら僕に教えてくれたらうれしいんだけど」
「頭沸いてる」
僕がにっこりと笑って首を傾けると、少年は吐き捨てるように唸った。
「もちろん、」
僕は言葉を選ぶように言った。
「抵抗するなら問答無用で捕まえるよ。見たところ、君も花魔法使いだよね? ここに、勿忘草の紋がある」
僕は自分の右の額を指差して見せた。
「でも、そうだとしたら尚更、魔術では僕の方が格上のはずだよ。君より強いってこと。わかる?」
「僕の剣に怯えてたくせに、よく言うよ」
少年は嘲るように笑った。僕も、へらりと笑った。
「うん、正直、死ぬかもなって思って怖かった」
少年は黙って僕を睨み続ける。微かに花の匂いを纏った風が吹き抜けた。しばらくして、少年は小さな声で、「へんな人」とぽつり呟いた。青い目の奥で、さざ波が揺れている。
少年から戦意が削がれていくのがわかる。僕は尚も少年から目を反らさず、その蒼の揺れを見つめていた。
少年はどこか自暴自棄になったような眼差しで目を伏せ、自分の足元を見つめた後、やがてふらりと立ち上がった。力なく握られた剣の切っ先が、がり、と白いタイルを引っ掻いて、傷を付けた。
それに伴い、兵士たちは警戒の色を強めて剣を構えた。僕はわずかに振り返り、視界の端に少年の姿を納めたまま手を上げて、制した。
少年は僕の腕が上がって下がるのを、黙って見つめていた。僕が再び真っすぐ少年に向き直ると、少年は目を泳がせて、灰色に汚れた靴の踵を引きずり、歩き出した。かちゃり、と兵士達の剣が音を立てた。少年はのろのろと進んで、通りの外れに佇む花壇の側で立ち止まった。
「に、逃げるのでは……」
誰かが不安そうに呟いたけれど、僕は目で制しただけで、少年の後に続いた。花壇を見下ろす少年の隣には、道と同じタイルの高い壁がそびえている。袋小路だ。彼に逃げる気はないのだ。
ぞろぞろと兵士たちが心許なさそうに僕の跡をついて来る。僕は少年よりも少しだけ斜め後方で立ち止まり、少年の思いの外細い背中をそっと見つめた。色褪せたサロペットは、砕けた石達の白い埃にまみれていた。少年は、顔を隠すようにくすんだ蒼色のフードを被った。
少年は、花壇に足を踏み入れた。僕の後ろで兵士達がざわめいた。土の上に、小さな足跡が刻まれる。少年の足下で、紫色と黄色の花が、みるみるうちに色をなくして、縮んで、枯れていく。枯れた花びらはやがて茶色の茎の先端でふるふると震えて、土に落ちた。
声にならなかった。
少年は、のろのろと振り返って、僕を見た。少年の大きな目に、灰色の影が斜めにかかっている。僕はその悲しげな眼差しから目を反らすことが出来なかった。少年の口元はわずかに開き、何の感情も浮かんではいない。
少年は、のろのろと空に手を翳した。その爪に、剥げかけの紺色のマニュキアが塗ってあるのを、僕はぼんやりとして見つめていた。少年は小さな声で詠唱を始めた。それは、花の上に雨を降らせるための簡単な魔法だ。詠唱の文言も、魔力の注がれ具合にも、何ら不備はなかった。少年のマニュキアが媒介になって淡く光り、小さな白い雲が
そうして、花に僅かな雨が降り注いだ。花に命を与えるはずのその雨は、一雫あたる毎に、花を萎れさせ、みるみるうちに枯らしていった。花壇に残っていた花は、全て枯れ落ちてしまった。少年は自嘲するように口の端をつり上げて、僕を見ようとして、視線をあげられないままに俯いた。
僕は、少年が罪を逃れられないことを悟った。
愕然としていた。魔力の質が変わったとでも言うのか。彼は確かに正しい魔法を使っているのに、その魔法が花を愛するのではなく、枯らしてしまうなんて。それを彼が喜んでいるとはとても思えなかった。どうして……どうして?
不意に、視界が曇った。胸が痛い。僕はひゅう、と細い息を漏らして胸を押さえた。
どうして? どうしてなんだよ。花魔法使いになれたってことは、君は花をちゃんと咲かせられたんでしょう? こんな……こんなのってないだろ。こんな悲しい魔法、あっていいはずがないだろ。
「そんな……無闇に枯らして……罪が重くなるよ」
震える唇で、僕がやっと言えたのは、そんなことだった。少年は首を傾けて、感情のない眼で僕を見た。
「いるだけで花が枯れるからね。今更……」
少年はそれだけを言って荒んだ目で笑うと、それからは何も言わなかった。
僕はそれ以上、何も言えなかった。
✝
僕達は彼を捕えた。戻るための陣を敷くにはこの区画には花が足りず、花なんか必要ないからと言う僕の言葉には誰も頷かなかった。『アズ様はお疲れのご様子でいらっしゃるから、お言葉ですが、花はやはり必要です』――部隊長に、厳しい眼差しでそんなことを言われた。僕は、彼の茶褐色の瞳を見上げながら、やっぱり大人と子供は違うんだなあとぼんやり考えていた。
僕が疲弊して見えたとすれば、それは僕にとって、花枯らしの少年の存在が深く心に突き刺さったせいだろう。少年の手首に手錠をかけようと誰かが言ったけれど、僕は首だけ振って、彼と手を繋いだ。彼は怪訝そうな眼差しで僕を見ていたけれど、僕の手を振りほどこうとはしなかった。彼に逃げる気はなかった。戦う気持ちさえ、もう手放したようだった。
僕達は、少年がまだ花を枯らしていなかった水銀通りの五丁目まで歩いた。そこで、淡い紫やオレンジ色、黄色や白、取れるだけの色彩の花を摘んだ。青い色の花はなかったから、紫色で代用した。僕は少しだけでいいと言ったのに、兵士達はやっぱり沢山の花を摘み取った。その間、花枯らしの少年は兵士に手錠をつけられ、僕から離れたところで力が抜けたようにしゃがんでいた。ふと僕は、この少年なら手錠を壊すくらいわけもないのではないかとさえ思った。けれど彼は、地面をじっと見つめたまま動かなかった。少年が近づくだけで、陣の周りに巻いた花さえ枯れてからからになった。僕は先に兵士達を送り出し、花枯らしの少年と二人で花のない陣を敷き、王宮に帰った。
少年が王城の庭に現れた途端、鮮やかに咲き誇っていた薔薇達が萎れて地面に花をぽとりと落とした。少年は警備隊に連れて行かれる間、唇が白くなるほどきつく噛み締めて、どこともないところを睨みつけていた。少年の姿が暗い王城の回廊に消える間際、彼は僕を睨んだ。けれど彼の視線は、彼を見つめ続けていた僕とはかち合わなかった。僕は彼の姿が見えなくなってから、そっと左の頬を撫でた。彼が見ていたのは――恨みがましく見つめていたのは、僕の花の紋だった。
今更帰城した勲一等の魔導士達が、僕に矢継ぎ早に質問を投げて来た。僕はへらりと笑ったまま、詳しいことはまだ僕の口からは言えませんと言った。彼らはそれで納得したようだった。事実、僕はまずモルダ室長に報告をしなければいけないのだ。勲一等レベルの彼らには、やがて同じ勲一等であるモルダ室長から話が伝わるだろう。
庭を立ち去る間際、僕が背を向けた土の上で、かさかさ、からからと音がした。勲一等の魔導士達が、枯れた花の種を再び芽吹かせていた――王宮は、花に満ちていなければならないから。
蘇っていく鮮やかな色の景色を端目で見つめながら、僕はなんだかおかしいと思った。
花枯らしの少年の苦しげな横顔が、目蓋の裏にこびりついて、離れなかった。
✝
「それで、どうだったのだ。聞けば穏便に罪人を捕えられたと言うことじゃないか」
モルダ室長の声にはっと顔をあげる。モルダ室長は茶褐色の目で僕をじっと見下ろしていた。その眼差しに、苛まれるような心地がした。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
ゆるゆると振り返ると、ウバロがやっぱり僕の後ろで待機していて、不安げな眼差しで僕を見守っていた。僕は目を伏せて、モルダ室長に向き合った。青磁のような白い壁に、窓から差し込む斜陽が帯状の影を垂らしていて、モルダ室長の口元から下は灰色に染まっていた。茶褐色の目だけが、爛々として燃える夕焼けのようだった。
僕は頬をつり上げ、にっこりと笑ってみせた。頬が痛かった。
「はい……。彼は僕達と同じ花魔導士ですが、彼の使う全ての魔法は花枯れをもたらし、術が強力であればあるほど魔法の有効範囲は広くなるだろうと予測されます。ただ、彼は一度禁忌を犯し、杖を剥奪されているとのことです。そのため、使える魔法は爪を媒介にした初歩的かつ有効範囲の狭い魔法のみであり、それがせめてもの救いでしょうか……今のところ、一番の脅威は、彼が――」
声が震えた。喉が詰まって、息が苦しい。モルダ室長は片眉を吊り上げた。
「どうした、続けろ」
僕は、へらりと笑みを深めた。
「彼が、存在するというだけで、周囲の花が瞬く間に枯れ落ちてしまう、と、いうこと、です」
僕は、爪痕に血が滲むくらい、腕に抱えた報告書の下で、手を強く握りしめていた。
こんな言葉を、吐き出す日が来るとは思わなかった。
こんなの……こんなのって、ないよ。
「ふむ、存在自体が世界にとっての脅威、ということだな」
モルダ室長は、髭に包まれた顎を撫でた。
僕はいっそう笑みを深めた。やり場のない憤りとか、よくわからない感情のせいで、足が小刻みに震えて、真っすぐ立っているだけでもやっとだ。
存在するだけで、罪人だなんて。そんな人間が、この世にいていいというんだろうか。それをどうして、こんな風に淡々と話さなければいけないんだろう。どうして誰も心を痛めたふりさえしないんだろう。爪の下で皮膚がぷちりと裂けた。僕は、ガチガチと鳴る歯と歯の隙間を空けて、唇を開いて、ゆっくりと息を吐いて、吸った。
暗い牢の中で、冷たい石の床に横たわり、僕に背を向け続けた彼の小さな背中が忘れられない。小さな格子窓から差し込む光が、彼の背中の一端を細く金色に照らしていた。彼はこれから、誰よりも不名誉な罪状を与えられ、処刑されるのだろう。生きているだけでどうしようもない罪人なのだ。
魔法だけが花を枯らすなら、魔法さえ使わなければいい。花の紋を焼きごてでつぶし、花魔法使いの資格を剥奪さえすれば、きっといつかは解放されるだろう。後は罪を償う努力を見せさえすればいい。それなのに、そこにいるだけで花を枯らしてしまうのなら、罪の償いようがないのだ。どうしてそんなことになってしまったんだろう。僕は、事務的な連絡を僕に伝え続ける室長の声を、上の空で聞いていた。
だってどうしようもないことなのだ。同じ花魔法使いだから、嫌と言うほどわかる。どうしてこんなことになったのか、きっと彼自身にもわからないのだ。たとえ牢につながれなかったとしたって、あの子はこの世界でこれからどうやって生きていけばいいっていうんだ。生きていけるわけがないじゃないか。そんなひどいことがあっていいんだろうか。
「……アズ君。アズ君」
「はい」
僕は、頭の中でゆらゆらと揺れていた僕の名前の音をようやく知覚して、室長に向き直った。モルダ室長はすっと目を細めた。
「先刻、件の罪人は以前別の罪で杖を剥奪されたと言ったね? 一体何をしたんだ。それが、魔力の変質に関係するということはないのか」
――罪人、ね。
僕は、さらりと言い放たれたその言葉に、心が灰を吹くのを感じた。
「とある花を、許可なく咲かせ、摘み取ったとのことです」
「ほう。何の花だね」
「それが、報告書には花の種類が記載されていません。本人は捨てたと証言しています。今回の件を受け、裁判人は彼が花を枯らして証拠を隠滅した可能性もあると見ているそうです。いずれにせよ……重罪です」
「花に関するあらゆる罪を重ねているようだな……しかし、それにしては杖を奪っただけとは罰が軽い。何か理由はあるのか? そのような罪人の話は私の耳に入ってはおらなんだ。……誰かが、水面下でもみ消したのか」
目の前が、薄青に染まっていた。室長と会話をするだけで、やり場のない憤りが沸々とわきあがって止まらなかった。それなのにすらすらと言葉が出てくる、笑ってばかりの自分にも吐き気がしていた。
「それ、が……」
僕は、言葉につまった。室長が眉をひそめる。
「なんだね」
「それが……少し複雑な事態だったようです。少年の出身地である水晶通りで医者をやっていたプレナという男が、彼に花を摘ませたのは自分だと証言したということです。とある少女の治療のためにそれが必要だったと……」
「なるほど、あの罪人の少年ではなく、罪は自分にあると発言したということだな」
「はい。ですがプレナはその後自害しており、真相は闇に包まれたまま、陛下はプレナを【墓無し】とし、少年は減刑となったとのことです」
「墓無し、か……むごいことだ。陛下はその広い御心で未来ある若者の名誉を優先されたのであろう。しかし……恩を仇で返すようなものだな、その真実は花枯らし、か」
モルダ室長は、何かを考え込むように瞼を閉じた。僕は笑った。
「室長。彼がかつて犯したであろう罪と、今回の件は別物だと思います。今の彼には花を咲かせることは出来ないのですから」
「いや、わからぬぞ。花を咲かせようとして、枯らしてしまったから誤摩化したのかもしれない。いずれにせよ罪は重いがな」
僕は、目を細めて笑みを深めた。
「それで、アズ君。君の見立てでは、彼の魔力はどういった状態にあるのかね」
モルダ室長は目を開いて、僕をじっと見つめた。
僕は目を伏せた。僕が握っていた書類は、角に深いしわが寄っていた。僕はそれを隠すように、書類の束を腕に抱え直した。
「花の紋があるということは、彼は確かにかつては花魔法を正しく使えていたということです。彼の使う魔法の術式、詠唱の仕方、魔力の密度には、どれ一つとっても綻びはありません。ですから恐らくは……彼が潜在的に持つ魔力の質に、何らかの変化があったと考えます。僕達人間は全て魔力を身体に蓄えており、自然体でも微弱な魔力を身体と言う器から放出している。恐らくは彼の変質した魔力が花とは相性が悪いために、彼が花の傍を歩くだけでも花が枯れてしまうのではないかと」
僕は唇を噛みしめて一度俯き、モルダ室長をまっすぐに見つめた。
「随分と優しいものの言い様だな」
モルダ室長は鼻で嗤った。
「柔らかな言葉を使わずともよい。罪人の魔力は、花に取って有害であると考えているということだろう? 原因はわからないのか。変質のきっかけは。罪人自身に、心当たりはないのか」
僕の頬から、笑みが消えた。
「報告書には記載されていません。本人は、心当たりはないと言っています」
モルダ室長は、僕の目をじろりと覗き込んだ。僕はにっこりと笑い直した。
心当たりがないというのは、嘘だ。そもそも僕は、あの少年にそれを尋ねてすらいないのだった。もし心当たりがあったとしても、なかったとしても、それを聞くのは彼の心の柔らかい部分に土足で踏み入るような真似だと思った。もしも僕の魔法が花枯らしの魔法に変わってしまったとしたら、僕だったらきっと耐えられない。そのまま生きているのも、誰かに追求されるのも。
僕の花の紋を見て「ビオラ」と呟いた彼の声も、僕の花の紋を睨みつけた彼の眼差しも、僕一人の心に留めておきたかった。それはただの、罪悪感に苛まれる僕自身のための、自己満足かもしれないけれど。
「彼の及ぼす影響も考え、早急に対処法を考慮すべきです。彼の体と魔力について詳細に調べ、解決法を模索するべきかと」
僕は室長の刺すような視線を遮るように言った。
「ふむ。しかし、王は処刑しろと仰っている」
モルダ室長は、あご髭を撫でた。
「何故です、か」
僕は震える声を抑えた。
「今、少年自身に心当たりはないのかとおっしゃったではないですか。彼の魔力の変質の原因を解明するおつもりではなかったのですか」
室長は思案するように唸った。
「無論、我々研究班としては、そう言った突然変異の魔力を調査することこそ、今後の発展につながると進言したのだ。また、同じような魔導士が現れぬとも限らない。しかし、陛下はおっしゃったのだ。世界に背反する魔法の存在を認めてはならない。その知識はいつかどこかで漏れ、ますます世界を脅かすだろうと。ならば存在ごとその事実を闇に葬るのが最善だと」
「そんな……」
足の感覚も、手の感覚もなくなってしまったような心地がした。目の奥だけが、ずきずきと疼いている。
モルダ室長は、再び目を閉じて静かに唸った。
「我々の研究の目的は、あくまでいかに花を美しく保ち栄えさせるか、この世界を豊かにするか、だ。一人の害悪を和らげることが目的ではない」
「でも、治るかもしれないじゃないですか」
「可能性だけでは物事は解決しない。また、人事を動かすのも難しい」
「可能性が無ければ研究の未来は袋小路です!」
気がついたら、叫んでいた。僕は、自分が出した声の大きさに驚いて、小さく息を吸い込んだ。うろうろと泳いだ目が、床の傷をぼんやりと捉えていた。
「私情を挟むな、アズ君」
室長は刺すように言った。目だけを上げると、室長の瞳には憐みが浮かんでいた。僕はもう笑うことすら出来ないまま、書類の下でぐっと拳を握りしめた。体が震えて、書類を抱えて踞るような、背中を曲げた格好になっていた。
「私情なんて挟んでいません」
僕はそっと書類の束を抱きしめた。
「否。私にはわかるぞ。君は研究の未来のために罪人の魔力を究明すべしと唱えているのではない。君が情を移した罪人を救いたいだけだ。人としては清き在り様だな。だが、花魔道士としては失格だ」
僕は言葉を飲み込んで、俯くと、室長に背を向けた。
「まだ話は終わっていないぞ」
「少し、……頭を、冷やしてきます」
「そうか」
室長の声を遮る様に僕は扉を閉めた。ウバロが縋るように僕を見た気がしたけれど、僅かな良心の呵責も扉の向こうに閉じ込めた。体中が滾るように熱い。こんな……こんなことをするために僕は花魔法使いになったわけじゃない。それが仕事だと言うなら、やめてやりたい。守るものが無かったら、僕だって……。
僕はその足で図書館へと向かった。ありとあらゆる過去の研究成果が収められている蔵書の宝庫。僕は灰をまぶしたようなくすんだ赤色の扉を開け、足音も気にせず中央の螺旋階段へと進んだ。勲一等階級でなければ立ち入れない、蔵書の棚へと続く階段だ。藍色の窓に金の格子が引かれたような床の上に、優美な曲線の影を落としている。僕の知りたい知識はそれ以下の棚にはない。僕の頭にある知識だけじゃ、あの子を助けられない。だから、僕は――
階段の三段目に爪先を触れたところで、不意にフードを優しく引かれた。
冷や水を浴びせられたような心地がした。のろのろと振り返る。
僕を捉えていたのは、青い影がかかる眼鏡の奥ですっと細められた、鮮やかな琥珀色の目だった。司書のスフェンだ。僕が目を泳がせると彼は目を伏せてふう、と小さく息を吐き、もう一度顔を上げて口の片側をわずかにつり上げた。艶のある海波のような長い黒髪は白いリボンで結わえられ、長く腰まで尾を伸ばしている。毛先は釣り針のように外に薄くぴんと跳ねていて、顔を上げたと同時に、仔馬のしっぽのように柔らかく揺れた。
「アズ様。そちらは立ち入りが禁じられています」
控えめに、けれど鋭い静かな声でスフェンは諭すように言った。僕は目を伏せた。睫毛が目にかかって、ふるふると震えていた。
怒りで頭がおかしくなっていたのかもしれない。でも、だからこそ自分の気持ちに正直だったのかもしれない。僕は階上で光を零す百合の形のシャンデリアを見上げて、流れるようにスフェンに視線を移した。
我ながら、酷く荒んだ表情をしていたと思う。けれど何も感じなかった。僕はそのままスフェンを見下ろして、首を振った。
「ごめん、ちょっと、考え事をしてたから」
「そうですか。思いつめるのはよくないですよ? 今のアズ様の顔、酷い顔でしたから」
スフェンは事もなげにそう言った。興味をなくしたように僕から手を離し、眼鏡を外して袖で拭く。
「少し、休まれたらどうです?」
眼鏡のレンズを眺めながら、スフェンは歌うようにそう言った。
「睡眠は足りてるよ」
僕は首を傾げた。
「そうですか。では寝なければいい。寝すぎなんでしょう」
スフェンのひょうひょうとした物言いに、少しだけムッときた。僕は音が立たない程度に深く息を吐いて、頭を振り、螺旋階段から降りた。スフェンは眼鏡をかけて、目にかかるような長い前髪を払った。
「ねえ、あの棚の書物を読むための例外はないの?」
「やはり読みたかったんですね。顔に書いてありました」
僕が階上を顎で指し示すと、スフェンはふん、と鼻で嗤った。僕はと言えば、相変わらずムッとした顔を緩められずにいた。
「例外はないですよ。あえて言うのであれば、国王陛下に直々に許可を頂ければ可能でしょうね。ですが、アズ様の今のご様子ではそれも難しそうですね」
僕は虚をつかれたように目を見開いた。
「どこまで……知ってるの」
「何も?」
スフェンは無表情のまま、首を傾けて腕を組んだ。しっぽのような髪の束が、またふわりと跳ねた。
「ただ、なんとなくそう思っただけです。そういきがらなくとも、アズ様は大罪人を捕えたとのこと、聞きましたよ? その名誉だけで、恐らくは次の会議にはアズ様の昇進が決まることでしょう。あと数か月の辛抱ですよ。罪人が処刑されればアズ様の名誉は確実なものになるし、歴史にも名が残るでしょうね。なにせ、実に変わった罪人の様ですから」
「それじゃ意味がない」
僕は唸るように呟いた。スフェンは片頬を緩めた。つくづく笑い方の下手な男だ。あるいは、わざとかもしれない。
「何か言いましたか?」
「何も……」
僕は深く溜息をついて頭を振り、「邪魔したね」と図書館を後にした。
痛みが疼き微熱を帯びた頭を抱えて、のろのろと歩いた。エメラルドのタイルを敷きつめた廊下が、今は果てしなく長く続くように感じられる。
勲二等だなんて、なんてお飾りだろう。
僕はこんな時、結局何もできないんじゃないか。
僕にとって大切なのはニーナだけだ。ニーナのために花魔法使いになった。目的は変わってしまったけれど、できることも少ないけれど、そのことには何の変わりもないんだ。僕はニーナのために名誉を得て、高い給金を貰って、働いている。ニーナのために働いて、……そしてニーナを今も一人ぼっちにしている。勲二等の王宮魔道士だなんて栄誉を得ても、こんな時罪人の一人助けてやれない。大人の仲間入りをして、責任が風船のように膨らんでいくだけ。僕がこの国のために出来ることは抱えきれないほど沢山あるのに、ニーナにしてやれるのは、稼いだお金で生活を支えることだけだ。それでニーナは幸せだろうか。僕は……本当に幸せなんだろうか。
そもそもあれが罪なのか? 僕は唇を噛んだ。きっと、どうしようもないことだったのに。あの少年だって、きっと花が好きだったはずだ。花が好きな誰かのために花魔法使いになって、その花を枯らすことしかできないなんて、誰が一番つらいと思っているんだよ、ばかやろう。なのに、それをただ罪だと責めたてることしかできないのか。そのための法律で、そのための世界だなんて。頭がずきずきと痛みを増す。目の前の景色が色を失って、靄がかっていく心地がした。涙腺が緩くなってしまったんだろうか。僕は片目を掴むように押さえて、歯の隙間から擦れた唸り声を零した。
心の中で、大事に汚さないようにとっていた真っ白なキャンバスが、無秩序にばらまかれた絵の具の雫でどんどん汚れていくような心地だ。そんな絵を描きたかったわけじゃなかった――この世界でも、まだ僕は、そんな絵を描いてしまうんだろうか。もう嫌だ。要らない色が滲む、なけなしの白い余白にすがって笑うだけはもう嫌だよ、耐えられない……ああ、もう、何を考えているんだろう、ぐちゃぐちゃだ。わけがわからないよ。わけがわからない……。
「ニーナ……」
喉の奥から、音が漏れた。僕はひりひりする喉をごくりと鳴らして、乾いた口の中にべたつく何かを飲み込んだ。
「どうしたらいい……どうしたらいいんだよ……」
また、発作なんだろうか。心が果実だとすれば、それが嫌な匂いを放ってどんどん腐っていく――そんな、諦め。しばらくそんな気持ちには苛まれないで済んでいたのに。ニーナがいないからだ。ここに、すぐ傍にニーナがいない、から、だ。
僕は震える手で、背に掛けていた魔法の杖を取った。花の茎を象った緑の柄。蕾を模した淡い花色の先端。それは、いつかニーナに見せたくて作らせた僕だけの杖だった。玩具みたいな杖だと笑われたことさえある。王宮の高位官僚ともなれば、シンプルで厳かな上等の細い金の杖を使うものなのに、僕はただニーナに見せたいと言うだけの理由で、子供のおもちゃみたいな材料で、僕が初めて咲かせた花と同じ杖を作ったのだ。それなのに、この杖をニーナに見せたことはまだ一度だってない。僕達は一体どれだけ会えていないだろう。それでね、ニーナ。君を置いてけぼりにして、頑張っているのに、僕は初めて助けたいと思った人の救い方もわからないんだ。
胸が痛い。熱くて焼けているみたいだ。ぼろぼろと灰が舞って、僕の周りに纏わり付いているみたいだ。苦しい気持ちが離れていかない。目の前は、灰色にぼやけたままだ。
僕は杖をぎゅっと握りしめたまま、踵を返して、地下牢への階段を駆け下りた。銀灰色の小さな石の扉を押して開く。一番奥の柵の奥で、少年は未だじっと床に横たわっていた。僕が柵に触れると、銀の腕時計が当たってキン、と小さな音を立てた。その音に少年は僅かに顔を上げ、僕の姿を目の端で捉えて、視線をまた床に戻した。格子窓から注ぐ金色の光の筋は、少年の首を横切って、まるで縄の痕みたいだった。
「痛くないの? そんな恰好で」
僕が話しかけると、少年は唇を爪で引っ掻きながら、鼻を鳴らして嘲った。
「別に」
「ねえ、」
「なんだよ」
「君の名前は? そう言えば、聞いてなかったと思って」
少年はちらりと瞳だけをずらして僕を見た。
「聞いて何かなるの? 僕はどうせ殺されるんだろ」
処刑、でも、処分、でもなく、殺されると言うその生々しい言葉に、僕は喉が詰まる想いがした。
「それでも……名前を憶えておきたいよ」
口の端に、へらへらとした笑みが浮かんだ。泣きそうだ、と思った。いつぶりかはわからないけれど、みっともなくここで泣いてしまいそうだった。
「はあ……ほんと意味わからないね。僕のことは散々調べ上げたんじゃないの。名前くらい、どこかに載ってただろ」
「
「は……なるほど、罪人は名前で呼んでやる価値もないってわけだね」
少年は笑ったような口の形で、ぽつりと擦れた声を漏らした。柵を握っていた僕の手が、さらさらと音を立てて下にずれ落ちた。
――助けたいよ。
僕は震える声で呟いた。少年は眉根を寄せて上半身を起こし、僕を呆れるように見つめた。
「何、まるで泣きそうな顔してんの」
「実際に泣きそうなんだよ……」
僕はお腹を抱えるような体で、背中を曲げた。苦しかった。吐きそうだった。目がゆらゆらと揺れて、灰色の石床の輪郭がぼやけて見えた。
「はあ、本当、変な人だね」
少年は静かな声でそう零し、凪いだ目で僕をまっすぐ見つめた。
「ユーク」
僕は唇を僅かに開いて、閉じた。柵に押し当てた指がふるりと震えた。僕はもう一度ゆるゆると唇を開いて、擦れた声で呟いた。
「ユーク?」
「うん。僕の名前。ユーク=レイシー」
「僕の名前も言っていい?」
僕がへらりと笑うと、ユークは深い蒼の眼を揺らして、目を伏せた。足の上で指を組んだ両の掌をぼんやりと見つめながら、肌を撫でるように指を動かしていた。
「お好きにどうぞ。あんまり未練は作りたくないんだけどね」
その言葉に胸が締め付けられるような心地がしながら、僕は呟いた。
「僕は、アズ」
「うん」
ユークはそれ以上何も言わなかった。
僕達はそのまま随分と長いこと見つめ合っていた。やがて僕の喉からくつくつと音が零れ出すと、ユークは気恥ずかしそうに掌からも目を逸らして、眉根をぎゅっと寄せた。
「また、来るね」
ユークは何も言わなかった。僕は自分で狡いと思った。
――きっと、助けるから。最後の最後まで、努力するから。
僕はまっすぐに石の扉を見据えて、押し開いた。白い光が射して、帯の幅を広げていく。
カビ臭い牢屋から出た途端、鼻腔をどことなく香ばしい匂いがつついた。僕ははっとした。鼻までおかしくなったわけがない。これは、燃える灰の香りだ。僕は辺りを見回した。廊下には暗い靄が漂っている。錯覚なんかじゃなかった。
灰吹く心をもてあました僕の目の前に、炎が広がっている。小さなカビが広がるように、床と壁の隙間を縫って、赤橙の光を帯びた墨の色が、どこかへ向かっている。
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