十二、青菫と白菫
僕の妹の話。
物心ついた時、僕と妹は小高い丘の上の、大きな岩の上に二人で手をつないで腰かけていた。辺り一面の瑞々しい緑と、その合間に揺れて咲き誇る菫――
その時僕は、自分の名前がユーク・レイシーだと当たり前に知っていて、隣にいる女の子がアイオ・イオラという名前だということも、この子が僕の妹なんだということも、ちゃんと理解していた。それなのに、僕達はそれ以外のこと――例えば、僕たちの親のことを何も知らなかった。子供がいるなら親がいるはずなのに、いたと言う記憶さえないし、それまでの記憶がまったくなかったし、なぜこの岩の上に座っていたのかもわからない。けれど、不思議とそれを怖いとは二人して思わなかったのだった。だって僕には妹がいて、妹には僕がいるのだから。
僕達は二人で丘を下って行った。道はぬかるんでいて、足がたくさん汚れた。その間、僕達は手を離さなかった。丘を降りたのは、お腹がすいていたからだ。自分達に家がないことも理解していたし、僕達はお金も持っていなかった。けれど、誰かが食べ物を恵んでくれないかなって、そんな淡い期待があった。隣でアイオのお腹からきゅるきゅると音が聞こえてくる。自分も具合が悪くなるくらい飢えていたし、早くアイオに何か食べさせてあげたかった。アイオの手首は、折れそうなほどに細かったのだ。
僕の願いどおり、街に降りるとたくさんの高価な服に身を包んだ人たちが僕たちの周りを取り囲んで、お腹がすいたの、とアイオが言ったらたくさん食べ物をくれた。「菫だ! 菫の化身がやってきた!」と人々は歓声を上げていた。僕たちにはそれが、よくわからなかった。なんでも、人々が住むこの住宅街、丘の下の街並みには、真っ白な菫が咲くんだという。昔は青紫色の美しい菫が咲いていたのに、ある時からそれは色褪せ、人の周りには白い菫しか咲かなくなったって。それと同時に、菫のように青かった人々の目も、緑色に色褪せていったって。
僕とアイオのような暗い青の目を持つ子供が、紫菫の咲く丘で目覚め、人の里に下りてきたから、彼らは僕たちのことを菫の化身だと思ったみたいだ。僕にはよくわからなかった。白い菫だって十分綺麗だ。アイオの髪の毛みたい。白金色。……と言っても、街の人達だって、みんな僕とアイオと同じ、白金色の髪をしていた。
不思議なことに、僕は何度出会っても、何度食べ物をもらっても、街の人達の顔を覚えることができなかった。白金色の髪と、淡い緑の目を持っていることだけは分かるのに、どうしても顔を判別できない。そのことに、僕の心には次第に不安感が積もっていった。アイオがそのことを、どれだけ気にしていたかはわからない。アイオはそういう、弱音みたいなことを吐かない子だった。むしろ僕の方が愚痴が多くて、しょっちゅうぐずって泣いていたような気もする。僕は、埃の積もった暗い路地裏で、汚い恰好でアイオと二人で施しを受けながら暮らすことに、苦しいくらいの不満を抱え続けた。舌打ちのくせは、いつからだったからかはわからないけれど、その頃からずっとある。僕はあまり、我慢が上手くない。
僕にとっては、アイオが全てだった。アイオの顔だけがわかる。次第に妄想が度を越して、ある日突然アイオの顔までわからなくなったらどうしよう、とまで思い始めた。だから僕は、あの頃もうぎりぎりだった。いつ気が狂うかわからなかった。荒れることも多かったし、食べ物を恵んでくれる人々の顔を睨みつけたりもした。街の人達は、僕のそんな失礼な態度にも、すごく寛大だった。菫の化身だとは言いながら、彼らにとっては僕たちは気まぐれに愛護すべき野良猫みたいなものだったのかもしれない。アイオは時々、「もう、おにいちゃん! あんな態度はだめでしょ!」と腰に手を当てて眉をつり上げた。そして決まってその後に、僕の頭を撫でた。これじゃどっちが年上かわからない。
プレナという、僕たちよりも背がうんと高い男の子が僕たちを迎えに来たのは、何度目かわからない肌寒い夜を終えた、白い朝焼けの頃だった。僕にとって、プレナはアイオの次に顔を認識できた初めての人だった。白金色の髪を顎のあたりで切りそろえ、睫毛にかかるほど前髪を伸ばしていた。目は透き通るような淡い緑で、いつか街の人にもらった葡萄の、皮を剥いた中身の色みたいだと僕は思った。プレナは、【名持ち】の僕たちを迎えに来たのだと言って、二人まとめて頭を撫でてくれた。その骨ばった大きい手に、どうしようもなく安心して、僕は泣いてしまった。泣きだしたら止まらなくて、僕はプレナに今までの不満を嵐のようにぶちまけていた。他の人にはみんな親がいるのに、僕らの親がどこにいるのかわからないこと、覚えてすらいなくて、帰る場所もなくて、ずっとこの汚い路地裏で寒かったこと。埃にアイオが咳込むのを見ているのが辛かったこと。施しを受けないと生きていけないのが辛いこと。アイオは絶対に可愛いのに、まともな服も着せてあげられなくて悲しいこと。食べ物をもらってももらっても、お腹がすいてたまらないこと、喉はいつも渇いてること。アイオがいつも咳をしているのが、心配でたまらないこと。
その言葉の全てを、プレナは黙って聞いていた。目尻の垂れた彼が目を細めると、それはすごく優しい表情に見えた。いつの間にかアイオも僕につられて、わんわん泣いていた。僕たちはまた手をつないで、ぐすぐすと鼻を鳴らしながらプレナと一緒にプレナの家に行くことになった。白木の丸太造りの、小さな家へ。
それからは、プレナが僕たちの親代わりになった。年は親と言うほどには離れていなくて、むしろ兄と言った方が正しかった。プレナは、僕達三人は、この街でたった三人の【名持ち】だと言った。他はみんな【名無し】で、名前を持たず、彼らの顔を覚えられないことは決しておかしいことではないこと、そういうものなんだって。僕はその時、その話を聞いてただほっとしていた。なんだ、ぼくがおかしかったわけじゃないんだなって。僕は、僕が抱えていた不安を、苦しさを、プレナも同じように抱えていたかもしれないこと――それも、僕なんかよりもずっとずっと、長い間、そんなことを、思い至ることができなかった。
プレナの家には、たくさんの絵が飾られていた。色んな花の絵だった。世界中をあちこち巡って、そこに咲いている花を一輪、スケッチしたのだという。小さい絵が小さな額縁のなかに納められて、壁に沢山飾りつけられている。それを、アイオはすごく喜んで、あれは何、ってプレナに一つ一つ聞いて回った。それを教える時のプレナは、泣きそうな顔をしながら笑っていた。僕はそんな二人の後姿を、床に座ってスープを皿から飲みながら、ただじっと眺めていた。プレナが旅をしていた理由を、僕自身は一度も聞いたことがない。それを僕に教えてくれたのは、アイオだ。同じ【名持ち】が、どこかにいないかって探していたらしい。だから街に戻ってきて、アイオのことを知って、絶対に花嫁にしようと思ったんだって。
アイオは多分、花嫁の意味をよくわかっていなかったと思う。その話を聞いた途端、僕はなんだかいやな気持ちになった。それから、僕はプレナに対して少し噛みつくような物言いをするようになったのだと思う。それと同じ頃に、僕はこの家での暮らしに違和感を感じ始めた。
プレナは、僕にも上等の服を着せてくれた。食べ物も作って、与えてくれた。プレナの作る料理はおいしかった。次第にアイオも料理を覚えたがって、プレナと一緒に台所に立つようになった。それ自体は構わない。アイオが楽しそうだし、プレナも嬉しそうだから。だけどいつしか、僕は床でものを食べて、アイオとプレナはテーブルの端で椅子に座って食事をするという、奇妙な構図ができあがっていたこと。
最初は、アイオも僕の隣で床に座って食べていた。それは僕たちにとって普通のことだった。けれどある時から、プレナはアイオに椅子に座ってと言うようになった。僕は、スプーンを咥えながらプレナが僕にもそう言ってくれるのをずっと待っていたのだけれど、プレナは僕には絶対に言ってくれなかった。段々僕も意地になって、自ら床にへばりついた。アイオはずっと僕のことを気にしていた。テーブルの上で、プレナはアイオにテーブルマナー、お作法ってやつを教え始めた。だからアイオは、いつしか人並みの、普通の食べ方ができるようになった。僕は意地でも、プレナがアイオだけに教えたことなんて聞かない振りをし続けたから、いつまで経っても汚い食べ方のままだった。
服をもらえただけ、お風呂に入らせてもらえて、食べ物も与えてもらえる、それだけで僕は、充分にプレナに恩があった。だけど、段々僕の中で、これは僕にとって、今までの暮らしとどう違うのだろうなんて気持ちが膨れ出して。これじゃ、施しを受けているのと変わらないじゃないかって。僕は、少しだけ小奇麗になっただけの、野良猫のままだ。アイオが可愛くなっていくのは嬉しい。でも、僕だってプレナのことが好きなのに、アイオと同じように扱ってもらえないのは悲しい。アイオと僕は、兄妹なのに、って。
プレナの態度は、年々ひどくなっていった。僕がそこにいることも無視しているみたいだった。どうしてそんなことをするのか、僕にはわからなかった。アイオはずっと、僕のことを気にしていたけれど、僕の中で燻ったまま炭になってしまったこだわりは、自分からプレナに声をかけることを許さなかった。アイオはベッドで眠るようになったのに、僕はずっと、箒や塵取りの散らばる物置で眠っていた。アイオの咳はずっと治らなかったので、アイオが綺麗なベッドに眠ること自体は、僕は嬉しかった。だけど、自分の体の中を這いずる変てこな気持ちは、全然なくならなかった。目の奥ばかりが熱くなって、体は発作的に指先から冷える。僕は、苛立って、荒れて、同じくらい一人で落ち込んだ。鼻の中は埃まみれで、いつも気持ち悪かった。ある時アイオが僕に怒って――怒ってと言っても、眉をつり上げるだけで全然可愛いものだったんだけど――部屋を掃除しようと言った。僕には掃除をするという発想さえなかった。また咳が酷くなったアイオを追いやって、自分で物置をやっと掃除した。外から帰ってきたプレナが僕を見て、言った言葉が、「箒の先の埃は、ちゃんと取って捨てておけよ」。僕は、本当に久しぶりに、プレナが僕にかけた声を聴いた。悲しかった。無性に悲しくて、ものすごく腹が立った。
プレナにとって、僕は目の上のたんこぶ、いらないおまけだったって気づいたのは、いつからだろう。
僕の身体が狭い物置には入りきらないくらい大きくなった頃、プレナはアイオの頭に白い菫の花冠を乗せた。花冠と言っても、本物じゃなくて造花だった。僕は、最初それが造花だと気づかなくて、白い菫じゃなくて、丘の上から紫色の菫を摘んでくればいいのにと思った。アイオにだったら似合うのにって。
「アイオ。この花はね、僕の花なんだ。僕が生まれたから、この街は菫の色を失った。でもね、僕はこの白菫も好きだよ。お前は、この白菫もきれいだって言ってくれたよね」
プレナの声は、弾んでいた。僕は、テーブルの影に隠れて床に座りながら、不快な気持ちになった。アイオが白菫を綺麗だと思っていたことは知っている。でも、それを先に言ったのは僕だった。つまり、その気持ちは僕たち兄妹が、同じだけ抱えたものだ。なのに、僕にはそういうの、くれないんだなって。まあ、お花なんてもらっても、だけど。
「これをあげる。お前には似合うよ。その青い目が、白にすごく映えるね。ずっと僕の傍にいてくれる? 僕達、もういい年だしね」
プレナは甘い声でそう言った。僕は、成り行きをじっと、椅子の背の柵の隙間から見ていた。二人の姿は窓から差し込んだ淡い光に照らされて、白金色の髪が静かに煌めいていた。そうしたら、アイオが不意に僕を見た。不安そうに瞳を揺らして。まるで、助けて、と言っているみたいに。
「あの……その、わたし、わたし達、ずっと離れないよ? ちゃんと、あなたの傍にこれからもいるもの」
アイオはぎこちなく笑った。プレナは目をゆるゆると見開いて、自分と目を合わせないアイオの視線の先を追った。
僕の目と、プレナの目がかち合った。
その時の、蔑むような、憎んだような眼差しを、忘れることができない。
プレナは、数年経ってようやく、僕をこの家に迎え入れてからようやく、久しぶりに僕を僕として認識した。……もしかしたら、初めて出会った時から、プレナの目に僕は映ってなかったのかもしれない。僕は、どこまでもプレナにとってはただのおまけだった。アイオを迎えに来たら、付きまとっていた邪魔なお荷物だった。
その日の晩、プレナは冷え切った目で、床で食事をとる僕を見下ろして、ぽつりと呟いた。
「ほんと、犬食いだね」
その時の僕の、気持ちと言ったら。
初めてかけてもらった言葉は、僕自身にやっとかけてもらえた言葉は、そんなものだった。
僕は、プレナの家を出ようと思った。ここに居る限り、僕はプレナのことを憎んでしまうし、プレナも幸せになれない。アイオだって、ずっと僕のことを気にしていなきゃいけないのだ。
まだ日が昇る前にそっと家を出て、どこに行こうか考えた。また施しをもらいながら暮らすしかないのかなあと思った。僕には、お金の稼ぎ方さえ分からなかった。ちゃんと、プレナに教えてもらえばよかったと、その時初めて後悔した。我ながら、遅すぎる後悔だと思う。
でも、施しを受ける生活なんて、生まれた時から今までずっとなのだった。全く変わらないな、と思ったら、なんだか力が抜けた。僕は行く当てもないまま、最初の場所――紫菫の咲く丘へ、無意識に足を進めていた。
そこには変わらず、青紫色の花が咲いて、揺れていた。随分と頼りない花なんだなあと、景色を眺めながら僕はぼんやりと考えた。あの頃には寝そべることも出来そうだった大岩が、今は人二人やっと座れるくらいの小さな岩にしか見えない。僕は岩に腰かけて、ぼんやりとしたまま水色の朝霧に包まれた街並みを眺めた。
そのまま、少しうとうととしていたのかもしれない。肩と腕に、じわりと染みこむような温かさが広がる。その温かさに擦り寄って、僕ははっと我に返り目を覚ました。
「おはよう、おにいちゃん」
鈴が鳴るみたいな、可愛い声が聞こえて、僕は声も出ないまま頭をゆるゆると持ち上げた。アイオが、隣に座っている。外に出ちゃだめって、プレナから言われているのに。
「この岩、狭いね」
アイオは嬉しそうに笑って、僕にもっと寄り添った。
「うん」
僕は、ぼんやりとしたまま頷いた。二人で、一緒に街並みを見下ろした。黄色の屋根達が輝いて、霧の中に滲んでいる。
「おにいちゃん、これからどこへ行っちゃうの」
僕は、いつの間にか繋がれていた手をぼんやりと見つめた。僕は小さく息を吐いて、正直に答えた。
「決めてない」
「だろうと思ったなあ」
アイオは寂しげに笑った。
「じゃあ、おにいちゃんが、わたしの代わりに色んなお花見てこられるね」
「うん……まあ」
僕は笑った。
「お前、プレナの描いた花の絵は好きなんだね」
「うん。綺麗だったもの。わたしも見に行きたかったなあ。そんなお願いなら、いつだって喜んでうなずくのに」
アイオは目を閉じた。
「プレナはちょっと、まだわたしのことわかってなさすぎだと思うの」
「うん」
「わたし、あの家にいるよ。おにいちゃんにはついてかないよ。おにいちゃんも、それを望んでるよね。知ってるもの」
「うん」
僕は頷いた。
その時まで、僕はやっぱり、プレナのことを嫌いにはなれなかった。プレナの蔑んだような眼差しが忘れられないのと同じくらい、僕にとっては、僕の頭を撫でてくれたプレナの手の温もりも忘れられないのだった。ずっと覚えていたいくらいなのだ。絶対に、もう本人には言ってやらないけど。
「あのね、おにいちゃん。
「この菫じゃなくて?」
僕は、爪先で足元の菫を一輪、つついた。アイオは笑った。
「それも好き。好きだけど、ビオラは見たことがないからもっと好き。ねえおにいちゃん。わたしの代わりに見て来てね。それで、できたら……一輪摘んで、持ってきて。触ってみたいの。三色の花弁、ちゃんと抱きしめたいの。わたし、まだ子供だから全然わからなかったの。どうしていいかわからないの。でも、その頃までには頑張って強くなるよ。これね、おまじないみたいなお願いなの。それで、その時には――」
アイオは喉を詰まらせた。アイオはそれっきり、言葉を切って黙ってしまった。ぎゅっと強く握りしめられた手を見つめながら、僕も、それ以上の言葉の続きを聞かなかった。
僕にとっては、僕さえいなければ、アイオが人並みの暮らしをして、可愛い服を着て、笑ってくれているならそれでいいんだ。
僕たちは、太陽が空の真ん中に昇る前につないだ手を離して、お別れした。いい加減早く帰らないと、プレナが探しに来るかもしれない。僕は今の僕の幸せな顔を、プレナにだけは見られたくなかった。アイオは、ずっと片腕に抱えていたジャムの瓶を僕に手渡した。「葡萄のジャムだよ、作ってたの。砂糖たくさん入れたからね!」と言って。まだ瓶は温かくて、きっとアイオはろくに味見もできなかったんだろうなと思った。案の定、あとで一人で舐めてみたら、全然甘くなかった。僕は丘を下り、小さな瓶を抱えて一人で泣いた。アイオは僕が、葡萄が好きだと思っているだろう。でも僕が葡萄を好きなのは、葡萄を食べるときは僕もアイオもプレナも、汚い食べ方しかできなかったからだ。皮をむいて、爪をべとべとに汚して、口の中の種を抓んで吐き出して。アイオにはきっと、そんな気持ち一生伝わらない。伝えられない。伝えたくもない。
それからしばらく道を彷徨って、僕は音晶通りに辿りついた。いつか、って言われたのに、真っ先に目指してしまったのは、僕がそれ以外の拠り所を持たなかったからだ。花壇に咲き誇るビオラの花は、真ん中の模様がまるで顔みたいで少し怖かった。僕はそっと指を伸ばして、それを摘もうとした。水色と、黄色と、紫色の花弁を一枚ずつ持つ、小さな花を。
そうしたら、通りすがりの大人に止められた。その男の人は僕を怒鳴った。僕は飛び上がるほどぎょっとして、その人を見あげることしかできなかった。その人も【名無し】なのだろう。目の色が青で、髪が茶色で。それだけは分かるのに、顔の特徴はよくわからなかった。その人は、花は摘むものじゃなくて、摘んではいけないものなんだと何度も繰り返した。捕まるぞって。僕は、そんなことプレナからは習わなかったなあとぼんやり考えた。あるいは、アイオはちゃんと知っていただろうか。知っていて、それでも僕に託したんだろうか。いや、知らなかったかもしれない。僕は今まで花を摘もうだなんて、考えたことすらなかった。花は摘むものだなんて考えすらなかった。僕が花を摘もうと思ったのは、アイオに頼まれたからだ。だとしたらアイオだって、そう考えたのは僕が離れていくことになってしまったからだ。僕たちは、花を摘むことでよすがを得ようとした。始まりは二人だったのに、もう二人ではいられない。
僕は、よほどきょとんとしていたのだと思う。お説教をしていたその男の人はやがて頭を掻いて、僕の家を聞いた。僕は帰る場所はないと言った。結局その人は僕を家に呼んでくれて、しばらく世話をしてくれたのだった。優しそうな声の奥さんもいたけれど、僕はその人の顔もやっぱり覚えていない。
花がほしいなら、花魔法使いならあるいは、できるかも、なんて、男の人はそんなことを言った。僕はあまり深く考えずに、そうなんだ、と思った。僕が花魔法使いになりたいと言ったら二人は喜んで、僕が学校に入れるように世話をしてくれた。僕は学校の寮に入って、文字も読めないし相変わらず食べ方は汚くて、周りを嫌がらせてしまった。けれど魔法の勘はよかったらしい。僕は早くに花を咲かせることができて、あっという間に卒業になった。先生たちの前で咲かせた勿忘草は、小さな花束がやっと作れるだけの数でしかなかった。先生たちは感心したみたいな声を漏らしてくれたけど、僕はすごく残念だった。これっぽっちしか咲かせるようにならなかったなあって。その時の試験官の先生の顔も、よく覚えていない。
筆記試験の成績がよかったわけでもなかったから、卒業後の仕事の誘いもなかった。僕は、額の勿忘草の紋を撫でながら、また音晶通りへ赴いていた。花魔法使いの資格を得たけれど、特にこれと言ってすることもない。学校に残って、生徒たちに魔法を教えるか、王宮の役人になるか。それか、時々要請されるだけの、普段は他の人と変わらない一般人に戻るか。僕は、選んだわけじゃないけれど三番目に落ち着くのかもしれなかった。学校で嫌というほど習ったから、勝手に花を咲かせたり種を採ったりしてはいけないって知っていたけれど、僕にとってはどうでもよかった。僕は、誰もが寝静まった夜を狙って、ビオラの花壇の一角を魔法で枯らして、ビオラの種を取った。
そのまま、故郷へと足を延ばした。手紙すら出していなかったから、アイオは僕の額の紋を見たら驚くかもしれない。この紋もビオラだったらよかったのになあと僕は苦い気持ちを噛みしめた。あるいは、
プレナの家にたどり着いた時、妙な感覚がした。体の半分がふわふわと浮き上がるような。重さがなくなって、しびれてしまったみたいな。家の明かりはついていなくて、真っ暗だった。まだ昼間なのに、変だなと思いながら僕はドアをノックした。誰も出てこない。しばらくとんとんと叩き続けて、アイオの名前を小声で呼んだ。「いないよ」と、疲れたようなか細い低い声が聞こえてきて、僕は反射的にドアを蹴り破った。
床の上に、プレナが転がっている。白金色の髭がぶつぶつと生えている。転がった瓶の山、酒の匂い、腐った食べ物の匂い。壁に飾られていたはずの額は、全て外されて床に投げ捨てられていた。プレナは僕を目だけ動かしてじっと見上げた。淡い緑の目の中に、僕の顔だけが大きく歪んで映っている。
そのまま瓶を蹴散らしながら、僕はアイオの名前を呼んで家じゅうを探した。けれどアイオのベッドは、布団が綺麗に畳まれたまま、埃をかぶっていた。僕は床で寝返りを打ったプレナの胸座を掴んで、ぐらぐらと揺さぶった。プレナは焦点の合わない目で天井の染みを見つめていた。腕をゆるゆるとあげてそれを指さし、ぱたりとまた腕を下ろした。
名前を怒鳴ったら、プレナはようやくもう一声零した。アイオは死んだって。死んじゃったって。もういない、そんなことを。
その時の、僕の、気持ちと、言ったら。
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